軌道上より
本日三話目。
サフィエが救出されてから惑星時間で三十日以上が経過し、彼女は医療カプセルから出されて意識も覚醒していた。
飼育員種族たる異星人のマイクロ/ナノマシンを使った再生医療によって彼女が負った肉体的な怪我や損傷は完全に癒され失っていた声も取り戻せた。
そして『恩寵の御印』は跡形もなく消えてしまっている。
しかし精神に於いては癒された訳では無い。
由逗子翔の記憶を取り戻し彼女のパーソナリティが変容していても、肉体が覚醒する事で情報量子次元の精神世界では平衡を保っていた精神は再び激しい怒りと怨みと憎しみを抱える事になった。
更に残してきた同母妹のフェティエの事を思うと胸が引き裂かれる思いだった。
ステーションにあるトレーニングルームの窓からは彼女が生まれ育った惑星の眺望が広がっている。
彼女が療養生活をするスペースの人工重力は惑星の表面重力と同じにされたこの環境下で、彼女は心に闇と痛みを抱えながら萎えた肉体を戻す為にリハビリに勤しんでいた。
「精ガ出マスネ。体調ハイカガデスカ?」
普人族型の看護・介護アンドロイドが声をかけてくる。
飼育員種族はサフィエと同じ大気は呼吸出来ず、またその外見がサフィエ達とはかけ離れており、発声の違いから音声による会話が不可能である事から、このアンドロイドを通してサフィエとコミュニケーションを取っている。
ちなみにこの飼育員種族、外見は金魚の一品種である琉金にそっくりである。腹鰭と尻鰭の代わりに歩行器官があり、胸鰭の部分から先端が分かれた触手が生えている。
肺ではなく大気中に適応した鰓を持つが高圧高湿度高濃度酸素環境下でないと生存が難しい。
逆にサフィエがその環境に入れられたら酸素中毒で命を落としてしまうだろう。
「お陰様で歩行器無しでも歩けるようになったわ。でもまだまだね。少し歩いただけで息が上がるの」
「りはびりニ無理ハ禁物デス。焦ラナイデ」
「分かってはいるのよ。でもね、残してきた妹が、フェティエの事が心配なの」
サフィエの妹フェティエはまだ十二歳。
復讐を果たすよりも先に妹をあの幽閉されている塔から自らの手で救い出したい。
万象心が約束したのは自分の命だけであり、妹の救出を飼育員種族達に頼む訳にはいかないのだ。
再度地上へ降り立ち妹フェティエを救い出す為、サフィエは歯を食いしばり毎日のリハビリに励んだ。
* * * * * *
サフィエの精神は危うい所で踏み止まっていた。
もし、由逗子翔の記憶と経験が甦っていなかったら、とっくに憎悪に飲み込まれ崩壊していたであろう。
睡眠精神治療装置による治療も功を奏していた。
精神の安定を欠いた状態では人は悪夢に魘されたり不眠症となっては更に精神が不安定になってしまう。
穏やかな睡眠が得られれば、それだけでも症状の改善が期待出来るのだ。
それに時々、装置を通して万象心の分意識によるカウンセリングも行われている。
しかし、それでも尚サフィエの中の憎悪は消えない。
スウツノ教とその教徒ども、カァフシャアク国王である兄を赦してなるものかと。
由逗子翔の記憶が甦った今なら分かる。
父なる国王と正妃、母である側妃、同母の兄二人を病死に見せかけて暗殺したのはスウツノ教に被れて唆された兄とその側近どもだと。
祖国を乗っ取る為にスウツノ教を信奉する西方白色普人族至上主義の国々が仕掛けた謀略だと。
必ずやあの邪知暴虐の者どもを討ち、スウツノ教と言う前世地球に在った一神教の悪しき所を煮詰めたような白色普人族至上主義者どもをその教義諸共撃滅するのだ。
彼女の憎悪と狂気は日々昇華され、それは自らに課した使命と宿命となって行く。
飲み込まれてなるものか。必ず妹を救い出し、傲岸不遜な白色普人族至上主義者どもを祖国より打ち払い、愛しいチアノクの同胞である民を呼び戻し彼等に安寧を。
サフィエは遥か惑星の軌道上で静かに怒りを燃やし心に刻んでいく。
* * * * * *
サフィエが惑星軌道上で覚醒してから凡そ半年が過ぎた。
やせ細っていた身体は療養所によって肉付きも良くなり、地道で苦しいリハビリにより体力・筋力は元よりも向上した。
激しかった憎悪も精神治療によって静かな怒りへと昇華されつつある。
「希望は決まったかな?」
睡眠精神治療装置で眠りに就くと情報量子次元の万象心が創る精神世界へとサフィエは喚ばれ、そう問われた。
「ええ、決まりました」
「何を望む?」
「お見通しだと思いますが」
「君の意志の確認の為だよ」
この精神世界では感情の振れは存在しない。ただ淡々と言葉が紡がれる。
「力と智慧を、何者にも負けぬ力を、世を変革する智慧と時間を望みます」
平坦に、だが決然とサフィエは告げる。
この星の知的生命体は未熟だ。前世地球よりも社会的にも思想的にも遥かに未成熟で停滞している。
だから変える。変革する。より成熟し進化させ平穏なる意思と精神で万象心へと到れるように。
「君の望むものを与えよう。私/我々は与えた後は、この惑星と君に干渉しない。君が心に刻んだ望みが叶い、再び良き未来で相見える、その時まで私/我々は見守るのみ」
サフィエは深々と頭を下げ感謝の言葉を紡ぐ。
「本来ならわたくしサフィエとその前世の由逗子翔の意識や意思は貴方の居る情報量子次元の海に消えて逝く運命でしたのでしょう。しかし貴方の慈悲で新たな生を受けた事、また今生の命を救っていただいた事に深い感謝を。ありがとうございました」
万象心の分意識は満足げに頷き、その姿を消した。そしてまたサフィエの意識もそこから去り、創られた精神世界は消失した。
果たしてサフィエの望んだ力と智慧は、如何なる形で現実と化すのであろうか。