7話 獣と獣
前方に足音が一つ。
スピードは緩めず、なおかつ静かに近づけば、額から黒光りする一本の角が生え、全身を茶色の毛皮で覆った魔獣が一頭。こちらは何の物音も立てていないというのに、目が合い一気に緊張感が体を駆け抜けた。
双方動かず、ただただ見つめあう。自分の息の根しか聞こえず、それすらも煩わしい。
――落ち着くのよ、ネマ!
そう自分に言い聞かせ、乱れそうになる呼吸を整える。
ゆっくり吸ってゆっくり吐いて、とわずかに思考が目の前から逸れた時、一陣の風が吹き抜けネマの長髪も攫われた。銀色が目の前に広がり、払おうとするが
「違う!」
そう叫び体を真横に投げ出した。触れるか触れないかぎりぎりの位置を茶色の塊が掠める。
――罠だ。
魔獣が魔法で風をおこし、ネマの髪で視界を覆ったのだろう。それほど魔獣というのは知能が高く手強い相手だ。
すぐに態勢を整えるが、相手は一直線にこちらに突っ込んでくる。背中には丁度ネマと同じ太さの木が、前からは的確に心臓の位置を狙う鋭い角。
もし失敗すればネマの薄い胸など簡単に突き破られてしまうことは確実だが、咄嗟に思いついたアイデアに望みをかける。
触れるか触れないかのその一瞬、ネマは左足を軸に木の後ろに回り込んだ。
作戦としては魔獣の角が幹に刺さり、空いた背後を打つというものである。背中にすぐさま衝撃が来て、次の行動のため移動しようとするが
「え」
予想よりも強い力に膝をついて倒れた。急いで振り返れば木には一直線に亀裂が入り、こちらに倒れこんでくるのがスローモーションに見えてくる。
「うそ、うそ、うそ!」
火事場の馬鹿力というのだろうか。咄嗟にネマは足で木を支えていた。折れた位置は高く、倒れこんできた木はほぼ並行で、押しつぶされそうになるのを何とか持ちこたえる。
「うぐぐぐぐぐぐっ」
押し返そうとするが、さらにずしりと重みが増した。
折れた場所を目でたどれば、魔獣が前足をのせ体重をかけており、見下すような顔にいら立ちがつのる。木からはみ出そうなほど大きな足を器用に、一本のラインをたどるようにゆっくりと交互に出していくその姿は、自分の偉大さを見せつけているかのようだ。しかも、中々さまになっているのも腹が立つ。
「うぅ」
のしかかる重みに体は不格好に折りたたまれ、膝が胸を圧迫する。
しかし、そんな危機的状況であるにも関わらず、ネマの口角はなぜか不自然に上がっていた。
普通の人間なら抱くはずのない感情を自分は今、思い浮べている。その感情の名をはっきり言うのは、今の自分にはまだ怖くてできない。
小さな口に隠された不釣り合いな牙が覗いたその瞬間、一角魔獣の瞳の奥に余裕とは違う別の感情をとらえ、
――今だ。
手を後ろにつき
「うりゃああああああああああ」
一気に畳みかけた。木は勢いよく跳ね上がり、そのまま魔獣も巻き込んで地面に倒れる。土埃が去ってもなお、魔獣は木の下で動かなかった。