第四幕
登校日最終日。
何もない様に半日だけを過ごす日。体育館から教室に戻り、連絡事項をして終わり。
そんな変哲もない日々を享受するべく、生徒たちはこの日だけは、浮足立つ気持ちを抑えるように、そして冷静を装って教師の指示に従う。
悠人のクラスにしても同じようなもので、誰も最後の最後で問題を起こすことはない、という気概を感じていた。
高校一年の夏休みともなれば、友人たちとの楽しいひとときになる事は請け合いで、受験のプレッシャーや、予備校の圧力などはまだ微塵も感じさせるものはない。
課題の多さに少し気の滅入るところではあった生徒たちだったが、悠人は違った意味で重い気分になっていた。
生徒会長からの話しがあったとおりであるならば、もう今日しかネージュが何かをしてくるということがない。そしてそれが、何かまだ不透明――生徒会長はヴィグリーズだろうと言っていたが――な中では、事の発端である自身の影響が、涼音に及ぼしてしまっている悪影響を見て、重い気分になるなというのが無理な事であった。
昨日一日だけでも多くの嫌がらせを受けたらしく、不機嫌そうに屋上にいるのを見かけたが、なんと声をかけていいか分からず、昼の間はそっとしていたほどだ。
その最後の日に突如、けたたましい音と共に、一つの放送が入った。
放送慣れしていないのか、いくつかのハウリングする音がキーンと耳に残る。
まだ最後のホームルームの前だったため、悠人は教師陣が――校長や教頭の話しはすでに終わっていたため――なにか通知することがあったのか、はたまた大きな問題があったのかと勘繰るほどだった。
というのも、校内の放送は使い方さえ知っていれば誰でも使うことは出来る。しかし、その部屋に入る鍵は、教師しか持っていない。
そのためその推測はあながち的を得ていたものだったが、流れ出る言葉によって、『問題が起きた』ということを悠人は確認する羽目になる。
『皆様ごきげんよう。わたくしは、秋吉ネージュ。多くの生徒はこう、口上を述べることなく、分かっていると思いますけれど、突然の放送を失礼いたします。
二年A組の奥泉涼音。貴女と話しがあります。至急、校庭までいらしてください。
なお逃げる事は無いとは思いますが、その様な事をされるのであれば、――出来ることをさせていただきます。
かならず、校庭に来るように。』
その放送はぶつりと切られた。その音を聞いて、全身に血が駆け巡る様に恥ずかしさに似た感覚が悠人の身を駆け巡った。
自身には直接的な言及がないにもかかわらず、顔を赤らめるには十分すぎる名前が含まれていたからかはたまた、涼音の名前を聞いたことによる申し訳なさからか。
「おい、ネットに上がってるぞ。放送の主がタイマン張るらしい」
誰かの声。それは悠人を突き動かすには十分すぎる内容を含んでいる。
ガタッと大きな音を立てて席を立つ。その時教師が入ってくるが、それを無視して、廊下へ飛び出した。
「おい、六人部!」
教師の言葉を背中で受けながら目指すのは校庭だ。
二年の教室に向かうべきか考えたが、どう考えても校庭に直接出てしまった方が速いと気づいたからか。
その悠人の後ろに一人ついてくる。
「ユウジンは、気になってしかたないって感じだなぁ!」
「未来! 良いのかよHR」
「お前が言えたことかよ。今、クラスの奴に手伝ってもらって、学校全体に流させた。」
「――?」
何をと言おうとして、言葉を飲みこむ。
疑問はあるが、そのことよりも、走る事に注力がいっているため、言葉として出ないのだ。
「――どっちが勝つか賭けろってな! それだけで色めき立つぜ、なんせ最後の日に馬鹿やるのはそうそういないからな! これは盛り上がる! HRなんてどうでもいいって思えるほどに良い事じゃないか。大して連絡事項はないんだから、全員来るぞ」
「え?」
「見物にだ! 良い場所はさっさと取らないと!」
未来は嬉しそうにカカッと笑う。
普段から付き合いのある悠人にとっても珍しく感情をあらわにしていると感じられるほどだ。普段の笑いとは一線を画した、其れこそ心からの笑いなのだろうか。
その笑い声に触発されたのか、他の教室からも生徒が飛び出してくるのが分かる。
悠人はウィンクを介して、流された情報を確認した。
学内の掲示板のトップにそれはある。適度な煽り文の上に、ご丁寧にネージュを挑発するような『お嬢さん』扱いの文面は、学内の問題児への懲罰を、二年生が行うという内容にすら取れるほどだ。
「これは悪質な内容じゃないか!」
「それこそ生徒たちが望んでいる物じゃないか! 去年の事件で生徒間でも秋吉先輩の有無を云わせない風潮が強い中で、それを跳ね返そうとする奥泉先輩! 良い構図じゃないか。もっと煽らせた方がよかったかもなぁ?」
「生徒会も黙ってないだろう‼」
それはさ、と前置きをしながら未来は悠人に一枚のウィンドウを投げてよこす。
「生徒会長と直々に話しつけてあるんだよ。見せしめになってもらうためにさ」
「あ、悪質な……」
「悪質なのは秋吉先輩じゃぁないか。そんなのマイナスとマイナスでプラスだ」
そうなのか、と呟きながら靴を履き替え外へ出る。
下駄箱から校舎に囲まれた校庭に出る。くらりとするほどの日差しが悠人を出迎えた。
校庭には二人の影がすでに立っていた。
ネージュと紫丹だ。紫丹は頭痛をこらえるように額に手を当ててネージュの傍に控えている。
その脇に二本、六十センチ程の棒の様な物を持っている。
まだ涼音の様子が無いことを確認すると、体育館側の階段状になっているコンクリートの縁に悠人は腰かけた。
その様子をネージュは嬉しそうに見送り、紫丹は遠目からでも分かるほど深い溜息をついていた。
悠人はいくつかのウィンドウを開く。
おそらくただの話し合いになる事ではないのは分かり切っていたので、録画を用意する。
オープンのナビゲーター――アプリコット――に録画用と書かれたプラカードを掲げさせる。
これから起きることは、良くも悪くも残しておかなければならい。それは、前日に涼音と話し合った結果だった。
「いや、予想よりも早いな。もう人だかりができてるぜ」
「――」
未来に云われるままに視線を動かすと、そこにはネージュと紫丹を中心とした円形がうっすらと創り出されつつあった。
半径は五十メートル程度だろうか、あまり近くにならず、されど遠くにはならず、それを計るために、校庭に引かれたトラックの線に合わせて人だかりができているのだ。
その人々をよく見れば賭けられた色分けがされており、赤と白のタグをそれぞれつけているのが確認できた。
すっと視線を未来に映すと、手元にあるウィンドウで集計をしているのが分かる。
「つまり、ブッキーは未来がやるの……?」
「いや、うちのクラスの奴らだなぁ。あんまりお前は絡んでないだろうが、ノリのいいやつがいるからな。今、割り振って集計してる。――すごいぜ? 参加率は現状で四割を超えてるよ。こっちは楽して儲けられるし、いうことないね! 少し倍率が偏るかと思ったが、いやはやいい感じに倍率をずらしてるかなぁ?」
へらへらと笑いながら集計を行う未来は心底楽しそうに見えて、少し苛立ちを感じた悠人は、釘をさすように肩を軽く突く。
「それ収益でたら、奥泉先輩にはいくらか渡せよ……。丸儲けは出しにしてるようでさすがにひけるよ?」
「そのあたりは大丈夫ですってば。俺を誰だと思ってるのよ。お前が中学の時に唯一認めた天才じゃないか」
「天の災いだ。漢字間違えんなよ」
「へへ、金の為に俺は生きてるんだ。その辺はきっちり筋を通すのは知ってるだろ?」
「まぁね」
しかし、念を押さないと何をしでかすか分からないという様に、小さくかぶりを振り、悠人はため息をつく。
未来が悠人と同じく趣味のためならばすべてをつぎ込めるのを理解しているため、悠人は少し気になっているだけだった。
尤も、今この場で気にするのはそれだけではない。今賭け事に発展しているが、どういう話し合いがされるのか、それも問題だ。
やきもきしていると、すっと、悠人の前に影が落ちる。
「やぁ、こんなところで録画中とは、当事者意識がないのかな?」
「――いえ、何があってもいい様にと思って」
確かに、と声の主の涼音は頷きを返す。悠人が自責の念を抱いていないのか、確認するための軽口だったのかもしれない。
涼音がネージュに向かって歩き出そうとする。その姿は制服からジャージに着替えられている。おそらく生徒会長に言われた通り、動きがあるとみているのだろう。
その背中に、悠人は呼び止めるように声をかける。
「先輩! 昨日のとおり、データを送っておきますから、もしあれば使ってください」
「――あぁ。そうだ、六人部くん。君は、何を望む?」
「……先輩の勝利ですか?」
まさか、と涼音は笑い振り返る。
少し笑顔になった涼音の表情は、どこか獰猛そうな気配を帯びている。
仮にネージュの嫌がらせが一日であったとしても、必ず借りは返すと思わせるほどに鋭く研ぎ澄まされた感覚が悠人の肌に伝わる。
むき出された犬歯の鋭さは、猟犬を思わせるほど。
「勝利するのは前提だ。でなけりゃ出てこないよ。彼女の嫌がらせは私だけに対してのものだけだったが、発端は君の技術だ。はっきり言って彼女には頭に来ているんだ。――そのままだったら殴り掛かりそうなほどにね。だから、君が彼女に何を望むのか、もしそれがあれば、その要求を彼女に告げよう。でなければただ私の怒りをぶちまけるだけになってしまうからね。」
「……。なら、――僕の客にでもなってもらいましょうか。そうすれば彼女の嫌な『一般生徒と同列』という物を体験してもらえると思いますし」
「――そうかい。一応、覚えておくようにするよ」
「一つだけ先輩に忠告しときますよ。目だけに頼ると失敗しますから」
「……そうだったね。熱くなりすぎないようにしよう」
ええ、と涼音の背中を見送る悠人。
涼音を迎え入れる様に人の輪が割れ、ネージュの傍までの道ができる。
ネージュは微笑みながらその先にいる涼音を見ている。悠人には、その視線が少し遠くて読み取る事は出来ないが、不敵な笑みを浮かべ、自身の絶対的優位さを誇示している様に見えた。
「遅くなったね」
「別にいいわ。来ないということもできないほどに、盛り上がっている様でしたから、逃げられることは無いと思ってましたので」
「逃げる? あぁ、君の様にこそこそやるタイプじゃないから、そんな事考え付きもしなかったよ」
「……。まぁいいでしょう。彼を渡す気になりましたか?」
「それは本人に聞いてくれ。その前に謝るのが筋だとおもうがね」
「……謝る? なにか思い違いをしているのではないかしら。謝るのは貴女。わたくしは謝られる側のはず――」
「ふざけるのもいい加減にしてくれないかな。秋吉さん」
一際強い口調で、涼音はネージュに視線を強めた。
睨むというのが体現される。鋭い視線は相手を狙いすました様に。
「おお、怖い怖い。話しにならないというのはまさにこの様な事なのでしょう」
「だったらさっさと謝ってほしいところだけれどね」
「その問答は無意味と先ほど証明されてます。――いいでしょう。いがみ合っているのも時間の無駄なので単刀直入に言いましょう。わたくしと一騎打ちなさい。それで決着を付けましょう。もちろんわたくしがかったら、貴女の犬はもらうということなのだけれども」
「……くだらない。――でもまぁいい。話しには乗ってあげることにするよ、『先輩』」
ネージュはその言葉を聞くと、紫丹から一本の棒を受け取る。
また紫丹はもう一本を涼音に持ってくる。
涼音がそれを受け取ると、まじまじと観察する。長さ六十センチの長さの棒はアルミか何かで出来ている様に軽量に思える。厚さはたかだか一センチにも届かないのだろう。持った感触は非常に頼りなく、それでいて長いだけの棒。
しかし手元に三つのスイッチがある事に気が付く。
ウィンク越しにそれを見れば、レギンレイヴ社のエンブレムが見て取れる。それがヴィグリーズの中でも使えるコントローラーだと気が付いた。
涼音はそれを一通り軽く振るってみると、風を切る様な音が響いた。
「これは決闘という事でいいのかな」
「そう、全学連に定められている生徒間の取り決めの第十二条にあたります。スポーツで雌雄を決し、相手の要求をのむこと」
「お遊びなどしなさそうだけど大丈夫なのかい?」
「……。見くびられてもこまりますわ。これでも秋吉家の中にいる者として恥じない成績はとっておりますのよ」
「――それがよくわからないが、まぁだったらゲームで正々堂々と決めてしまおう。観客もそれを望んでいる様だからね」
二人に間に一人の生徒が歩み寄る。生徒会長の佐藤栄太だ。
暑い日差しの中、几帳面に一番上まで閉じた学ランは、見ているだけでも暑さを増長させる。
栄太は、ため息まじりに二人の顔を見た。
「全学連の規則に則りということであれば、私が判定を行う。教師にも手を出させない。分かっていると思うが、スポーツなんだぞ?」
「『先輩』が理解していればいいですよ」
「『後輩』はあまりにも分別がないので、忘れないか心配になりますわ」
「……。まぁいい。仮に規則を破るような事があれば私が止めることになる。良く覚えておけ」
そう云うと、すっと身を半身下がり、手を高く上げる。
オープンチャンネルにヴィグリーズのPVPを示すエンブレムが表示される。それは、涼音とネージュを中心としてワルキューレがその背の翼を開く。そして彼女たちの頭上に幾重にも羽が舞い降りた。
頭上に表示されるのは双方の装備値を表示しているバーも用意される。
一般的ゲームで言えばヒットポイントに相当する部分だろう。
悠人は涼音に視線を移す。悠人が用意していた甲冑タイプの外装が表示されている。
彼が持っている中で、もっとも装備値が高い物を用意した。
まるで黒塗りされたその甲冑は、黒太子を思わせるように流麗で。コントローラーがから伸びる剣先は一メートル二十センチ程まである両手剣を創出させた。
対するネージュに視線を動かせば、青色の甲冑が、制服の胸部、腰部、腕部、脚部にのみ表示されている。八十センチ程度の長さの細剣を構えている。
「双方いいな。――念を押すが、あくまでもスポーツであること。それを忘れるなよ」
「――」
その言葉に二人は返さない。相手を睨み合ったままで。
涼音は両手剣を頭上に掲げる様に両手で構える。それはまるで剣道の上段の構えに見えなくもないが、武道などが授業で行われていない昨今においては、どういったものかというのを認識できる者も少ない。
悠人の視界から、数少ない識者が、知ったように口を開いて、身振り手振りで講釈をしているのが目に入るが、心のなかでほくそ笑む。
涼音はただ打ち下ろすだけの為に構えているのであって、そこに流派や伝統なんていうものは存在していない。
ヴィグリーズのゲームの中にでてくるNPCの動きを模倣しているにしか過ぎないことを、悠人は知っていたから、心の中で訂正はすれど、口に出すほどでもないと視線の先に集中することにした。
対してネージュは腰部から前面に突き出すように出された細剣を右手で構え、左手は肩の高さ辺りで留め置かれる。
半身になり狙いすましたように剣先と涼音とを視線で巡らしている様だった。
彼女の方が何等かの武道をやっているのは素人目にも見て取れた。
足の運びはゆっくりとしかし、何等かの意図をもって相手との距離を保ったままだ。
何人かが動画で見た様な事を言って、空中に投影している。
なるほど、と悠人はそれを視界の端でとらえると、似ているなと思い至った。
であれば、生徒会長は『弱い』と断言していたにもかかわらず、そんなことがないことを実感させられる。
ネージュにとっては独壇場になるのだろう。そういった予想が悠人にはあった。
生徒会長が掲げていた手が下りる。
「はじめ!」
その号令をもって、試合が開始された。
突進するのはネージュだ。猛烈に距離を詰め、相手の懐へ入ろうとする。
最速で展開された事象改変は、前方への加速。それが脚部を中心に淡い青色の光を発している。
二度、三度、とそれが瞬くと、三十メートルは離れていたであろう距離が一瞬にして縮まったことが見て取れる。
「――っ!」
しかし飛び込んでくる相手に合わせた様に振り下ろされるのは最速の一振り。風切り音を残して振り下ろされる青の軌跡。
それをすっと半身ずらすようにして、ネージュは避ける。
最小の動きによるカウンター。
「はっ!」
呼気と共に、伸びるネージュの腕は、的確な突きを二度走らせた。
それを逃れる様に涼音は両足で後に飛ぶ。
涼音は、飛びながら切り払いを行うが、ネージュが突きの態勢から身を起してそれを避ける。
とんだ先の近くにいる取り巻きはさっとその場を開けた。
これはスポーツといってもリングの規定がない。その気になればどこまででも下がれる。
たった一度の攻防で、涼音の装備値は二割が削られている。
ヴィグリーズのゲームという点では、気にならない事であっても、対人戦闘になると変わってくる。
避けるために作られたゲームでは、それは致命傷に近い。
後たった四回で終わり。
そのうちにネージュに何度攻撃を当てられるというのか。
「無様ね。大した腕ではないじゃない。それとも降伏されますか?」
「――たった一度でいい気になるなよ……」
「何度でもおなじことですわ!」
疾風。そういう言葉のとおり、二度目の攻防。
煌めく斬撃は、涼音の外装を確実に削り取る。突き出される突きは二度。
しかしそれを待ち構えていたように涼音は横薙ぎに振るう。肉を切らせて骨を断つという言葉のとおり、相手が攻撃したところに待ち構えた様に振る一撃。
それは甲高い音をたてて、ネージュの剣に遮られる。それは手首を返してあしらわれるように簡単に。
通常のNPC相手のゲームではありえない切り結びと鍔迫り合い。
コントローラーの長さが通常よりも伸びているために起こる現象ではあったが、さすがはその辺を予習はしていた涼音は、剣先を相手に触れさせるように一際力を込めて振るう。
狙い通りに青い軌跡を描いて剣先が伸びる。
これが狙っていたものだと言わんばかりに、悠人は心の中でガッツポーズをする。
両手剣の場合のダメージは細剣の量とは違う設定になっている。一掠りだけでもいい。それを勝機と考え、昨日二人で考えたカウンターだ。
しかし。
それは、届かない。
『現実』に武道を行う者にとっては大した問題でもないという様に、さっと、身を翻してネージュは距離をとった。
それは見事な翻し。
素人目の悠人にもすごい、と思わせるほどの判断力。
不敵に笑みを浮かべるネージュは、小さく息を吐いて呼吸を整えた。
「ふん。無様ね」
「絶対に泣かせてやる……」
「はんっ。大した事をできるわけでもないのに、わめいて、さっさと降伏するのがお似合いですわ」
「……力でどうこうなると思っているのもすごい頭に来るね」
ふっと、ネージュは笑う。
「頭にくるだけではどうにもならない。それは分かっているはずです。貴女も力がすべてだと、だからこその決闘をうけたのでしょう? 己の弱さに嘆くならまだかわいげもありますが、それをただ、頭にくる……滑稽で仕方ありませんね。
まぁよくできたお人形さんだったのでしょう、あなたの様に着飾ってただ言いなりになっている者がいるのも知っていますけどね、ずいぶんとまぁ、相手を下に見てきたのでしょう? だから私に嫉妬した」
「私の何を知っているっていうんだ!」
「見た物すべてを。それ以外に事実はありません。違うというのながら、それを証明して見せればいい。もっとも、その無為な時間をわたくしに強要するというのも随分なことではあると思いますけどね」
その言葉に、涼音は一息深呼吸をした。
頭に血が上りすぎて今にも食ってっかかるところだったのを戒めたのだろう。
吐き出した空気に合わせて肩が上下する。
太陽の熱は校庭の砂地を灼熱に変え、それを二人へと跳ね返す。
熱気に中てられる中、気を確かにしてしっかりと涼音はネージュを視界でとらえる。
先ほどまでとは違い、ぞくりとするほどに鋭く細められたその視線は、獲物を狙う鷹の様。
「君には友達という言葉がないのかね。あまりに他人を分かろうとしないその物言いは――あぁ、そうかだから友達がいないのか」
「はん、貴女の様にお高く留まる者の言葉とは思えませんわ。わたくしに友を説くと。――友とは同列に並ぶ事……。わたくしにそれを求めるものがいるのかしらねぇ? もっとも、わたくしに友など必要なく供回りならあってもいいですが……。存外、貴女はロマンチストねぇ?」
「……君はなんて悲しい者なんだろう」
「哀れみですか? なんとも安い挑発を――」
「違うが、まぁいい。はっきり一言言っておくよ。彼は私が負けようと、君になびく事はないとね」
「それは、貴女が――」
涼音は、言葉を遮る様に手を前に突き出した。
そして、悠人に手招きをする。
それは昨日に二人で決めた合図。
悠人はさっと飛び跳ねる様に階段から降りると、二人の方へと走り寄る。
どうしたことか、と栄太が首をかしげる中で、人の間をかき分けて悠人は前へ出る。
ネージュがじろりという様に視線を動かし、悠人を捉える。その視線が気持ち悪く感じたのだろうか、少し身震いをした。
「彼の言葉をあの時も聞く耳を持たなかっただろう? これだけの前だ、はっきりさせておこう。――六人部君、君は彼女の手伝いをしたいのかい?」
その問いに、悠人はにっこりとネージュへ笑みを浮かべた。
「僕は、秋吉先輩とは仲良くできません。ただ、僕の技術が欲しいなら、それ相応の対価を払ってもらえば、他の人と同じに対応しますよ。単純にどうこうしろというのなら、他の人と同じになってください」
「……」
肩を怒らせ、ネージュは悠人を睨む。
「何度でも言いますよ。ここは貴女のお城じゃない。学生の本分は生徒同時の融和で、決して貴女の思い通りになるものじゃないんですよ。――僕が言うのもおかしいですが、現実を見てくださいよ」
悠人の言葉に、ネージュは一瞬脱力した様に肩から力が抜けた。しかし、向けられている視線は鋭く痛い。
「どうして! 貴方はあの女の事を特別扱いにしたの!」
「――先輩が自分の事しか見ないのと同じじゃないですか? ――そう、認めた者しかする気はないですよ」
「なんで……こんな女なんかに!」
「何度言っても変わりません」
しかし、悠人の言葉は届かない。
ネージュが涼音に向き直る。
空気が変わる。
何か重苦しいその空気は、肌をひりつかせるほどだ。
かすかに悠人の耳にネージュの言葉が届く。
「――貴方の特別なものを奪えばいい」
空気の違いを敏感に感じ取り、小さく空気を吸い込み涼音は剣を構える。
再び上段に構える。
それを見て、種は割れているという様に、小さく鼻をならして、ネージュは細剣を構える。
最初と違い少し位置が低いなと悠人は思う。
左手が腰辺りに添えられている。
走る。
青い残光が幾重にも走り、涼音へと向かう中、一筋の銀線が見える。
太陽の光を反射するそれは、ネージュに左手にある物か。
ネージュに合わせて振り下ろす涼音の剣。その腕にめがけて伸びるその銀線を悠人は確かに見た。
そして悠人は確信する。
それは本物だと。
偽物の刃ではない。
「――‼」
延ばされる左手にはっきりと映るのは、小さなカッターナイフ。
刃の延ばされたカッターナイフは、涼音の腕に沿う様に傷をつける。
二人の身が交差する様に、そしてネージュがは右足を軸にくるりと回転する様に、涼音の腕を切りつけた。
返す刃は突き立てる様に涼音の胸へ。
「あぶない!」
しかし、咄嗟に涼音は後へ飛ぶ。
急激な制動に体がついていない。足をもつれさせる。
倒れ込む。
ネージュはほくそ笑む。
この場で何をしているのか分かっているのか。
悠人は思うより先に足がでる。
全力の解放は、一足で二人の間に割り込む。
間に合わない。そう悠人は焦った。
ネージュの左手が霞む。投擲されたそれは涼音の顔に向かって――。
「そこまでだ!」
栄太の声がかかる。彼の右腕にはカッターナイフが刺さっている。
小さく割けた制服に軽く刺さっているだけだったのか、カッターナイフは、栄太が軽く腕を振るうと軽快な音を立てて校庭に転がった。
その後ろで、悠人が盛大に転んでいる。
「この勝負、反則により奥泉の勝利とする。――異存はないだろうな、秋吉」
「――ふんっ」
ネージュは、小さく鼻を鳴らすと、さっさと身を翻して歩き出してしまう。
その姿を見送る事もせず、栄太は涼音と悠人に向き直る。
視界の端で、紫丹がネージュを追っていくのが見えるが、なぜか栄太に一礼をして去っていった。
その様子を意外に思って、
「先輩、腕大丈夫ですか⁉」
「あ、あぁ。――少し痛いな」
血が流れる右腕を呆然と見ている涼音に、悠人が立ち上がりながら問いかける。
見た目以上に出血が多い。
慌てているのだろう、悠人は自分の擦り傷など掘っておいて、ハンカチを取り出して、涼音の腕を抑えた。
「奥泉君、六人部君、とりあえず君達はさっさと保健室へ行きたまえ。他の諸々の話しはなに、私から先生方につけておくからね。」
「――ありがとうございます。」
そう小さく涼音は栄太に言う。
彼が間に入らなければ、顔や目に怪我を負っていたかもしれないという事実に、少し背筋が強張るのを感じたのか、涼音は体が硬くしている様に、ぎこちない足取りでその場を去ろうとする。
その肩に、軽く栄太は手をのせて一言、「すまなかった」と言葉をかけた。
かぶりを振って涼音は二度とごめんだと言わんばかりに、大きなため息をついた。
その横で、慌てた様子の悠人は、必至に涼音に声をかけていた。
「六人部君、私はそこまで重症じゃないさ」
「そ、そうですか? でも血が――」
そのうろたえ方が子供の様で、つい可笑しくて笑ってしまう。
そのまま身を任せる様に悠人に身を寄せながら校舎へと向かっていく。
彼らの後ろでは、取り巻き立ちが色めき立っている。
賭けの配当で一喜一憂している様子で、口々に思い思いの言葉を吐露している。
その人の波の中で、未来はにやりと笑い笑みを浮かべながら、悠人を見送った。