第四十七話 上演の時/琴音サイド
いよいよ上演の時間。幕が下がった舞台上には、既に舞台セットが配置されている。予算が少ないので見た目はそれほどよくはないが、これはこれで学生らしくていい塩梅なのではないだろうか。下手に私が私財を投じたところで、専門の業者ではない彼等では扱い切れなかっただろうし、個人的にはそこまでして人気投票で勝ちたい訳でもない。私としては、亮輔君と『ロミオとジュリエット』を演じられるのであれば、舞台セットが安かろうが問題ではなかったのだ。
同じく舞台袖に控えている亮輔君に目を向けると、彼は緊張のせいか顔面蒼白で、今にも倒れそうな有様だった。先ほどご両親と合流した時はにこやかに対応していたのに、今は見る影もない。私とて緊張はしているものの、殊人前に立つという点において、私の経験値は彼を大きく凌駕している。目の前に何千、何万の人がいようが変わらずに対応出来る自信があった。しかし、亮輔君はそうではない。高校デビューに失敗してから半年。ようやく人前に立つという経験をし始めたばかりだ。それが不特定多数の人間の目に触れる状況に陥ったことで、キャパシティーをオーバーしたのだろう。
それでも、亮輔君は私がこれと認めた唯一の男性である。いずれは私の隣に立ってもらうのだから、このくらいは早々に乗り越えて欲しいところ。私は少し考えてから、亮輔君に声をかけた。
「大丈夫? 亮輔君」
顔を覗く込むように屈みながら話しかけると、亮輔君の視線が私に釘付けになる。
「あ、ああ、うん。ちょっと緊張し過ぎちゃって」
これはもしかしたら私に見惚れているのか。確かに、外見にインパクトを持たせるため、いつも以上に念入りにメイクをしたし、一番お金がかかっているという衣装を、ばっちり着こなしているという自覚はある。それでも、亮輔君が私を見て目を輝かせている様は心地よく、気分を高揚させるには充分であった。
「あ、もしかして私のドレス姿に見惚れちゃった?」
亮輔君の頬に赤みが差す。これは図星だ。しかし亮輔君は必死にそれを隠そうと、話を逸らそうとした。
「皇さんなら、こんな間に合わせの衣装よりもずっと高価なドレスを着てるでしょ?」
「そりゃ~、まぁ、実家にいた時は親の都合でことある毎に着てたけどさ。あれ、あんまり好きじゃないんだよね。他人に媚び売ってるみたいでさ」
確かに、社交界に出る時は高価な衣装に身を包んでいる。普段はつけない香水だって使うほどだ。でも、高価なドレスを着ている時の私は、私個人と言うより皇の娘。そこに私個人の人格は、然程必要とされていない。
「でもこの衣装は好き。何て言うか、みんなの気持ちがこもってる」
「オーダーメイドの豪華なドレスよりも? あっちだって職人さん達の思いがこもってると思うけど」
「う~ん、それはそうかもだけどさ。一致団結って感じじゃないじゃん?」
私はどちらかと言うと、こういう手作り感に弱いのである。例え生地が安くても、裁縫の技術が拙くても、みんなが一生懸命に作ってくれたこのドレスは、私にとっては唯一無二のものなのだ。
「みんなで作り上げた衣装を着た私に、亮輔君が見惚れてくれるなら、これ以上に嬉しいことはないよ」
これはもちろん本音ではあるが、多少の打算も混じっている。こう言えば人のいい亮輔君は、クラスメイト達の思いを無碍には出来ず、感想を口にするだろうと踏んでいたのだ。
そして案の定、亮輔君は小声でこう呟いた。
「すごく似合ってる」
「本当? わぁ~、嬉しいな。亮輔君に自分から服装を褒めてもらったのは初めてだから、今日は記念日だね?」
「大げさだよ。それに俺、そういうの覚えるの苦手だし」
玖珂崎さんは記念日の類を重視するタイプではないし、亮輔君がその手のことに疎いのは想像がつく。しかし、そんなことを気にする必要はない。私は亮輔君を手放すつもりはないのだから、こちらが記念日を覚えていれば済む話。そして話題にさえ出せば、付き合いのいい亮輔君はそれを捨て置いたりはしないのだ。計画は完璧。抜かりはない。
「大丈夫。私が憶えてればいいんだから。これからは毎年この日は飛び切りおめかしして、亮輔君に褒めてもらう日にしよう?」
この場に来年のスケジュール帳があれば、真っ先に記載していただろう。流石に今着ている衣装にはそんなものを収納するポケットの類はないので、すぐには無理な訳だが。時期的にそろそろ新年分が出回ってくるはずなので、後で新垣に言って取り寄せよう。
そうこうしているうちに、開演五分前を告げるブザーが鳴った。体育館に満ちていた喧騒が徐々に静まり、始まりの時が近いことを告げる。
「皇さん! 位置についてもらえる?」
裏方担当の男子生徒に声をかけられ、私は声のした方に顔を向けた。
「わかった~」
返事をしてから、改めて亮輔君に向き直り、ウインクをしながら念を押す。
「記念日のこと、約束ね?」
亮輔君の顔からはすっかり緊張の色が消え、ただただ私を見詰めるだけ。本当はもっとこの時間を続けていたいが、今は上演に向けた準備をしなければならない。名残惜しいものの、私はその場を離れ、所定の位置に着いたのだった。
開演を告げるブザーが鳴る。最初は時代背景やモンタギュー家とキャピュレット家の関係をナレーションで語り、その後は最初のロミオ出番。ジュリエットに出会う前のロミオが、ロザラインへの想いを独白するシーンだ。
暗転した舞台の上。亮輔君がジッとナレーションが終わるのを待っている。しかし、そう思ったものその瞬間まで。急に亮輔君の雰囲気が変わった。何というか。あれはロミオだ。亮輔君ではない。今まではどこか素の亮輔君が一生懸命演技をしている印象だったのに、この期に及んで一気に化けた。
これは余裕をかましている場合ではない。私がしっかりしないと、彼に食われてしまう。私は私で全力を出さなければいけないようだ。
「やるね~。亮輔君」
さて、そういう訳で、私が皇琴音でいるのはここまで。今から私はジュリエットになる。後は他のキャスト達が、感化されて練習以上の演技をしてくれることを祈るばかりだ。
そして物語は終盤を迎える。ティボルトを殺めた罪でヴェローナを追放されてしまったロミオと再び一緒になるべく、ロレンス神父の知恵を借りて仮死毒を服用した私。真っ暗な闇の中、私は目覚めの時を待つ。
「やっと会えた。ねえジュリエット、二人はいつまでも一緒だって言ったじゃないか。あんなに暖かかった体が、こんなに凍りついて。ねえ、お願いだ、もう一度瞳を開いてくれ、もう一度僕を呼んでくれ。二人でどこまでも行こうって約束したじゃないか。橋の上で始めて逢って、舞踏会場で運命の再会、君が僕の名前を呼んでくれて、幸せに浮かれ騒いだ。そして僕達は誓いを立てて、二人で教会の鐘を聞いた。間違ったことなんて何もないのに、どうしてこんなにうまくいかないのだろう。ジュリエット、いがみ合いのない世界で、僕達これから幸せになろう。いつまでもいつまでも一緒に暮らそう。今、君のところに行くよ。ああジュリエット、まだ微かに暖かい。地上での最後のキスだ、お休みジュリエット」
どこか遠くから聞こえる気がする、愛しき人の声。そして、唇に何かが触れる感触。ふと鼻をくすぐったのは、愛しい彼のにおいだ。
瞬間。私は我に返った。目を閉じていたから確証はない。しかし、唇に触れたしっとりとした感触も、鼻をくすぐった彼のにおいも本物。私――皇琴音は、彼――朝霧亮輔君にキスをされてしまった。
顔が沸騰したかのように熱い。何故。どうしてこうなった。考えようにも頭の中がパニックで、とても思考が可能な状態ではない。一方の亮輔君の方はすっかりロミオになりきっているようで、毒が入っていることになっている小瓶を煽り、私の横に倒れこんでしまう。いくら演技に没頭しているとは言え、こんなことが起こっていいのだろうか。
だが、ロミオが倒れてしまった以上、次はジュリエットが目を覚まさなければならない。月明かりが隠れたことを表すため、舞台の照明が消え、スポットライトのみになった。ジュリエットの出番だ。私は必死に記憶を手繰り寄せ、演技を続行する。
「おはようロミオ、ロミオでしょう? いま唇が暖かった。あれ、ここはどこ。私、夢を見ていたのかしら」
一応体裁は整っているが、それでも私としては充分とは言えない演技。何せ身が入っていない。私の頭の中にあるのは、亮輔君の唇の感触と彼のにおいだけだ。
「暗くてよく分からない。そうだわ、私、神父様の薬を飲んで、埋葬されたんだ。怖かった、もう二度と起きられないかと思ったけど、私はちゃんと目を覚ました。ああ、後はロレンス神父を待って、二人でエスカラス大公の元に向かって、きっと全てを認めて貰う。私はロミオと一緒になれる。待ってなんかいられないわ、神父様を探しに行こう。それにしても真っ暗」
それでも、身に染みこむまで読み込んだ台本の中身だけは何とか救い出すことに成功し、私は演技を続けた。暗闇の中で立ち上がり、辺りを探る振りをしてロミオの亡骸につまづく。それがロミオだと気付いたジュリエットは、絶望の淵でこう言うのだ。
「せっかくうまくいったのに。なんで私を置いて行ってしまうの。起きてよロミオ。一緒にどこまでも行こうって、いつまでも二人で暮らそうって約束したじゃない。さよならの挨拶もなしで私を残して行かないで。ねえ、私、薬まで飲んで、あなたと会うために、心細いの我慢して、懸命に飲み干して、目が覚めたら幸せが待っているって、それだけを信じて眠りについたのに。なんで、なんでこんなに歯車が狂うの。私、何か悪いことしたの。醜いいがみ合いさえなければ、二人で手を取って抱きしめ合えたのに。もう、こんな世界なんていらない。もっと綺麗な世界がいい。ロミオ、ねえロミオ、置いてかないで。私も一緒に行く。あなたの妻だもの。あなたと一緒に行く。争いのない綺麗な空の上で、二人でいつまでもどこまでも歩いていくの。ロミオ、ロミオ、私に最後の勇気を」
後はロミオが持っていた短剣で自らを刺す振りをすれば、ジュリエットの出番は終了。その後はロレンス神父を始めとした他のキャストが登場し、この場を納めれば、舞台が暗転してナレーターが最後を締めくくってくれる。
一連の演技を何とかこなして、幕が下りた時、私はホッと息をついた。
「朝霧君、お疲れ様。さぁカーテンコールがあるから速く立って!」
須賀さんの声を聞いて、亮輔君が飛び起きる。
「あれ? え? 終わった?」
どうやら今の今までロミオになりきっていたようだ。自分が何をしでかしたかも知らず、当人はあたふたしている。
「何それ。ちゃんと最後まで演技がんばってたじゃない」
流石に舞台袖からでは、本当にキスをしたところまでは見えていなかったようだ。客席からも拍手が聞こえるのみで、それらしい反応は見られない。と言うことは、本当にキスをしたことに気付いているのは私だけのはず。これは何とも気まずい状況である。
そんな時。亮輔君がこちらに視線を向けてきたので、私は咄嗟に目を逸らした。
「皇さん、どうかした?」
「ううん。何でもない! ちょっと目にゴミが入ったみたいで!」
「大丈夫!? 俺が見ようか?」
「大丈夫だから! 自分で取れるから! 亮輔君は少しあっち向いてて!」
カーテンコールに備えて一同が整列する中。私はついチラチラと視線を亮輔君に向けてしまう。それに亮輔君が一々気付くものだから、その度に私は視線を逸らす羽目になる。
「皇さん。カーテンコールで幕が上がるから、そろそろ前を向かないと」
「あ、ああ、うん。そうだよね!」
いつまでもこんなことではいけない。私は何とか気持ちを切り替え、カーテンコールに臨んだ。多くの観客は私の不自然な演技には気付かなかったようで、大きな拍手を送ってくれる。笑顔で観客に深々と頭を下げつつ、それでも脳裏に浮かんだのは、やはり亮輔君の唇の感触だった。




