4話 邂逅
何の代わりにもならないというのに、ネマはどうしようもない寂しさから木の幹を抱きしめた。
「レイスに会いたい」
心細くて、寒くて、苦しくて途方に暮れてしまう。
空腹がまた襲ってくるが、夜のため下手に身動きもできず狩りもできない。
とりあえず、このまま木の上で夜を明かそうと目をつぶるが、半獣の鋭い聴覚はわずかな話声でも捕えてしまう。
「半獣がこの森に逃げ込んだらしいな」
「年は十五、六で黒の上等な服を着てるって、盗んだにちがいねえ」
「それに家畜もいくらかやられた。とっつかまえて、売り飛ばしちまおう」
声を潜めて話しているようで、ここからそう遠くない場所にいるようだ。
――遠くに逃げなければ。
ネマはどうにか月明かりを頼りに近くの木に飛び移っていった。しかし、慣れない暗闇と焦りから細い枝に飛び移ってしまい地面に勢いよく落ちる。スカートは裂け、手のひらは切り傷で血が滲んだ。
男達の声が再び聞こえてきた。
「おい! 何か落ちた音が」
「きっと半獣に違いねえ」
ネマは真っ暗な森の中をがむしゃらに走った。自分が前に進んでいるのか来た道を戻っているのかが分からなくなって、軽くパニックを起こしそうになる。それに加え、空腹のせいでいつも通りの力が出ず、走るスピードは普通の人間よりも遅くなっていた。
火がはぜる音と人の匂い。それにチーズとパン。
頭にもやがかかったようにネマは正常な判断ができなくなって、気づけば本能のまま光る一点へと近づいていた。一面真っ暗の中、赤々と燃える焚火はネマにとって希望の光に見えてくる。
焚火を囲う人物は茶髪に少し白髪がまじった、老女と言うにはまだ少し早い女性。こちらに気付き、一瞬目を見開くがすぐに焚火に目を戻した。
疲れた。
ネマは火に近づき腰を下ろした。手先からじんわりと温まって、手のひらの痛みが思い出したかのように疼く。
もう動けない、動きたくないと、膝を抱え目をつむった。
今日が一番弱音を吐いている気がする。それほどまでレイスとの日々は楽しくて幸せだった。それなのにその幸せを壊したのは自分だ。こんな中でもレイスが助けに来てくれるのではないかと期待してしまう自分に反吐が出そうだ。
ネマは自己嫌悪に陥った。
「おい、火がついてるぞ」
「一応、行ってみるか」
男達がこちらに近づいてきている。ネマは急いで立ち上がり左右を見回した。
とりあえず、声の元から離れて――
「わっ」
立ち眩みがして膝をついた。声は段々と近づいているというのに、力の入らない足がもどかしい。
女が立ち上がり、リュックを何やら漁り始めた。布団一式がちょうど入るほどの大きなリュックから、古ぼけた赤茶色の布を取り出しこちらに近づいてくる。無表情で何を考えているかが読み取れない。このまま捕まえられて差し出されてしまうのだろうか。
「なに……」
無言で布をかけられたかと思えば、それはフード付きのマントだった。
「どういう……」
「うるさい」
ぴしゃりと言い切り、女は元居た場所に戻った。
マントで耳と尻尾を隠してくれたのか、しかし半獣である自分を庇う理由が見つからない。
「おい、このへんで半獣の女をみなかったか?」
男達が背後に現れ、その近さに思わず息を止める。
どうかこのまま、気づかず立ち去ってくれますように。
ネマは顔が隠れるよう俯いた。
女が鼻で笑った。
「半獣? ふっ、見つけたらとっくにぶち殺してるさ」
それに対して男達は大声で笑い返す。
「そりゃあ心強いな」
「だがあんた、一体どうやって半獣をやっつけるつもりだ?」
一人の男が火にあたるため真横にしゃがみ込みんできた。ネマの心臓は一度大きくはねる。
「それに連れもいる。顔を隠して、生娘かい?」
「馬鹿言うな。うちの腰の曲がった母親だ」
「年老いた母さん連れて、こんな森の中で野宿ねぇ……」
その声音には明らかに疑いが含まれていた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
手が汗ばんで傷口が痛む。
「まさか半獣を匿ってるとでも? 疑うなら見てみたらいい」
女が言っていることがネマには最初、理解できなかった。見せる? そんなの無理に決まってる。
「母さん、顔をあげて見せたげな」
もちろん顔など上げられるわけがない。手の痛みがひどくなった。
「あぁ、母さんは耳が遠いんだ。ほら」
女が立ち上がり、あごを掴まれ上を向かされる。
「ほら」
ほらって……
三人の男が顔を覗き込んできた。
お終いだ。目線を下げるが、顔をはっきりと見られてしまっている。せめて、老婆と嘘をつかなければ、隠し通せたかもしれないのに。
「なぁんだ、こんなしわしわなばあさん連れて、あんたどうかしてるよ」
最初は皮肉だと思った。どこからどう見ても皺だらけの老人に見えるはずがない。
もう一人は顔を近づけ、
「ばーさーん! 長生きしなねー!」
そんなことを言ってくる始末だった。口をぽかんと開き、頭がついていかない。この男達はどこかで頭でも打ってしまったのか、はたまたネマは本当は狐の半獣で男達を化かしているのだろうか。
男達は火でしばらく温まり、再び森の中へと消えていった。
理解が追い付かないままとりあえず礼を言えば、女は鼻でふんと笑った。
「礼を言われる筋合いなんてないね」
「でも、私は半獣だから」
嫌われる存在で、助ける理由なんてどこにもない。
ネマは自覚していた。
「目の前で殺しなんて気分が悪いに決まってるだろ」
女の返答はそれだけだった。何と返せばいいか分からず「ごめんなさい……」と呟く。
再び訪れた静寂が気まずくなってマントを脱ぎそれをまじまじと眺め尋ねた。
「このマントは何なの?」
「老人に見えるマント。まぁ魔術式が一応、試作段階だったけど上手くいったみたいね」
「し、試作段階!?」
最悪の結末にならなくてよかったと心底安心するのとは別に、この女の正体が気になる。
「あなたは魔術師なの?」
「そうさ」
「火を出したり、結界をはったりできるの?」
「当たり前だろ」
「じゃあ悪い敵を倒したり?」
「あんた何が言いたいんだい?」
今のままではレイスを魔王から取り戻すことはできない。自分が変わる必要があることを今日一日で痛感した。つまり――
「私を弟子にして!」
「は!?」
女がこちらに体を向けた。ネマは手をついてなんとか女に近づきダメ押しとばかりに再度はっきり言いきる。
「私を弟子にして!」
「あんたねえ」
片手で頬をぐっとつかまれ、真近で目があう。
「私をで……」
「うるさい!」
口をつぐむ。女はそのままネマの瞳を見続けた。まるで、その奥に何かがが隠されているかのように。
女が呟いた。
「……なんだいこれは。もはや呪いじゃないか」
呪い?
ネマは素直に黙り続ける。女はネマを解放し、その後目頭を押さえ問いかけた。
「私はアリスティア・アリス。あんた名前は?」
「ネマ」
「なんで弟子になりたいのさ」
「それは! 私の大好きな人が魔王様に攫われてしまったから。レイスを見つけ出すために、私が変わる必要があって…… あ、レイスって言うのは」
「ちょ、ちょっと待ちな。あんた今、魔王様って言ったかい?」
「うん、それでレイスは魔王様の子供で」
アリスティアは再び目頭を押さえるが、その手はなぜか小刻みに震えていた。しばらくして今度は大きな大きなため息をつく。
「まぁあんたに掛けられた魔法を見る限り本当なんだろうねえ。これまた厄介な」
「私にかけられた魔法?」
「あんた、気づいてないのかい? 複雑すぎてまだ分からないけれど、系統的には時間操作の魔法が関係してる」
「時間操作?」
声に出して、また頭の中でも時間操作?とハテナマークが浮かぶ。全く身に覚えがない。
「魔人っていうのは、人間より寿命が相当長いからね。もしかして、あんたに」
「魔人ってなに?」
「あんたは何でそんなことも知らないのさ! 魔人って言うのは魔力の保有量がとてつもなく多くて、ここ人間界と違って魔界に住んでるんだ。寿命は確か……人間の10倍以上はあったはずさ」
「その魔人っていうのと何の関係があるの?」
「あんたは馬鹿なのかい!? 魔王は魔界を統べる王、つまり魔人。そしてその息子も」
「魔人!?」
アリスティアを遮るかたちでネマは思わず叫んだ。レイスは普通の人間ではなく魔人で、魔界に住んでいる。
――どういうこと?
「えっと、とりあえずじゃあ私は魔界に行かないとだめで…… あれ? 魔界ってどうやって行くの?」
先程まで歯に衣着せぬ物言いだったアリスティアは何も返してこない。
炎の中、組み敷かれたうちの一本が勢いよく爆ぜたことにネマは大きく肩を跳ね上げた。
その瞬間、最悪の妄想が頭によぎって、
「もうレイスとは、会え……むぐっ、へ?」
アリスティアに何かを口の中へと押し込まれた。少し固くてフワフワで、そのまま口をもぐもぐと動かし咀嚼する。
「おいしい」
一枚のパンはあっという間になくなってしまった。
「陰気な顔なんて不快になるだけさ」
アリスティアは吐き捨てるように言い、自らもパンを食べ始めた。
「ごめんなさい……」
「それにあんたは魔界に行ったことは無いのかい?」
「あると思う、たぶん」
「たぶん?」
「だって、あそこが魔界だと思ってなかったから」
レイスと出会ってから暮らしていたのは大きなお城で、そこが魔王城であるとレイスは教えてくれた。ということはそこは魔界ではあった訳だが、肝心の人間界から魔界に行った方法を覚えていない――というよりかは見ていない。というのも、ネマは疲弊して眠りこけ、目覚めた時にはレイスの部屋の大きなベッドの上だったからだ。
「一度行ったことがあるなら、魔界に行く方法があるってことだろう。最初からもうおしまいみたいに決めつけて。想像力を働かせな!」
アリスティアの唐突な喝にネマも勢いよく返した。
「そ、そうだよね! だって私、魔界で生活してたんだもん。どうにか行く方法を探せばいいんだ」
そうだそうだ、と自分に言い聞かせるように繰り返す。
「それで、これからどこ行くんだい?」
「え、えっと」
とりあえず、どこを探せばいいの?
ネマの頭の中に大量のハテナマークが浮かんだ。
まずは魔界に行くための情報収集が必要である。しかし、それ以前に問題があった。そもそも半獣のネマが普通に人前に出られるわけがない。多分、いや確実に捕まえられてしまうだろう。そのためにも、アリスティアのもとでネマは修業をしたいわけで……
結局、ネマは振出しに戻った。
「私を弟子にして!」
断られる覚悟であったが、アリスティアの返答は意外なものだった。
「まぁ条件を飲むならあんたを弟子として家においてやっていいよ」
「やったー! ありがとう!」
「あんたはまず条件が何か聞かないのかい!」
眉間に深く皺を刻み再び怒られてしまった。
「ごめんなさい……」
「ま、条件はそんな難しいことじゃないさ。あんたが私の実験台になること。あと、敬語を使いな!」
実験台? 何それ? でも、弟子になれるなら何でもいいや。
ネマは元気に返事した。
「うん! あ、はい。よろしく、じゃなくてお願いします!」
こうしてネマは魔術師アリスティアの弟子となった。