わすれる街
酒場である。別段どうということはない、どの町にもある酒場であった。
大きな革のカバンを提げて、履き古した靴を履いた、見るからに旅人といった身なりの男が入ってきた。
「水を、もらえますか」
旅人は給仕の女にそう言って、近くの椅子に座った。
すると、奥のテーブルで酒を飲んでいた男が、旅人の席へ近づいてきた。
「にいさん。旅行か、なにかかい」
「はい。そんなところです」
「旅行にはちっと寒い時期じゃないか? 今夜は冷える。なにか強い酒をやったほうがいいだろうな。それから、いい宿を知ってるぜ。飲んで、少し食ったら案内してやるよ」
「助かります」
旅人は静かに言った。
「おい、旅人さんと俺っちにラム酒をくれ。俺のおごりだぞ」
「では、一杯だけ」
男は機嫌を良くして、旅人の隣の席へ腰をおろした。
「しかし、いいときに来たね、旅人さんよ。あんたは運がいいよ」
だしぬけに男が言った。
「なにか、記念祭でもあるんですか?」
「いやいや、そうじゃないんだよ。まあ、祭りなんて賑やかなもんじゃないけどな」
と、男は含みのある笑みを浮かべた。
ややあって、旅人とその男は、ふらり街へと歩みを進めた。
どうやら男は、この街のことをよく知っているようである。それに、顔が効くのか街の者に対して横柄であった。
たとえばこんな風だ。
若い娘とすれ違ったかと思えば、男は、
「もっと太らなきゃ、乳はでねえぞ」
と言って尻を叩いた。娘は驚いた顔で走っていった。
それから男は、店に出ている果物や肉を勝手に取って食った。
「そんなことしちゃ、だめじゃないか」
旅人がたしなめると、
「別にいいんだよ」
と男はただそれだけ言った。
「それで、どこの宿に案内してくれるつもりだい。安宿だとありがたいんだが」
旅人が言うと、
「このあたりじゃ一番安い。心配するな」
男はそう言って、街を進んでいった。
男に案内されるままに街を歩いて、旅人はようやく宿に辿り着くことができた。男はどうやら、ちょうど良い宿に案内してくれたようだった。
「いや、どうもありがとう。今夜は外で眠らずにすみそうだよ」
「礼はいいんだ。それよりも、部屋に荷物を置いたら来いよ。街へ出よう」
男はそう言った。自分の金で酒でも飲もうというんだろうか、と旅人は勘繰ったが、
「金なんか要らないよ。店にも入らない。コートは着てこいよ。今夜は特別な日なんだから」
と男は旅人の心中を察したように付け足した。
旅人はもう休みたかったが、男がそういうので渋々、そうすることにした。
「それで、なにを見せてくれるんだい?」
歩きながら旅人が尋ねた。すると男は、
「だれだって、忘れてしまいたいことってあるよな。もう過去のことなんだから、くよくよ思い返して悩んだりすることなんざ、損なことしかないのにな。あんたにだって、忘れたい過去のひとつやふたつ、あるだろう」
歩きながら、旅人は男の話に耳を傾けた。
「嫌な思い出ってのは、古傷みたいにいつまでもズキズキと疼きやがる。ところがだ、この街には毎年一度だけ、星の雨が降るのさ。その星の雨が、人々の頭ン中に巣食う、もやもやした、嫌な記憶をすっかり洗い流してくれるのさ。そうすりゃ、悩みなんか無く気持ちよく眠ることができらぁな。要は、救いの光ってわけだ」
どうやら男は、街のはずれに向かっているようだった。しばらく歩いてから、男は足を止めた。そこは、街を一望できる高台だった。
「さあ、みんな集まってきたぞ」
旅人が、ふと後ろを見ると、街の人たちが揃って今自分たちが歩いてきた道を上ってくるのが見えた。
「今夜だけは、この流星を拝んでから夜食を食べるんだ。裕福な者も、貧乏な奴も、一年でもっとも豪勢なものを食う。肉や魚、あつあつのアップルパイ、それに浴びるほどの酒だ。金なんか、どの店も取らないよ。腹が裂けるほどステーキが食えるぞ」
辺りはすっかり暗くなっていた。空気の澄んだ寒空にはもう、星が瞬いていた。
「さあ、始まるぞ」
男が言った。
人々はひざまずいて、両手を組み、天を仰いでいた。
旅人は、説明を求めるように男を見た。
「まあ、いうなれば祈りだな。ようは、嫌な思いを光の雨が全て洗ってくれることを願っているのさ。こう見ると、なんと滑稽な姿か」
ふと見ると、旅人が立ち寄った酒場にいた、あの給仕の女がいた。女は思いつめた表情で、天に祈っていた。
「店で一番高い皿を割って、店主にきついお叱りをいただきました。勤めて5年、それが初めての失敗であったのに、少しも容赦してもらえませんでした。それが悲しくて悲しくて。お星様、おねがいです。どうか私の悲しみを消してくださいまし」
それがきっかけとなったのか、次々と懺悔が始まった。ある者は「仲の良い友人とバック・ギャモンに入れ込みすぎて喧嘩別れしてしまった。全て忘れてしまいたい」
ある老人が言った。
「老いていることが苦しい。かつての私は、婦人からもてはやされる美丈夫であったのに。鏡を見るのが辛くてかなわん。町を歩いても、もう羨望のまなざしを向けられることは無い。ああ、かつてのように美しくなれたなら!」
街の者がみな、ひとところにいるようなひしめき合いだった。彼らの口々に発せられる後悔の言葉は、やがて重なりあってただの雑音のようになった。
旅人が彼らの思いを聞いていると、人々はやはり、人と関わることで悩みを抱くことが知れた。それは他人にとっては些細なことであるのに、だ。
そして、彼らの頭上では、流星群が光の雨のように一晩中ふりそそいだ。流星は火花が散ったときのように激しく、とめどなく流れ、光の筋が交差していた。地平線に届きそうなほど尾を引く光もあった。
旅人が見たこともない、目を見張るようなものすごい景色だった。旅人は、寒さも忘れて夜空を見続けた。
やがて、流星は消え、空はいつもの夜空に戻った。
旅人は寒さを思い出したように、擦り切れたコートをかき合わせた。
「みな、これで嫌なことをすっかり忘れたのか?」
「そのはずさ」
男は手短かに答えた。
「私は、なにを忘れただろう?」
旅人は自問するようにつぶやいた。
「な? 思い出せないだろう。それがミソなんだよ。人間ってのはごく限られた短い時を過ごす生き物だろう。下向いて、くよくよ生きてちゃ、暮らせないってもんよ」
そう言ってから男は、銀色の小さなスキットルで酒を飲んだ。
「ああ、体の中が熱くなるようだよ。人の多い街だからな。この街はそうやって秩序を保っているんだよ」
「しかし、すごいものを見せてもらったよ。これは一生目に残るほどだった」
旅人は言った。
二人は無言で、街へ戻った。街は男の言った通り、誰もかれもが飲み食い、騒ぎの大宴会だった。街の人々は、肩を抱くようにして二人を料理の前に案内した。それはもう、街の食料全てを並べたかのようなごちそうだった。豚の丸焼きはテーブルの真ん中にあって、好きなだけ肉を削いで食べることができたし、パンも酒も、置き場がないほど並べられていた。
男と旅人は、次から次へと運ばれてくる目の前の料理を食べ、もう一口も食えぬというほどに食ってから、その場を離れた。
「しかしまあ、何をやっても忘れちまうってのはいいもんだね。こっちも都合がいいってもんだ。ああ、そういえば、俺と一緒に酒場で飲んでたのが二人ほどいたろ」
夜道を歩きながら、男が言った。
「その人たちがどうしたんだい?」
酔いで怪しくなった足取りで歩きながら、旅人が言った。
「やつら、俺を追ってきた警官だったのさ。今では酒を飲んで冗談を言う仲だがね。俺が昔、何をしたか忘れちまってる」
「え?」
「いやいや。こっちの話だ。俺は元々この町の人間じゃなかったんだ、まあ、旅人さん、宿へ気をつけて戻るんだよ。ここが好きになったなら戻ってきていいんだぜ」
男は旅人に背を向けて、足早に夜の暗がりへ消えていった。