第三幕
七月九日、日曜日。
外から聞こえるセミの音は、本格的な夏到来を伝え、悠人の耳に忙しなさを感じさせた。
日差しの暑さから逃げるように、悠人は一人自室にこもっていた。
窓から入る生ぬるい風を増幅する様に、扇風機が低い唸り越声を上げて、彼に送っていた。
それほど広くない自室は、ベッドに机で部屋の半分以上を占拠されている。机の上に時代遅れの小さなラップトップパソコンが置かれている。その横には、いつも使っている外部ストレージが無造作に置かれていた。
しかし、パソコンは、バックアップとしてしか使っていない様子で、悠人はウィンクを立ち上げてネットを確認していた。
それは、悠人宛に届いた一通のメール。
差出人、羽原儀紫丹。その扱いをどうするか悩んでいた。
差出人の名前は見たことがなく、内容も外装を作ってほしいという依頼とはかけ離れた物だったからだ。
真っ先に考えたのは、見なかった事にするというものだ。
まず文面に恐ろしさを感じた。新手の勧誘か、あるいは宗教か。そういった様子で告げられる内容は、月曜日になったら、三年生の秋吉ネージュという者に会えという内容だった。
緻密に書かれた狂気を感じるほどの弁明は、一体何を言いたいのか分からず、彼を混乱させるにとどまった。
「……まぁ、無視が良いとこだけど……」
一人自室の天井を見て考える。
部活動に入っているわけでもない悠人は、三年生に知り合いなどいなかった。
特に、秋吉ネージュという者が一体何者であるかというもの想像がつかなかったからだ。
学内ネットワークにある学生名簿で確認はしてみたが、良家のお嬢様という印象しかなく、それが何故、悠人に会いたがっているのかが理解できなかった。
その点において、このメールは失敗しているものだった。
「内容が分からなさすぎる。この羽原儀さんが、脅されてるとか、そういう風に考えれば何となくは辻褄が……。そんなことして何になるっていうんだろうなぁ。
ただで外装くれっていうならまだしも、会えっていうのが良く分からない。会うだけならそもそも会いにくればいいとおもうんだよなぁ……。なんせメールくれれば屋上に行くんだし。
というか、その線で連絡を返すというのも手か……。三年生に目を付けられるようなことなんてあったかなぁ?」
悠人は、時間を確認する。十四時を回ったところを確認した。そして、そっと右手を動かして、連絡を取ることにした。
連絡先は未来だ。
数コールの後、回線が立ち上がる。
しかし未来は、音声のみでの応答になっているらしく、ウィンドウには『Sound Only』の文字しか表示されなかった。
がやがやとした音は、彼のアルバイト先からか、はたまた街に出ているためか。少し判断を要する。
しかし、車が頻繁に通る音から、外にいると判断して悠人は話かける。
「今外? ちょっと話せる?」
「わざわざ断り入れなくてもいいぞ。どしたの?」
「えーっと、三年生でさ、羽原儀紫丹って人知ってる?」
いや、と短く返ってくる。その声は怪訝そうな雰囲気を含んでいる。
一際大きな車の音―おそらくトラックないしバスの―が過ぎ去るのを確認したのち再び問いかける。
「秋吉ネージュって人は?」
「……あー。その名前、聞いたことあるな。なんだっけか……。てかその人らがどうしたのよ。」
「いや、ちょっと転送してもいいけど、羽原儀さんからメールがきて、秋吉さんに会えっていう文面でさ。」
「それで?」
「それだけなんだけど、名簿みたら三年生らくしてさ。特に前にトラブルがあったとかいうのもないからさ。――というかメール送った方が速いな。」
「ふーん? あ、少し待って。――。」
何かを、ゴトゴトという物を動かす音と共に、『すんません、休憩入ります』という声が遠くで流れた。その後、ウィンクに未来の顔が映るウィンドウが立ち上がる。
イヤーフォンを外してスピーカーに変えたのだろう、薄汚れた壁が見える。ビルに挟まれた休憩スペースを背景に、茶色のエプロン姿が映る。
その様子を確認してから、悠人は、メールを未来に転送した。
それを受け取り、面倒くさそうに目を細めながら確認をする未来が映る。
「これさ、怪文書なわけですよ。」
「はー……。あ~……。秋吉って聞いたことあるぜ。確か去年問題起して、一時的に停学くらいそうになった奴じゃなかったっけかな。」
「え、今時停学なんてあるの?」
あるよ、と未来は笑う。それから、学校のサーバから手に入れてきたのだろう、一つのデータを悠人に転送してきた。
「それ、全学連の出してる規則だけどな。お前も入学時見ただろう。
基本的に校則という物は、全学連の各学校の支部と学校・学園側との交渉によって決まっているわけじゃん?
で、できるだけ全国一律にしましょうっていう事で、毎年校則は微修正を加えられているんだけど、中学と違い、高校は義務教育課程じゃないから、その辺が多少緩くなってるわけ。
しかし、だ。一般的な倫理観として、『いじめ』とか『暴力』っていうのは排除されてるわけじゃない。」
「そうだね。」
「でも、その秋吉ってたしか……。一人自殺に追い込むほどに苛烈ないじめをしたらしいんだよね。」
「へー。……何で知ってるの?」
「俺、兄貴も同じ学校だったからさ。」
そういえば、と悠人は、未来の兄が、彼とは三歳違いで昨年まで同じ高校に在籍していたのを思い出した。
自分たちと三年、年が離れていて、同じ時期に受験だとか嘆いていたのを、悠人も見たことがあった。
「兄貴が高三年の時、去年じゃん? その時に、名前までは知らないけど誰かをいじめてて、全学連からの処分が出たんだっていうのは聞いてたからなぁ。
『秋吉だけはだめだ。あいつは、思ったままに行動するからな。何かあったらすぐに生徒会に行け。全学連からも監視する様に言われているはずだからな。』って。
つか、これ、メールの内容なさすぎない? ほとんどが懇願の類で、『私は無関係です』みたいな内容なんだけどさ。
まぁ、ユウジンがその秋吉に目を付けられ、何かされると。――とりあえず、会ってくれば?」
「他人事だなぁ……。」
「だって、何があったところで、ユウジンに外装作れっていう位しか、何かあるとは思えないじゃん。学内ネットワークに出してるの、それ関連の内容しか掲載してないんだもん。」
「僕もそう思うけどさぁ……。それなら、先に生徒会に行った方がいいのかなぁ……。」
「心配になる事ないんじゃないの。だって、そのメールが不可解なだけで、実際あったらいい人かもしれない――、まぁないだろうけど、ただ外装発注するのも自身が目立つからってだけかもしれないし。
羽原儀って名前は正直わからないけど、――同じクラスっぽいじゃん。パシリにされてんじゃないの?
特に、一昨日の七夕の件でユウジンが手掛けた外装が、地元ネットでは盛り上がってたからね。」
悠人は、その言葉に耳を疑う。自分の手がけた外装で何か問題があったというのは、メールなりなんなりで連絡があったとは把握していないからだ。
学内ネットワーク―特に、情報交換掲示板以外を見ていないからかもしれないが、それに類するものはなかったと記憶していたからだ。
それに、虎の子だった『涼音に渡した外装』であっても問題なかったと、昨日確認していたからだ。確かに輝度に問題が多少あったが、本人から『問題ない』の言葉をもらっていたため気に留めていなかった。
その様子に、未来は意外に思い、悠人に問いかけた。
「なんだよ、あの二年生にお前、本気で調整しただろう?」
「奥泉先輩?」
「それ、結構話しに出てたぜ。
プロモーションレベルの調整は、目につきやすいんだよ。特に浴衣同士を合わせるなんて面倒臭すぎて普通はやらない。だから、ユウジンだって基本やらないって決めていたろ。
地域紙にも小さいけど載ってたぜ。少し探せば……。ほら、これとか。」
未来は、記事のウィンドウを送ってくる。
紙面には、『織り姫と見間違える人続出!』などと煽り文がついていて、涼音と思われる人影―ただし、顔は隠されていた―が、道行く人達を魅了した旨の記載がさている。
さぁっと、悠人の顔から血の気が無くなった。
昨日話した時に、涼音本人は、大したことではないと言っていたが、完全に悪目立ちをしている様な物だったからだ。
「まー、でもそのあたりを見て、外装ほしいんですーってだけだろうよ。」
「……どうしよう。」
「おい、あんま考えすぎる事じゃないって。誰も迷惑被ってないだろう?」
「先輩に悪いことした……。」
「本人からなんか言われたのかよ?」
「いや、問題ないって言われたけど……。昨日も直接話しは聞いてるし。」
悠人の言葉に、未来は大きなため息をつくと指をたてて語調を強めた。
「あのさー。それなら、本当に問題ねぇじゃん。うじうじしてないで、さっさとその秋吉にあって『仕事』しちゃえばいいわけでしょ?
顔色変えてどうしようって、小学生ですか? 悠人は。」
「――。」
「まぁ、踏ん切り付かないなら、その奥泉先輩に連絡してみたら? 『迷惑でしたかねぇ?』って泣きそうな顔すれば、たいてい許してくれるだろう。
お前はその辺役得でずるいとは思うが……。まぁ、がんばれ!」
「あ、ちょ、……。」
それじゃ、と軽快に言って、すぐに未来の通信は切れた。
呆然と通信の切れたウィンドウの横に表示された、地域紙を目でとらえながら、悠人は大きなため息をついた。
◆◆◆◆◆
月曜日になると、悠人の気持ちは沈んでいた。
どう出ても何だか上手くいかない様な、得たいの知れない不安感に襲われていたからだろうか、表情は暗かった。
昼に入るチャイムが鳴る。
それと同時に、多くの生徒が、購買あるいは食堂へと向かう、声、走る音などが聞こえてくる。
その中を悠人が向かったのは、二年生のクラスがある西棟の二階。
二―Aと教室の上に掲げられた前まで来ると、ちょうど、涼音が廊下へと出てくるところだった。
いつも通りの凛とした表情の上に、芝居かかった喋り方で、悠人を見つけると呟いた。
「おや、丁度いいところだったか。それでは行くとしようか。」
「はい……。」
まるで保護者の様に悠人を連れて歩き出す。
その様に、クラス中からどよめきが起きた。この一年の間に彼女が振った数は星の数ほどになっている。その涼音が、男子生徒を連れているというのは怪しむことはごく自然なことだったのだろう。
「おい、奥泉が男を連れてるぞ!」
「ちっこいな、あれ一年か?」
そういった言葉が耳に入ってくる。
中には悲鳴に似た声もあったが、無視をして先を急ぐ様に、二人は歩調を早めていた。
悠人は周りの声がどうしても気になるらしく、子犬の様に彼方此方に耳を向けている。
涼音は落ち着いた表情だったが、少し顔をしかめ、右手で髪をかき上げた。
「なに、気にすることは無い。――それより例の人のほうが問題だからね。」
「そう……ですね。」
自信なさげに、涼音に同意する。
悠人は、未来の助言のとおり一度涼音に連絡をいれたのだが、思いのほか彼女の反応が渋かった事が気がかりだった。
話しを聞いた涼音は、一学年の違いであるため、良く秋吉ネージュについて知っており、『暴君みたいな人だからなぁ』とため息をついて、その上で、彼女は一つの申し出をした。
それは、自分も同行するというものであった。その真意は分かりかねた悠人だったが、一人でも助っ人がいるのでは、気持ち的に違いがあると思い、承知した次第だった。
しかしそれは、涼音に庇ってもらう様な構図となってしまいっていたため、事の発端である自身の作品に対する負い目と負いまって、彼女への負い目を増大させる結果になっていた。
「とって食われるという物でもなし、さっさと行こう。」
涼音は足早に人混みの中を抜けていく。
それに遅れないように、時折走る様にしながら、悠人は追いかけていく。
東棟までくると、人の波は幾分落ち着いていた。昼食時であることもあり、校庭からの笑い声や、どこかのクラスから大声が響いてくる。
その中で、一クラス、静まり返ったような場所があった。
三―Cと掲げられた扉の前に、一人の男性が立っている。
黒く長い艶のある髪をオールバックに固め、品の良い紺色の金属フレームの奥に、鋭いまなざしが涼音と悠人を見つめてくる。
「……来たか。」
「えっと、羽原儀さんですか?」
男はそうだと、一言いうと、扉を開けて奥へと招き入れる。
クラスの中は異様な静けさで、人影が少ない。黙々と昼食をとる者が数名、後は外へといったのだろうか。
その教室の窓側の最後尾に、栗色の髪を窓からくる風にたなびかせながら、空を眺めている秋吉ネージュがいた。
「ネージュさん、例の彼がきました。」
「――そう。」
紫丹の案内に鷹揚に頷き、ゆっくりと視線を移してくる。
しかし、その視線は途中で涼音で停まる。表情を強張らせたかと思うのは一瞬。
視線が悠人を捉える。まるで蛇に睨まれた様な感じになって軽く震えがやってくるのを悠人が感じた。
「さて、今日わたくしが呼んだのは、楽しく昼食をしようとかそういう類のものでは、ありませんわ。当然、事情は紫丹から聞いていると思うので、さっそくやってもらしましょう。」
「あ、あの、秋吉先輩」
「何かしら?」
「話しが分からないんですが……。何をしたいのですか?」
その言葉に、「察しが悪いのかしら」などと呟き、紫丹を睨むように見つめる。
体ごと二人に向き直ると、足を組み、その上に静かに手を乗せた。
しかし、口を開くのはネージュではなく、紫丹だ。
「すまない。メールに書き損じたかもしれないが、『外装の無償提供』をしてほしい。今後ネージュさんが気のすむまで。」
「――お断りします。」
即座に返答する悠人に、紫丹は目を丸くして見つめる。
しかし悠人の表情はまっすぐなままだ。先ほど震えていたとは思えないほどに。
紫丹がゆっくりと口を開く。
「理由を聞いてもいいかね?」
「なぜ、外装の提供を無償で渡さなければいけないのでしょうか。僕は、自分の趣味で作っている物を、一般よりは低い価格で提供しています。それは、僕自身がアマチュアだという事にもつながりますが、だからと言って、無償で渡すほど僕も気前がいいわけではないんです……。」
「……。」
「あの、普通に言ってくれれば他の人と同じ様に調整も込みで、千円で受けてもいいです。でも、ただでは……。」
「紫丹、彼はいまいち理解をしていないようなのだけど?」
ネージュの静かな言葉に紫丹は、一瞬顔を引きつらせる。
それを取り繕う様に、悠人へ視線を動かした。
「六人部くん、君の考えはもっともな事だとは思うのだが、ここはネージュさんの為に、ひいては君の為になるからこそのお願いなんだ。
君の―あぁ、何といったらいいか。」
「どうであっても、自分の作った物をただでと言われて、良い顔をしないのは、羽原儀先輩だって分かるでしょう。だいたい、メールで一言言ってくれれば悩む必要なんてなかったことでした。」
「それは、そのすまないとは思っているが。」
「お断りします。自身が善意で渡すのであれば構いませんが、あまりにも僕を見くびっていませんか? 他の同じようにメールでもくださいよ。そしたら対応します。」
悠人は物おじせずに、そう嘯く。
ぎゅっと握った手は微かに震えていたのを涼音は見逃さなかった。
「わたくしが、他の者と同列になる……。そのことが理解できているのでしょうか? それとも、彼女だけが特別だという事でしょうか?
――そうね、まずそこの貴女。この間の七夕で随分持ち上げられていた様だったけれど、それも彼が手掛けた物なのよね? わたくしも投稿者の書き込みで拝見したので、まず間違いなのだと思うのだけど。その上で、貴女。どのようにその外装を得たのかしら。
得ただけではないわ。普通に考えてただ綺麗というだけならいざ知らず、本物の浴衣に合わせるなんていうのは、着た上から調整でもしないと無理でしょう。
本人でやるのでしたら、理解はできますわ……。それがどれほど大変な事か、貴女でもおわかりよねぇ。でも、貴女があれほどの物を調整できる腕前ではなさそうにお見受けしますの。」
鋭い目線を涼音に向けながら、ネージュは小鳥がさえずる様な声だ。
しかしその言は、有無を言わせない。しかし、悠人は少しむっとした表情を見せる。
それは、彼自身の技術に対する驕りなのかもしれないが。
「別に着てなくても調整くらいはできますよ。過去の写真を見せてもらいましたし。
奥泉先輩だってそのくらいの調整、やろうと思えばできるとは思いますよ。ただ、僕個人の趣味で作った物を譲り渡すから、僕がやっただけで。」
「六人部君――。」
「譲ったのですか……。しかし、わたくしには譲らないと……。」
ネージュは、肩を怒らせ、少しわなわなと震えている。
その様子を気にすることなく、涼音は真正面から宣言する。
「彼は、私の為にやってくれたものだ。秋吉さんに関係ないんじゃないかな。」
「そう……。」
そのつぶやきは何かを納得したような音を秘めている。
少し不気味な感じを受ける彼女のつぶやきに、紫丹は戦慄を覚えた。
しかし、ここで口をはさむわけにはいかないと、ただ、ゴクリと喉を鳴らすにとどまった。
「いいですわ。かわいいワンちゃんを従えた貴女……。」
「酷い物言いだね。」
「わたくしは貴女を認めません。彼にふさわしいのは、わたくしだと貴女に知らしめる事にいたしましょう。彼の気が変わる様に。」
それは、あまりに飛躍しすぎたネージュの思考のための宣戦布告だと理解できたのは、この場で、普段から毒されている、紫丹一人しかいなかっただろう。
涼音は眉間にしわを寄せてネージュを睨みつけるようにしている。
しかし、その宣言の意味が分からず悠人は、首を傾げた。
「なんですそれ、僕がどうこうならまだ分かるんですが……。」
「まぁ、大方この秋吉さんは、私を敵としてみている様だ。なに、気にすることはないだろう、あまり派手にやれば去年の二の舞だ。」
「――。夏休みに入る前には改心させて差し上げます。」
何かを決意したように、手をパンッ、と打ってネージュは笑みを浮かべた。
話し合いではないな、と悠人は心の中でため息をついた。
◆◆◆◆◆
悠人の身に、それから何かがあるということはなく、日数は流れていく。
学内のネットワーク上でも、何か問題になっている様な―全学連の支部である生徒会における陳情などもなく―気配は微塵もなかった。
しかし、それは表立っての事であり、内実、涼音は多くの問題を抱えていた。
たった一週間。されど一週間。
その間に、彼女の怒りは限界を超えようとしていた。
夏休みまで、残り三日と迫った中でそれはふつふつと湧き上がってくる物だった。
放課後の屋上で、涼音はいつもの通り入口の上へと上がり、給水塔の影に隠れていた。
いつもであれば一人であったが、今日はそこに別の者が二人。
一人は悠人。もう一人は未来だ。
缶コーヒーが一本ずつ目の前に置かれている。
涼音の表情は明らかに疲れを見せている。いつもの様に凛とした姿ではなく、くたびれた社会人の様な印象を受けた。
目の下に薄い隈ができている。
「大丈夫ですか?」
「――正直、しんどい。気疲れが酷い。」
「無理そうなら……、もう一度、秋吉先輩に話しにいきますよ。」
その悠人の申し出に、いや、と短く返す。その言葉に覇気はない。
涼音がこの一週間の間に抱えた問題は、表面上こそでないものの、かなり陰湿なものだと言えなくはない。
「正直、秋吉先輩が、表立って何かをするだろうと思っていたのだけれど、全くの見当違いだった。……そのせいで変に気疲れをしてしまうな。」
「不定期に奥泉先輩の画像がアップされるくらいっすもんね。って、先輩の場合は前からでしたっけ?」
「あれは、断りを入れられて写真部などが撮っている物だからね。――同じとは言えないね。」
未来は、過去に投稿された画像を探すと、右手で差し出してくる。
それを、涼音は右手で払う様に、「もういいよ」と気だるげに退ける。その表情は渋い。
「実際、写真なんて可愛いものだよ。本当に変な事ばかりしてくるものだから、正直何か本当に厭らしい事でもあるのではと勘繰り続けてしまう。
特に私の鞄が紛失した時には、ほら、とも思ったくらいだったがね。しかし、実情は『水で濡らされた鞄が戻ってきた』程度だ。まぁ、高い物だったから怒りたくもなるがね。
中に入っていた本にはかわいそうな事をしたが……。実際誰がやったか全く分からないのだから彼女の所為と決めつけるわけにもいかないしね。
本当に、靴が無くなる。鞄が無くなる。授業中のガラスに向けて三年が『誤って』ボールをぶつけてしまい、私の横の窓ガラスが割れる。当たり所が悪くて、私の前に座っていた生徒が病院に運ばれていたな。
階段で上から物が落ちてくるなんて言うのは、しょっちゅう。一日三度もされればさすがに気を付けてしまう。その物も大概可笑しいが。空き缶やボールくらいならまだ避けきれるが、バケツから水を落とされて来たりする始末さ。
どれも、誰がという主体が分からないのが口惜しい。背格好は見えるがね。
彼女の指示で誰かが動いているのだろうが……。とはいえ、さすがに三年生を背格好だけで特定するのは難しい。」
「その被害だけでも生徒会に相談したらいいんじゃないですか? しっかり宣言もされてるわけですし。」
そうだね、と涼音は頷く。
しかし、生徒の自主権については、多くの問題を抱えているのも事実だった。
よく言えば生徒間で問題を解決できる事だが、それは、多少の事では教師陣の不介入を意味する。
昨年あった事件については、さすがに生徒会の上層部である全学連からも指導が入ったようだが、「人一人の命で」その程度でしかない。
もっと大袈裟になるべきところだと誰もが思うが、「直接的な」いじめでない限り、対処をしない方針がずっととられてきた。それは性善説に基づく規則づくりの病根とも言えたが。
「脅されたということで、生徒会に進言したところで、彼女への口頭の注意で終わりだろう。それで彼女はやめるとは思えない。」
「それは、そうですけど……。でもそれなら、僕が尻尾でも振ればいいんですかね。」
「ユウジンが振ったところで、もう標的がずれちゃってるんだからかわらないんじゃないの?」
「なんでそこまで他人と同じになるのが嫌なのかな……。」
なんだ、と未来は意外そうな顔をして、悠人に一つのファイルを手渡す。
それは、秋吉家の外観を移した何枚かの画像だ。
「秋吉先輩は、元議員の孫だかでさ、この辺じゃ結構有名人よ。それが自身のアイデンティティを守るためには、他者より高いところから見下ろさないとすまないっていう、ゆがんだコンプレックスの所為だろうぜ?」
「なにその自己顕示欲。」
「ユウジンには分からないよなぁ? 自分が好きな事をやってればいいです。他人にいい顔する必要もないです。っていうお前じゃぁなぁ?」
未来は苦笑いをしながら、悠人の背中をバシバシと音を出して叩いていた。
顔をしかめそれを受ける悠人は、嫌がる素振りをしながら、
「そんな事いったって、自分の好きでいいじゃんか。誰かに頭を下げるのは、社会に出てからで十分だって。
そもそも生徒の自主権についてもその辺が曖昧過ぎる。だから問題ばかり起きてるんだってば。権力の為に作ったわけでも、誰かに迎合するために作ったわけでもないのにさ。
誰かにくぎを刺すべきところはちゃんと刺しておいてもらわないと、全くの無意味じゃないか。
昔は学校側に大きな落ち度があったわけだろ? 特に校則なんてひどい物だったじゃないか。それを是正するのが第一歩として第二次学生運動時代に大幅な見直しがされたのは、小学生でも知ってることとして。
その是正の恩恵があった反面、生徒会の権力の掌握、または全学連における権力の集中を誰も止められなくなってしまったんじゃない。
うちの学校ではそれは微々たる物だったんだろうけど。そのおかげで秋吉先輩みたいなのが自由奔放になってるわけでしょ?
去年の事件についてもただの注意って意味だけじゃないんですから、生徒会をもっと使う事をしてもいいと思うんだよね。」
涼音は、目を見開いて、珍しくよくしゃべる後輩を見た。
「案外、君は思慮深いのかい?」
「先輩、それ、けなしてます?」
「いや、感心したんだよ。」
涼音は、悠人に顔を近づけると、まじまじと見つめた。
悠人の表情はいつも通りに見える。悠人の呼吸音も聞き取れるほどに近づく。それでも彼の感情の起伏は大きく変化した様には見えなかった。
涼音の同年代であっても、頭で分かっていたとしても実際に生徒の自主権などという事を口にする者は居ないだろう。
まして、この学校では生徒会の意義を彼ほど理解している者がはたしているのか。
「そうだね……。生徒会に話しにでもしてみようか。」
「その方がいいと思いますよ。」
二人の視線が交差する中、一際大きな――わざとらしい咳払いで――未来は告げる。
「そういう姿が見られるから、『二人が恋仲』だといわれるんですかね?」
「――ッ」
涼音が慌てて距離を取る中、悠人は平然として見えた。
しかし、平然と見えているだけで、内実は違うのだろう。手の甲には、薄く汗がにじんでいる。それは暑さの所為にするには少々不自然すぎる。
「そ、そういう噂も確かにあるは、ある。正直、意識しすぎているきらいはあるのかな……。私はどう対応していいのか分からないというのが正しいが。」
「そうなんです? 奥泉先輩なら、モテる方なんでしょ? 言われ慣れてる物だと思ってたんだけどなぁ。」
涼音は、そう嘯く未来に、視線を向ける。道化の様にへらへらと笑う未来に少し苛立ちを感じつつも、冷静になる為だろう小さく深呼吸をした。
「そういうユウジンは、まんざらでもない様子で?」
「まー……、先輩に迷惑かけたなぁって思うくらい。」
「すげー他人事じゃん。」
いいか、と悠人は未来を見ると、指を立てて、真剣な顔で言う。
「先輩が好きでもない人と恋仲になってる、と噂になっていたところで、実害は何もないんじゃないか。アイドルで恋愛禁止ならスキャンダルになるんだろうけど、たかが学校でそうなる?
僕自身に被害もないしなぁ。実際に付き合ってるなら隠したいとかあるのかもしれないけどさ。……あー、まぁ意識はしちゃうけどさ。」
「――え」
悠人は、涼音を見てはにかんだ。
その屈託のない笑みは毒気を抜かれる様だ。
「おやおや、ユウジンは意外と手が早いね。」
「違うよ。……正直、魅力的な人であるのは間違いないと思うんですよ。じゃなければ、わざわざカタログに載せる気の無い物まであげませんってね。
――でも噂は、双方の意見も何も加味されてない、言いがかりの類だよ。
未来は知ってるだろうけど、中学の時の『いじめ』の時も同じだったから、どっちかっていうと、結構神経質にはなっちゃうんですよ。ほら、茉理の時の。」
未来は手を打って思い出した様に手を打つ。
身長の所為によるいじめは様々あったが、その中で最も被害が大きかった事を思い出した。
「おー! あったな、周りから茉理と『姉妹』認定されて、それで全校生徒が面白がってたやつな。」
「それだけならいいけど、一度体育の後に、制服まで失くされてるからなぁ。スカート履けって言われたんだぜ? あれも、生徒会に話しをして止めてもらったんだよ。」
うんざりした様子で悠人は言葉を吐いた。
「そうだった。後輩も『ユウちゃん』呼ばわりだったもんなぁ。あの所為で、まだ中学にユウジンの名前を冠した規則が残ってるもんな。『六人部悠人を女子の様に扱う事は禁ずる。』
あれを読み上げた全校集会もすごかったよな、ある意味。」
「仕方ないじゃん。嫌だったんだもん。」
「……面白い事があったんだね。」
ひどいなぁ、と口をとがらせて、悠人は笑いをこらえている涼音に、じっとりとした視線を向けた。
しかし、その被害もあったおかげで、生徒会をどの様に使うべきかを悠人は他の生徒よりは良く心得ている。だからこそ、今涼音に言う言葉は一つだった。
「さっきも言いましたけど、やっぱり生徒会に言ってしまった方がいいと思いますよ。全学連が動かなくても、対処の仕方はあるんで」
「そうだね。……そうだ、その時は手伝ってもらえるかい?」
「良いですよ。」
そう快諾する、悠人は缶コーヒーを飲み干して天を仰ぐ。
影から出た彼の頭を、眩い太陽の視線が、焼き付くように纏わりついた。
◆◆◆◆◆
生徒会室と書かれた部屋は、静寂の中にある。
まったく人がいないわけではない。
一般的な教室の半分程度の大きさの中に、四角く長机が並べられていた。その窓際に四人の影がある。角に直角になるように並んではいるものの、視線を合わせるために体は向けている。
涼音と悠人は、壁を背にして座っている。
対して窓を背にしているのが二人。
一人は生徒会長で高校三年生、佐藤栄太。高身長の彼は、神経質そうな赤縁のフレームの奥に見えるのは鋭い眼光だ。体躯も均整の取れており、暑さからかまくっている袖からは、うっすらと血管が浮き出る腕を露出している。
もう一人は、人懐っこい表情をしている副会長、田辺亮一だ。生徒規則に合ってないように思える長い髪は、後で一つにまとめられている。生徒会長と対照的にあまり筋肉質ではなく、線は細く見える。
栄太は難しい顔をして対峙する二人に話しかけた。
「つまり、話し合いをしに行ったら、喧嘩を売られたと。その所為で、珍しく一人が怪我を負っているということか。」
「怪我の程度もあまり無視できるものじゃないですねぇ。ガラスもあって四針縫ってますよ。一応その被疑者については聞き取りはしましたが、『たまたま』という事ですからねぇ。相当狙わないと上手くはいかないと思いますが。」
栄太の言葉に、亮一が補足を入れていく。
どういった聞き取りだったかは分からずとも、ネージュの言葉によって、涼音を狙っているのは明らかというのが聞いてとれる。
涼音は苦い顔をして、しかたない、という様に小さくため息をついた。
栄太が言葉を続ける。
「二人に隠し立てすることもないだろう。当事者は危険行為が故意的であったことが確認されたので、二十日間の休部を言い渡した。甘い判断だろうが、大会に出れないだけでも痛手だと思ってもらえればいいさ。当事者とはその後『きちん』と話しをしている。なに彼女に対する告げ口程度で彼らの処分を甘くしたわけではない。
去年のこともそうだが、いくら当事者を取り締まったところで、根本……秋吉の事だが、彼女が停止を言い渡すまでそれは続いてしまうのだ。
同じ三年として恥ずかしくは思うがな。」
「――それでは、今回の件も止まらないと?」
涼音の問いかけに、うーんと、低く栄太は唸る。
その答えは、ネージュのみぞ知るといったところなのだろう、亮一とも顔を見合わせて答えを探る様に視線を交えていた。
「条件を相手が提示している……。であれば、夏休みまで逃げ切るというのも一つ。後たった二日だからな。とはいえ、秋吉なら直接的な手に出てくるか。」
「可能性もありますが、彼女なら、夏休みに入ってからでもなんでも……、あぁ自宅から結構つよくいわれてたんでしたっけ。」
「そうだな。全学連からの内容を聞いて、家でかなりの制限を加えてもらっているのは承知している。……であれば、短期にかけるのだろう。とすれば……。」
「でしょうね。」
栄太と亮一の話しに全くついていけない涼音と悠人は、顔を見合わせた。
何となく話しについていこうと耳を立てていたが、込み入ったネージュの事情を知らない二人にとっては、結局分からず、眉をひそめた。
すると、ほごん、とわざとらしい咳払いをして、栄太が二人に向き直る。
「まぁ、相談してもらった手前、非常に言いにくい事なのだが、何もしなければ、おそらく彼女は最終手段を用意してくることだろう。それを待ってもいいのではないかと私たちは考える。」
「なぜですか?」
「――その前に最終手段とは?」
涼音は悠人の言葉を手で遮り、栄太に尋ねた。
彼の言葉を止めたのには理由があるのだろう、涼音は、一度悠人を見ると任せてくれという様に小さく頷いた。
「……全学連規則には一つだけ、生徒間のトラブルを解消する明確な方法が記載されている。誰も気に留めることなく入学し、そして卒業までの間でそれを使う事はない。
――それは、合法的な方法で決闘を行うというものだ。」
「決闘は法律違反じゃないですか。」
そうだ、と栄太は云う。当然、刑法に違反することを全学連といえども、生徒の自主権といえども使える道理はない。
しかし、彼はゆるぎない視線をもって言葉を続けた。
「決闘といっても武力を使うものではない。スポーツによる行為であれば、遺恨を残さずに、青少年の健全な育成という社会理念にも適合する。
そこで昨今話題となっている物がある。おそらくそれを使ってくるのだろう。」
「それは?」
「ヴィグリーズ。……そういわれている様だが君達も知っているかい?」
その答えは当然イエスだった二人は、ゆっくりと頷く。
それは当然、というように感じたのだろう、しかし、栄太は言葉はそこで終わらない。
「あれの対人戦闘はやったことがあるかい?」
「いえ、僕は無いですけど。」
「私もないです。」
そうか、と栄太は頷き、思案をするように一度視線をぐるりと二人をなぞる様に、動かした。
「で、あれば不利な状況になるかもしれない。一度でいいから君達だけでもやっておくことをお勧めするよ。ただ、気負うことはない。断言しよう。彼女は最終手段では必ず負ける。」
その言に、悠人は息をのむ。ヴィグリーズの対人戦闘において一番の問題点になるのは、ゲームスピートだ。NPCとは違い普通に人が、それも、事象改変を行いながら行うのだ。
それを受け止める事も、ましては避ける事もそう簡単にできる物ではない。
とはいえ、そのゲームとネージュの関係がまだ見えない。そのことに悠人が眉をひそめていると、それを分かっている様に、栄太はつづけた。
「――なぜ、私がそうまでゲームの事で助言するかというとね。
秋吉は自身の絶対的な力をもってねじ伏せたいタイプなんだよ。私も生徒会長になってから散々な目には合っているから分かるがね。
今年に入って、去年の謹慎の腹いせに、生徒会への言いがかり等は日ごとに多くてね。私自身が決定したわけでもないのに、彼女のシンパは、日々嫌がらせさ。物の紛失、言われない暴言は、よくある事だからもう気にも留めていない。
怪我につながる様な直接的な行動がないだけましだと思う。
それらを嫌って昨年の副会長は生徒会長へ立候補を辞めたのだがね。私はそれを分かった上で成っている。
余りに程度の低い嫌がらせばかりだったので、直接彼女に言葉をかけた事もあるのだよ。
その結果……。彼女と一度だけ戦った事がある。ヴィグリーズという不完全な決闘でね。
その言葉に、悠人はやっと納得が言った様に、「なるほど」と呟いた。
「私の目からみての感想になるがね。彼女は『決着』を付けるためだけの儀式を外に求める傾向がある。
彼女自身が自分の心に素直すぎるために、『弱くても』素直に負けを認められる答えを求めているんだろうな。」
「――はた迷惑ですね。」
「六人部君は、以外と辛らつな言葉を言うものだねぇ。だが、その通りではあるな。」
そういうと、栄太は苦笑いをした。
当然のことではあったが、栄太にとっては、後輩からその様な物言いが出るのが新鮮だった。
過去に悲惨な結果があったことを知っている様子だった悠人の態度についても、栄太にとっては心強く思えたのか。
「であれば、君達は、後一日を有意義に使ってほしい。ということで、彼女から最後の申し出があるまで耐えてほしいというのが生徒会の答えだ。
嫌がらせの実行犯は分かれば捕まえるが、積極的な取り締まりは出来ない。なにせ、誰が彼女のシンパか分からないのだから」
「そうですか……。でも、後一日の内に本当に終わるのなら、耐える方向で考えてみましょう。」
「すまないな。」
栄太は難しい顔をしたまま頭を下げた。
それは、生徒会の権限が図らずしも大して無い、ということを物語ってはいたが、こうも頭を下げられてしまうと、涼音も悠人も仕方ないという感じが強い。
亮一が拝むように左手を突き出して、一言添える。
「もし、直接的に危ない事があったらすぐに言ってほしいよ。窓の件は把握できていたから対応が早くできたが、そうじゃない者も多いとおもうからねぇ。」
「物や水程度なら毎日階段で落ちてきますよ。」
「一応君の西棟の階段付近に生徒会の者が見張る様にしておこうか。せっかく怪我がない中で、大事になっても困るからね。」
「そうしてもらえると助かります。」
分かったという様に栄太は頷いた。
後一日で本当に彼女は涼音と決着をつけるのだろうか、そういう不確かさだけ、悠人の胸の中に蠢いていた。
稚拙な文書ですが読んでいただきありがとうございます。
1週間程度で最後をあげれると思います。