第二幕
七夕の日、七月七日。
その初出は中国の詩文集、『文選』の時代にさかのぼるとされている。後に、中国の南北朝時代に、七月七日が機織りの娘と牛飼いの男のロマンスとして記されると、織女・牽牛伝説となって、日本に根付くこととなる。
尤も、明治における改暦により、グレゴリオ暦が取り入れられると、時期はずれたとしても、概ね七月七日で祝う事が多くなっている。
日本三大七夕まつりのひとつである『仙台七夕まつり』では、旧暦に合わせて行うため、八月に行うなど、地域によっての差は今も残っていた。
しかし、この街では新暦で行っていた。七月の第二金曜日から、日曜日までに開催されることになっていた。このため、七月七日が開催日にあたる事もあれば、開催日にあたらないこともあるのだが。
駅前には多くの人だかりができていた。
年に三日間、開催されるその初日にあたる金曜日。思い思いの恰好で街へと降り立つ人々は近隣街からやってくる人々だ。
臨時の改札が開かれ、駅に向かう人の流れと、区別された流れは、血潮のごとく街中へと人を誘う。
じっとりと重く熱い熱量は、太陽に熱せられていたアスファルトからも立ち昇り、陽が傾いてからもより一層の暑さを増していた。
視線を動かして見えるのは人の群れ。一人一人が、他人よりも主張しようとする感情が、拡張された世界の中で、創り出された姿を個性的に映し出す。
原色をふんだんに使った浴衣を着る者。好きなキャラクターを模した恰好をする者。より目立とうとクジャクの様な彩りの飾りを付けた者。あるいは、落ち着いた色調の和装を楽しむ者。
多くの人々は、他人に見られることを考えて外装を弄っていた。
聞こえるのは、駅から流れ出る人を誘導する警察のアナウンス。迷子の案内をかける運営の放送。客を呼び込む声。どれもが混然一体となった忙しなさの中で、人の波は、駅からメイン通りに進んでいく。
流れに乗り駅から北へと進んでいくと一段と明るさを宿した通りへと出ていく。そこは、多くの飾りが出迎える商店街のアーケード。
アーケードにしだれるように掲げられた竹に、飾りが五色の短冊が飾られた。そして、現実に、仮想にと幾重にも飾りは人々の目を楽しませてくる。
大型の箱物に、なびく吹き流し。赤から青へ、青から黄へと色は変わる。提灯の様に飾られた飾り、星を象った物に輪飾りなど様々な飾りが、夕暮れの空に掲げられ圧倒される。
さすがは、関東三大七夕まつりに数えられるだけある豪華さだろう。
夕日が差し込むアーケードに、色とりどりの飾りは懐かしさを増幅させ、古き日本の慣習を照らし出していた。
飾りを中心に、アーケードには多くの出店が並ぶ。
綿菓子、チョコや飴細工の香り。かき氷機の氷を削られる音。氷水の中に沈められた飲み物を手に取る氷の音や、金魚すくいのエアブローを動かすモーター音。
そのどれもが現実にあって人々を呼び込む甘い音。
客を呼び込む出店の数々は、赤、黄、緑、さまざまな暖簾を掲げ、その店を強調する。
看板の文字に合わせてネオンの様に煌々と輝くのは、目を楽しませる。
中にはお化け屋敷何ていう物もあり、傍までくると立体映像の入道が、ぬっと顔を出したりしている。これも拡張現実だからこその世界だろうか。
雑草の中に、美しく咲くユリの花がある。それはどこからでもきっとユリと分かる存在感を放つことだろう。たとえ一瞬だったとしても、その存在感は間違える事はない。
それは、今の奥泉涼音に当てはまる。
今時、本当に浴衣を着てくる者は少ない。そもそも着たければ拡張現実の世界でいくらでも変えられるのだから。
その中で、彼女の装いは強い色香を醸し出していた。
桔梗色を基調とした麻の葉模様の浴衣で、真朱の糸で蝶が二羽表と裏に舞っている様に配置されていた。そこに重なる―実際は少し大きめになるのだろうが、違和感のない大きさでまとまっていた―ように、拡張現実世界の色合いが重なる。月白色を基調とした、雪輪模様。それは色の名前のとおり月光めいた輝きは、煌々と存在を示してくる。しかし、それは決して強調しすぎる事ではない。元の桔梗色を背景に、まるで霞がかかった月の様に朧気な雰囲気を醸し出す。銀糸の様に見える鈍色に輝く刺繍は実際の浴衣の二匹の蝶を浮き彫りにし、桔梗色と月白色、真朱と銀によって見事なコントラストを描き出す。
あまりにも現実感のない、しかし見事な現実として彼女は存在している。
しかし彼女の感情はもっと違う物を表していると、美貌を少し怪訝そうに歪め、前に歩く二人を見ていた。
前には、二人のクラスメイトが歩いていた。
身長は涼音より少し低く、ミディアムヘアを後ろでまとめるのは、佐々木絵美。涼音とは付き合いが古く、中学時代の時から知った仲だ。
天真爛漫そうなその表情で、涼音やもう一人のクラスメイトにしきりに言葉をかけている。
外装のみ浴衣にしている彼女は動きやすそうな夏の装いに、素足のまぶしいショートパンツ姿だった。
もう一人は、涼音の身長よりも頭一つ分大きい男子だった。真田尊。サッカー部に在籍し、その身体能力は学校内でも一際光る。クラスも涼音や絵美と同じだった。一見すると堀の深いその顔立ちは、厳つさから声をかけるのをためらうほどだ。
彼もまた、外装のみ浴衣にし、ラフな格好にジーンズ姿だった。
自身の中学時代、あまりクラスになじめなかった事を後悔していた彼は、同じ様に壁を作っている涼音のことが気になっていたため、絵美の知人でもあるということから、涼音を呼んだというのが今回の件につながった。
このため、涼音からしてみれば、「クラスメイトに強制的に誘われた」という印象を与えてしまったのだろが。
その二人に半歩遅れる様に、所在なさげに涼音は歩く。
その表情は羞恥と諦め、二人への恨みがまじりあった複雑な表情だ。
…だまされた。絵美が浴衣で行こうっていうから着てきたら……自分だけだなんて。…
かれこれもう二時間近くになるだろう。人の波を見るのも少し嫌気もさしている様子だ。
その様子は愁いを帯びてその浴衣も相まって、美しさを増長させていた。それには、悠人が手掛けた外装の所為もあるのだろう。
彼女たちが歩く横では、彼女に対する言葉が交わされる。
「お、いいね。美人さん二人もつれて、一人は浴衣いかい! 珍しいね、ちょっと寄ってきな!」
「え、なに? 今時浴衣ちゃんと着ているなんて、なんかのプロモーション?」
「違うだろう、ただの学生……でもすごいな。混視だとさらにすげぇ」
「ばっか、あんな美人に声かけるのかよ? どうせ、男付きだろう?」
「きれいに着飾るね。うちの店の手伝いでもさせたいよ!」
「今年の織り姫は美人じゃなぁ」
「おじいちゃん、あの人じゃないよ。そこのポスターの人だよ、織り姫は。」
こんな調子で言葉は、涼音の羞恥心をくすぐり続けていた。そのため、涼音は恥ずかしさのあまり、恐縮し、俯いてしまう。
三人は―特に、前を歩く二人は恋仲なので、余計に―楽しんだ様子で広場へと一休みに向かっていた。尤も、若干一名は違う様子で絵美におもちゃにされている様な状態だったが。
飾りがある商店街からだいぶはずれ、少し広場になっているところだ。
イベント会場として使われているそこには、簡易テーブルとイスがいくつも並べられ、ビアガーデンの様に盛り上がりを見せていた。
その一角に差し掛かった時、涼音の様子をみて、絵美は声をかけた。
「タケルさー。」
「ん? どうした?」
「少しは、スズネを気遣ってあげなよ。楽しんでるの、うちらだけみたいになっちゃうじゃん?」
悪い、と尊は一言謝ると、涼音に体を向けた。
左手にはいつ買ったのだろうか、綿菓子の大きな袋が一つ、手首からぶら下がっている。
尊は気落ちしている様に見える、涼音の額を突っついた。
「眉寄せすぎ。――悪いちょっと絵美とはしゃぎすぎたかもね。」
「メンゴ。」
あたりは暗くなりはじめ、照明が点けられている。モーターの駆動音が、薄く流れている七夕まつりのテーマソングを消していた。
「いや……。少し場違いな感じをね。」
その涼音の返答に、なるほど、と分かったように尊は頷く。
「あまり気にするなよ。周りの声なんて。楽しんだ方がいいぜ。」
「そーそー。せっかく外装も含めて綺麗に着飾ってるんだからさー。見せつけちゃえばいいじゃん。」
「あ、あぁ。」
力なく涼音は頷く。その羞恥の感情は、怒りにも似た感情を形成し、矛先を悠人に向かわせていた。
「六人部君……。好き勝手に弄りすぎだ。いくら何でも過去の画像から浴衣に完全に合わせてくるのは、普通のことじゃないだろう……。特に刺繍を合わせてきたのは完全に間違ったかもしれない。少し視線をずらせば飛んでいる様に見えるほど臨場感がでてしまった……。専属デザイナーでもいれば別だろうが、普通じゃない。尤も、最後の方、私も悪乗りしてしまったのがいけないのかな……。」
「ん? なんて?」
雑踏の音にかき消されるほどの小声で恨み節を呟く。
この様子ではだめだと、尊と絵美は顔を見合わせた。
しかたない、という様に、尊は近くの出店でラムネを三本買ってくる。空色のプラスチック容器でできた特徴的な凹凸のある容器を、おもむろに一本右手に持つと、涼音の首筋に押し当てる。
ぶつぶつとつぶやいていた涼音のその冷たさに、びくりと体を強張らせた。
「――‼」
「飲めよ。――あんまり下ばっかり見てるとせっかくの美人さんが台無しじゃん。」
それを受け取る涼音は少し呆然とした表情だった。
「ぶー、タケルはスズネをそう見てたの?」
「絵美……。奥泉の事は別だよ……。」
呆れた様子で尊は、絵美にも一本渡す。
絵美は、口を尖らせたまま、それを受け取り一口飲む。
「まぁ分かってますけどぉ。うちが一番なのは分かってますけどぉ!」
「はいはい。」
尊は一口飲むと、「つめてー!」とわざとらしく大げさに声を出した。
夏の蒸し暑さに、染みる炭酸飲料の心地よさに顔を綻ばせ、尊は涼音に笑いかける。
「無理に合わせてもらってるなら、悪い。……でも、奥泉は壁を作りすぎだと思うぜ。そんなことじゃ、あと一年つまらないまま過ごしちまうからさ。せっかくなら少しは周りを見ようぜ。
今日も、気合入れて浴衣まで着てきてくれてるくらいは期待してたんだろ? なら楽しもうぜ。まだ時間はあるんだし。」
「確かに。うちもそう思うわ。楽しんだ方が勝ちだし。」
何にだよ、と尊は苦笑で返す。
それにつられて、涼音の表情が少し和らいだ。
「そーそー。笑ってるほうがいいって。奥泉は今日楽しみにしてたから、そんな派手な恰好で来たんだろう?」
「あ、いやこれは……。六人部君が……。」
初めて聞く名前に、絵美は目を丸くする。男っ気の無いものだとばかり思っていたが、という表情だ。
実際、涼音の容姿は、同学年の中でも抜きんでている。
しかし、男には興味もないばかりか、クラスメイトとも打ち解けようともしていなかった。
過去に、その容姿に惹かれて、上級生なども告白をしたというのを聞いたが、全て振っている事実を知っている絵美にとっては、男性名が出てくるというのが意外だったからだ。
「お? 彼氏? それともデザイナーの知り合いか?」
「そ、そんな関係じゃ……。」
人の名前を呼ぶのも少し気恥ずかしさを感じる涼音には、なんて返せばいいの分からず、言いよどむ。
部活で多くの人と接する機会のある尊は、思い出したように助け船を出した。
「六人部……、ってあの一年で外装やってるやつ?」
その言葉に渡りに船という様子で、すぐに涼音は頷いた。
「あ、あぁ。……屋上で会ってね。せっかくだからって用意を。」
「へー。あいつの外装の事は部活の中でも話題になってたわ。入学して三ヶ月しかたってないけど結構すごいって。なんでも自作らしいだよね。ほら、学校の掲示板にも依頼受けますって出てた気がしたよ。」
「あ、見た事あるかも。――でもさー、タケル。」
絵美が思った事を口にする。
それは、技術的に疎い彼女でも思っていたことで、外装と合わせるには、完全に同じ大きさに設定がされている訳ではないことと、その調整がいかに面倒かを想像できたからに他ならないだろう。
「ここまで合わせる事ってある? よほど腕のいいデザイナーじゃない?」
「それ、俺も思いました。――あの一年がすごいのか、それにあわせて浴衣を着た奥泉がすごいのか正直分からないけど。でも、そうとう手は入ってるよね。」
たしかに、と絵美が見つめてくる。
その視線は上から、下までゆっくりと、舐めるように見ていく。
霞がかかった様に見えるその儚さは、一枚の絵画にして残しておきたいほどだったのだろう、絵美は、にやりと笑った。
「スズネー。」
「な、なんだい?」
涼音は、妖しい笑みを浮かべる絵美に、気圧される。
「ちょっと撮らしてよ!」
「ま、まて! というか、そもそも、こうなったのは絵美が浴衣で行こうというからであってだね!」
「へへー。うちも外装では着てますよ? でも、本当に浴衣着てくるなんて今時思わないじゃん。面倒っていうのもあるけど。あ、その表情いい。」
「……はぁ。」
二時間雑踏の中にいた涼音には、絵美の行為を止める元気が残っていない。
絵美の腰に吊り下げられているウィンクのボタンを押そうとも考えたが、もう遅い。
「なんか、悔しいんだけど? 今時、混視を気にするのとかって小物系バッカじゃん。それなのに、服自体で合わせるとか超絶めんどいのに……。あ、何枚かクラスの方に上げておこう。『七夕きてまーす』と。」
「……。まぁ、話を聞いてくれないのはいつものことだったね。」
絵美が勝手に涼音の写真を学校内のネットワークにあげているのを横目で見ながら、今日一番のため息を涼音はついた。
今更クラス内のネットワークに、自身の写真が上げられたところで、大した問題にもならないと鷹をくくっていた。
というのも、人気にある生徒などは、写真部などがプロマイドとして販売するなど、地味需要が存在し、その中に涼音も入っているのは承知していたからだ。
涼音は、諦めに似たため息の後、降参をするように両手を上げた。
「ま、それくらいさ、いいんじゃないの? 奥泉はもっと見られることも考えたらいいのに。もったいないぜ。本当。」
「真田は、もう少し、私に気を使った方がいいとおもうがね。」
「はは、俺が気を使ったから連れてきたんだろう?」
それもそうだ、と涼音は渋い顔をする。
「もー、すーぐそうやってふくれちゃう。スズネはよくないんだ。笑わないとせっかくの可愛さがもったいないじゃん。その六人部って子もそんな顔見たくてそこまで手かしたわけじゃないんでしょ?」
「ぁ……。」
悠人の事をいわれると少し弱い。
ほぼタダ同然でもらい受けているのだからという負い目があった。
「てか、その外装いくらかかったの? 調整費だけ考えても五、六千いきそうなんだけど……。」
「いや、明日付き合う事で……。」
言葉が足りなかったと涼音は自覚した。しかし、その言葉を絵美は見逃さない。
「え? まじ? 奥手だと思ってたけど、年下好き?」
「あーだから、先輩たちには……。なるほどなぁ。」
「ちょ、ちょっとまってくれ、違うから!」
「えー。なんか怪しいんですけど。」
その言葉に、尊が燃料を投下する。まるで火に油を注ぐような勢いだ。
学校内のネットワークには、学生名簿―もっとも入学時の写真になるが―が用意されている。そこから、悠人の写真を持ってくると、絵美に手渡す。
「なぁ、六人部の写真あったぜ。……ほらこのちっこいやつ。」
「え、まじ? かわいいんですけど。てか、女子よりかわいくない?」
「なるほど……奥泉は、面食いなんだ。」
あぁ、なるほどといった感じで絵美は手を打った。
「ち、違うったら!」
「焦ってるってことは~?」
「はぁ……もう、良いよ……。」
半分自棄になった様子で、もらったラムネを一口飲む。
喉の奥に入り込むその感触は、夏の夕立の様に刺激的な物だった。
◆◆◆◆◆
七夕まつりの騒がしい様相は、夜になっても続いている。駅には人がまだ多くたむろし、多くの出店は煌々と様々な色で道を照らしている。
それは、夜空に輝く星を見えなくするほどに。
その騒がしい駅周辺から線路を渡り、南側に進むと海岸まで続く南北に通ったメインストリートが出迎える。
その道を海岸に向かい南へ進んでいくと大きな交差点があった。
その交差点の北西側に、鬱蒼と茂る木々を蓄えた邸宅がある。
門には警備が二名配置され、その堅牢さは一般の建物ではない事を教えてくれるだろう。
『秋吉家』と書かれた門。
そこをくぐると見事な日本庭園が迎えてくれた。ぼんやりと光を放つ石灯籠を二つ超えていくと池の傍にその邸宅の全容を見る事ができるだろう。
平屋の和式建造物は、檜づくりの重厚な構えと周囲の暗さから、格調の高さをうかがえるその邸宅は、七十年代の学生運動時代に、学生側と、学校側の対等関係を樹立するために働いた元国会議員、秋吉貞弘のものだった。
今では引退しているものの、地元の名士として地域への貢献を行っていた。
その孫、ネージュ・秋吉は、邸宅の自室でゆったりとしたソファーに横になりながら、ネットを眺めていた。調度品は年代を感じるものでありながら、しかし決して風化させた物ではない。十分に手入れされたその部屋は、戦前の華族の邸宅の如く豊に飾られていた。
ネージュは、フランス人の母親に、日本人の父を持つその少女は、母ゆずの栗色の髪を豊かになびかせている。その相貌はハーフらしく各パーツが強く主張する。しかし、決して嫌味にある顔立ちではなく、大きな瞳には澄んだ青、小ぶりな唇に薄紅の色を蓄えて。肌の白さは透き通りシルクの寝間着に溶け込むように見える。
彼女の視界の端には、一人の少年が立っている。まるで軍人の様に鍛えられた佇まいは、一見すると彼女と同じ年とは思えないほどだろう。
羽原儀紫丹。彼女と同じ高校に通う少年は、秋吉家の親戚筋にあたる。
長く艶のある髪をオールバックに固め、品の良い紺色の金属フレームの奥に、鋭いまなざしが控えていた。
彼は、本家と分家という関係上、ネージュに良い様に使われており、今までにも多くの問題を、この紫丹に押し付けていた。
今日とて、本来立っている必要もないと思うが、殺気にも似たネージュの形相から、身を固くしたままであった。
尤も、実際に立っているのは彼女の傍ではなく、彼の家の自室ではあるのだが。
「紫丹。どうして、わたくしは、あの場にいけないのかしらね。」
「それは、叔父さんの言いつけじゃないですか……。俺に言われても正直許可なんて出せませんよ?」
知っているわ、と眉を寄せてネットの海を泳いでいる。
わざわざ聞く事に、苛立ちを覚えながらも、紫丹はそのことを口にしない。口外にできないだけの関係性が二人にあることを物語っている。
「わたくしが着飾って出ていれば、其れで多くの人が喜ぶというのに。……あぁ、なんて切ない時間なのかしら。」
紫丹は、その言に同意しない。彼女の妄想に付き合いきれないという風に、視線を外し気づかれないように小さくため息をついた。
いつもの事とはいえ、紫丹はうんざりしていた。ネージュの、自身がすべての頂点にいるような感覚は、いい加減にして欲しいものだと、口には出さないが思っていたからだ。それとなく何度も叔父、つまりネージュの父に進言したことがあったが効果はなく、昨年には大きな問題を起し、全学連から注意をもらっている程だ。
叔父は、『子供の事なのだから、好きにさせてあげたい、君にも苦労をかけるが……』などと簡単に放任を容認している様子だったため、紫丹は今ではもう諦めてしまっている程だった。大学受験を控えているこの時期においては、多少落ち着いている様だったが、それは単に『おもちゃ』が無いだけと知っているのは紫丹だけだった。彼女が学校での問題児たる現状をすべて解消するには、彼女の思い通りに事が運ぶ以外ないのだと思い知らされていたからだ。
「正直、俺は勉強にもどりたいんですが……。」
「あら、まだ大丈夫じゃない。話し相手になりなさい。」
「ネージュさんみたいに頭良くないんですから少しは融通してくれてもいいと思うんですが……。」
「そんなつれないこと言わないの――それともわたくしと話すのが嫌だというのです? そんなはずありませんわよね。しかも、今日は七夕よ? 同じ学校の生徒が、もし、わたくしより目立っているなんて事があれば――鉄槌を食らわせてやるわ。」
紫丹は、重い溜息をついて、頭痛をこらえる。
高校に入るまでは、まだ子供のお遊びだと思っていたが、高校三年になってでも同じように紫丹を召使だとおもっているその考えが、紫丹の性格をゆがませている元凶だった。
しかし、家の関係性から強く出れないストレスは、彼の胃をきりきりと痛めつけていた。
それを毎晩繰り返すのは、ほぼ拷問と言っても過言ではない。
自身の将来すらも考える時間が満足に取れない中で、なにが進学だ、進路だと唾棄したくなる彼の気持ちを代弁するかの様に、今まさに、胃が痛くなるのを感じ、紫丹は顔をしかめた。
ネージュは、その様子に気を咎めることなく、端末を操作する。
なにを見ているのかは紫丹からは見えないが、さっきの内容から、学校の生徒のSNSのチェックでもしているのだろうことは伺えた。
「なに……この子。」
「――?」
ネージュのつぶやきに、紫丹は眉を顰める。なにか見つけてしまったのか。そういうやってしまったという感情が表情に出ないように必死に抑えて問いかける。
「何かあったんです?」
「――なに、この子! ずるいわ! わたくしがおとなしくしていると思ったら、なに? 大体的に取り上げられちゃってるじゃない!」
「はぁ。」
これよ、とネージュは、紫丹に投げつける様にウィンドウを送った。
映し出されたのは一つの動画。
たった数秒の動画ではあったが、楽しそうに笑う男性の横に、一際目立つ女子がいた。
桔梗色の浴衣に浮かせた様に重なった月白色の浴衣の外装は、紫丹でも美が分かるほどに際立っている。特にその女子の相貌と合い、動画のコメント欄では何かのプロモーションかとの噂になるほどだった。
「目立って! ずるいわ!」
「はぁ。」
「誰よこのデザイナー! わたくしにも……献上するのが当たり前でしょう!」
「いや、それは無いと思いますけど。」
「おだまり!」
癇癪が始まるといつもこうだ、と紫丹は頭を抱えたくなった。
しかしそれをぐっと堪えて落ち着いた口調で伝える。
「あの、ネージュさん。」
「なによ。」
「しかたないでしょう。――言いつけで外には出れないのですから。その上、いろいろ問題を起こしすぎて学校側からも叔父さんに苦情が言ったそうじゃないですか。」
「それは、学校の問題よ! これは個人の問題じゃない!」
「ですから、そういうった事を控えてくださいといっているんですって。」
「なに、さっきから聞いていれば……。わたくしに意見を言うようになるとはずいぶん偉くなったものね?」
ぞくりとするような視線が紫丹に向けられる。
鋭く研ぎ澄まされたその視線は、紫丹の心臓をつかみ、そして離さない。早鐘の様に打ち鳴らし続ける心臓を、落ち着けようと呼吸が荒くなる。
思い出すのは、幼い頃の記憶。無邪気に、ネージュが無邪気に紫丹を『教育』した時の記憶が脳裏に蘇る。
流れる血の色、異物が爪の間に入る感触。
それらを思い起させる彼女の視線に、紫丹は言葉が詰まる。
「貴方はわたくしの道具……。そうだと教え込んだはずですが?」
「俺は……。」
「違うと? はんっ! では、道具以下って言うことかしら?」
頭に血の上ったネージュの弁を、無言で受ける。
深呼吸するように、ネージュの胸が上下する。少しずつ落ち着きを取り戻し、呼吸が平常になっていく様子が見て取れた。
「わたくしは、ただ、このデザイナーに『会いたい』の? 分かるかしら?」
「……。わかりました。」
ため息をついて、紫丹は自身もネット上を駆け巡る。
調べる事、そのことも彼女は紫丹に任せ、自身はその動画を何度も見直している。
同じ学校の者というのが唯一の救いか、と思いながら紫丹はその動画の主へのコンタクトを取ろうとした。
その時、コメント欄に思いもよらない情報が入っている事に気が付いた。
それは投稿者のコメント。
『高校一年生が作ったんだって』という一文。
あぁ、と紫丹は思い至るところがあった。学校のコミュニケーションアプリを起動する。
学生の自主権が確立してから、学校毎に生徒間のやり取りを円滑化するために導入されているものであって、その中には売買のPRなども含まれている。
その掲示板に一つの情報を見つけた。
「外装屋か……。」
つぶやきつつ、紫丹は情報を漁る。
六人部悠人と書かれたその外装屋の名前を、学生名簿から検索する。
現れたのは幼く見える一人の少年。無垢そうなその笑顔は、紫丹の心にずきりと痛みを与えた。この笑いをきっとネージュは壊そうとするだろうと危惧だ。
ただあるがままに、力を使って、奪おうとする。それはかつて『いじめ』といわれた暴行行為と同じであることを紫丹は分かっていた。
しかし、自身の保身を同時に考えていた。
…言うべきか、言わざるべきか…
短い時の中で、彼は考える。その先の結末を見通せないと、彼の安寧、自身の安寧それをどうするかを。そして、口を開いた。
「うちの学校の一年生、六人部悠人がそれをつくったようですね。動画に移っていた彼女は二年生の奥泉涼音。彼女は美人で有名ですね。」
「なんですって!」
「あれ、ネージュさんは気づいていなかったんですか? 後輩に凄い子がいるって、結構有名だったじゃないですか。」
「……、すごいって、見た目がそこそこ整っているだけじゃない。わたくしの方が何万倍も美しいにきまってますわ。」
…その自信はどこからくるのですか…
紫丹は目頭を軽く押さえ、眼鏡を直すと、ネージュに向き直る。
そして、学校の掲示板のウィンドウをネージュに送る。
「週明けにでも会ってみたらいいのではないですか? 昼休みの間には屋上にいるとのことですし――。」
「紫丹、話を全く聞いていなかったのかしら? わたくしが、直接、この、男に、会いに行く。なんていうこと、ありはしないですよねぇ?」
「……はぁ。」
「なに、その気のない返事。わかったのなら、彼を下僕に加える準備でもなさい。」
再び胃がきりりと締め付けられるのを感じ、さすがに、紫丹は身をかがめた。
それはお辞儀に見えなくもないことだっただろう。
少し機嫌を直した、ネージュはつぶやいた。
「六人部……悠人。」
◆◆◆◆◆
七月八日にもなれば、七夕の人出は前日の比ではないほどに膨れ上がっている。
それもそのはず、週末の土曜日ということもあり、家族連れが多いからだろう。
じりじりと照り付けていた陽が落ちた後も、地面から立ち上る熱気は、冷めることを知らない業火の様だ。
午後六時四十五分を少し回ったところ。
街の中心に存在する総合運動公園には多くの人が集まっていた。
木々が生い茂り、虫たちの音色を奏でる垣根も多くある公園だ。日々、全長二キロ程度の外周を走ることを楽しみにしているランナーたちもいる。
しかし今日は公園内に設けられた六十アールほどの広場に人が集まっていた。
ヴィクリーズのイベントがあるためだったが、その中に、悠人と涼音の姿があった。
動きやすいTシャツにハーフパンツ姿の涼音に、黒色のジャージ姿の悠人。手には三十センチほどのコントローラーを持っている。ストレージが専用のホルスターに収められ、悠人は腰に、涼音は太ももに付けられている。
これから始まるイベントでは、このコントローラーが彼らの武器になるのだ。
「いやー助かります。」
「なに……外装代はきちんと渡さないとね。」
「へへ、僕としては、お金より今日もらえるアイテムがうれしいんですけどね。」
「そういえば、参加するといっていたが、あまりその辺を抑えていなかったな……。よければおしえてくれないかい?」
いいですよ、と悠人は涼音にウィンドウを展開しながら話し始めた。
「ヴィグリーズは基本的に、NPC対PCという構図のイベントが多いんです。今日もその一つで、設定されているエインヘリヤルをどれだけ多く倒せるかっていうのがメインになってきます。
ただ、達成報酬としていくつか設定されている条件があってですね……。
一つ、事象改変は強化系のみ使用可能。それ以外の利用は規定外となる。
二つ、規定数以上のコンボ数を稼ぐ事で討伐カウントされる。今回は四回以上……地味にきつい。
三つ、一五体以上の達成で一段目の報酬……羽の外装をもらえます。
四つ、三十体以上の達成で、二段目の報酬―これが狙いなんですが―宝飾品のひとつ、ブリーシンガ・メンという首飾りの外装版ですね。いやーこれ、アクセサリーとしてはかなりうるさい方なんですが、いくつかに分解できるんで、その辺を……。
あ、まぁ……、という感じになっています。」
「――つまり、二人合わせて三十体を倒す必要があると。」
「はい。イベント時間は二時間あるんですが、たぶん一時間もあれば終わると思います。ただ……僕はあんまり最初の規定が上手くいかないんですよね。運動神経いいわけじゃないので……。いつも一人でやると、数自体は問題ないんですが、最初の規定値がきつくて……。」
そうなのか、と涼音は悠人を見た。
ゲーム好きだとは、外装を弄ってくれた時に話しでは聞いていたものの、さほど難しそうでもない条件に、涼音は意外な感じを隠せない。
「ちなみに、これは、一人で四回でも、二人で四回でも構わないのかい?」
「そうですね……。討伐カウントを一緒にする形にするので、パーティーを組んでいますから、僕が仮に一回攻撃あてて、先輩が三回とかでも大丈夫です。
でもその方がかえって難しいかもしれませんね。
正直、倒すだけを考えるならクリティカルを―首筋ですけど―狙えばほぼ一発でたおせちゃうんですよ……。ただ、それだと意味がないので、胴体とか脚とか狙ったりするんですが。
実際にやってみるとわかると思うんですが、待機時間を示すバーがでるんですね。一攻撃目が0.5秒、二攻撃目が0.25秒、ついで0.125秒の様に徐々に待機時間が減っていくんですよね……。」
「あぁ、なるほど、だから難しいのか。……でも手首つかってやればそんなに……。」
「まぁそうなんですけど、……ゲームって分かってても緊張するのもあるはあるんですよね。攻撃をくらったとしてもそこまで気にすることはないんですが……。実際に戦ってるっていう感覚になっちゃうと、どうしても焦りとかいろいろ……。
だから、大体一~二回くらいならまだ体は動かせるんでいいんですが、四回ともなると事象改変をうまくつかっていかないといけなくて。一回使うとフロイダが切れちゃうんで……。相手の反撃もありますから、装備値―ヒットポイントですが―の兼ね合いをみて上手くやるのは難しいですよね。
だから、討伐系は、あんまり得意じゃないんですよね……。」
珍しい、と素直に驚いた様子で涼音は目を丸くした。
普段から表情が少ない彼女であっても、その言葉はにわかに信じ難かったからだ。
幼稚園生であっても、事象改変を行う動きというのは、ほぼ日常生活の中で練習がてら使われている。
例えば、少し早く走りたい時、少し力が欲しい時、そういった何気ない動作で作動させている。力むに少し似た感覚で、力を溜める間をほんの少し用意する。そしてフロイダがその部位にたまったタイミングで、発現する。
力のかけ方は元々加速、減速、収束、放出の四つの系統以外は使えないから、視線の上下左右で指定をしてやることになる。
慣れれば即発動することも可能になるだろう。
紋章が浮き上がり散っていったフロイダが、再び体にたまるまでの時間―クールタイム―は全力で使って体中に纏っているフロイダがすべて霧散すると、約十秒の時間がかかる。
仮にその十分の一を感覚として持っているのであれば、ほぼ無限に使う事は出来た。
スポーツ界においては基本的に利用が禁止されているが、実生活においては『意識して』使われる技術であったから、なおさら慣れていないというのが珍しかったのだろう。
それを、扱い切れないというのが、『自転車に乗れない』のと同じ感覚だということは、悠人も分かっていたため、言葉を付け足す。
「全力になっちゃうだけなんですよ。細かい調整が……なんというかできないタイプなんだと思います。」
「君はなんでもできそうな感じがあったのに。少し可愛いところがあるのだね!」
声を出して、涼音は心から可笑しそうに、笑っていた。
その姿に、一瞬どきりとした感情を胸の内に抱えて、悠人は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「――それより、そろそろ始まるので、確認だけしときます。三十体なんてすぐ終わるとは思いますが、この公園内を歩き回って周りに迷惑ならないようにやっていきます。
時計回りでいいかな。多分、そのほうが人の迷惑にならないと思うんで。
ここは、人が多くて多分取り合いになっちゃうので、少し行ったところに第二広場があるから、そこからにしようと思います。
そこまで走りますけど、大丈夫です?」
「君に心配されることはないさ。君の方が付いて来られるかが心配だけどね。」
「……たしかに。」
ウィンクに表示されている時計が七時を示す。
アプリケーションを事前に準備していた悠人達の視界は、現実世界に別の色が混じりこんでくるというように見えただろう。
現実世界の彩度が落ち、ゲーム世界の彩度が上がる。
投影されるNPCが生き物であるかの様に色を放ち天から生れ落ちる。それは仮想世界から、現実世界へと降りてくる、そういった感覚を味わうことができただろう。
天馬にまたがる姿は五つ。
ワルキューレの姿だ。
白鳥の羽衣に身を包み、美しく髪をたなびかせ、颯爽と現れる。
「ヴァルホル宮へようこそ。」
そう馬上で告げるのは一人のNPC。
幼くも見えるその姿に似合わず、長いランスを携えている。
「今宵の戦も己の力を高めるための物と知れ。さすれば、来るべきラグナロクにおいて栄誉ある死を迎える事であろう。」
言葉と共に、アプリケーションを起動している者達に通知が出る。
それはゲーム開始の合図と、終了までの時刻のカウントダウンだ。時間は二時間から徐々に減っていく。
悠人はそれをアクティブ化したウィンドウにし、大きさを調整する。
必要な情報は色々とあるため、取捨選択しながら表示を切り替える必要があるからだ。
まず必要なのが、マップだ。公園の俯瞰図の様なマップが自身を中心に表示される。パーティメンバーは色が同系色になるが、それ以外はまちまちとなる。当然その中には、今回の討伐対象になるNPCも表示されている。
事故防止の観点から、そのあたりをうまく調整するのが運営側の腕の見せ所で、このヴィグリーズの運営は、よく練られたインターフェースを仕込んでいる。
敵となる物が現れた際に、マップに表示をするのもさることながら、近似の敵への誘導を行う機能も持っている。人が多いとバッティングすることはあるが、それが無い場所では指示に従って向かっていけばよい。
一般人にあたらない場所にNPCを配置するため、プレイヤーが出現ポイントに到達した時点で、NPCが出現するように設定されている。
次に必要なのが装備の表示画面だ。
自身のヒットポイントに相当するものが外装によって決まっている。基本的には頭部、胸部、腕部、腰部、脚部、腕輪、首輪の合計七部位に設定されている装備値で決まる。
悠人の場合には、装備値が三千と表示されている。パーティーメンバーである涼音は二千語百だ。
敵の攻撃は単調な物が多いが、一発の攻撃力は高く設定されている。
大体一回攻撃を受けた場合、大体八百~千のダメージが加算されることになっているため、それらを見るために装備値の表示を最小限にして、視界の左上に表示しておく。
必要に応じて外装を切り替えればヒットポイントを回復できることにはなるが、削られた装備値は二十四時間経過しないと回復しない。
外装を多く持っている方が有利ではあったが、よく見れば避ける事はたやすいので、それほど気にせずに遊ぶ事が可能だった。
次に必要なのが武器の切り替えだ。
敵の獲物によって切り替えができると対応力が増すため、最小化したウィンドウを左下へ配置する。必要があればタップすればすぐに切り替えができることだろう。
現状悠人が持っているのが三十センチの専用コントローラーだったが、二つ繋げて棍棒として運用することや、中には弓として使う者もいる。
悠人はそこまでの事をする必要はなく、片手剣と槍を切り替えできるようにしてあった。
「それでは良い夜でありますことを。」
ワルキューレの祝福の言葉と共にゲームが開始された。
悠人は涼音に向き直り、笑いかける。
「先輩、とりあえず移動で。」
「わかっているよ。ちゃんとついてくるんだよ?」
「ははっ。わかりましたよ。」
涼音がおどけているのを初めて見て、少しうれしい気持ちをあふれさせる。それは、笑い声として自然に悠人の口から発せられた。
しかし、次の瞬間にはその余裕はすぐになくなった。
開始の広場から第二広場までは概ね五百メートル。公園の東西を突っ切るような形に伸びた舗装された道を走る。
それを疾走する涼音の足は軽快だ。軽度に事象改変が行われているのだろう。彼女の足元にフロイダが霧散する青い光を視界でとらえる事ができた。
しかし、悠人の距離が離されるのを確認したのか、涼音が走る速度を緩めてくる。
心配されている事に、かっこ悪さを感じて、悠人は走る足に力を籠める。
悠人の両足に紋章が浮かび上がる。無限大を意味するマークの様にも見えるそれは、フロイダの循環を表す徴だ。体に纏っていたフロイダが、事象を改変するために集まった結果、力を開放するために―あるいは収束するために―回路を形成しているのだ。
地面に足が到達する。
速く
悠人の意識に連動するように、その力が解放された。両足の蹴り上げる力がまるでスパイクを履いた時の様に劇的に向上する。
しかしそれは、一回の力を限界まで上げたことによるスピードの上昇。
発生するのは両足分の二回のみ。
急激な力は、彼をトップスピードに乗せる事で収束する。
「なるほど――。」
涼音は興味深そうに、悠人を見ていた。
霧散したフロイダは、彼の後方へと大気と共に流れていく。
しかし涼音の様に、連続して発動しない。全力によって出された加速度は、一度彼を急激に押し上げたが、それを継続する能力までは持っていない。
涼音は、彼が追いつくまで走りを流す。
「力みすぎだね。」
「……はい。」
「なに、要は慣れさ。ちょっとだけ、力を緩めてあげればいい。」
「分かっては――いるんですけど。」
「なに、後でもう少し面倒を見てあげよう。」
今目指すところは、目的の第二広場だ。
二分もかからず、目的の場所に到着する。
事象改変を継続的に行えるようになれば、おそらく世界新記録の速度位は、高校生で出す事が可能だろう。
しかし、悠人にはそれができない。人並み以上には事象改変を使っているはずではあったため、慣れてはいたものの、その力の絞り方が単純に下手なのだ。
一度全力で使えば約十秒―体格によってフロイダの総量が変わるため、悠人の場合は八秒だが―のクールタイムが発生する。
「はー! とりあえず、到着!」
大きく肩で息をしながら、悠人は体を二、三度ひねって整える。
「さて、お目当ての物を取るように頑張るとしようか。」
「はい。えっと……もう少し先ですかね。――あぁ。マーカー出ました。」
悠人のマップと視界の両方に敵のポップ位置が表示される。
第二公園の遊具の傍になるところだ。
幼児用に作られた第二公園には、あまり高くないジャングルジムが出迎えた。その奥に滑り台があり、滑り台の先にある砂場に、動物の形を模したスプリング遊戯が三つ用意されていた。
「ここ……ですね。」
悠人が声を上げた途端、視界の中央に幾何学的な文様の円が生成される。
敵NPCのポップ表示だ。
地面から影が伸びるように現れたのは、一体の騎士だ。
黒い甲冑に身を包み、その手には巨大な両手剣を装備している。その頭上には、相手の装備値を示すバーが用意されている。数値は三千。
悠人は、固めの敵を引けたことを少しうれしく思ったのか、かすかに口角が吊り上がる。
対する悠人の外装は、胸部を覆うチェストプレートに、手甲、脚甲が淡く表示されている。
実際には腰部にベルトを付けているが、一見するとジャージに隠れてしまっているのだろう。
武器を片手剣にセットする。コントローラーの先に、八十センチ程度の刃が投影される。
「とりあえず、僕がやりますんで。」
「わかったよ。」
涼音は少し距離をとって様子を見る。
黒騎士が動いた。
その動きは、初動は緩慢に見える。その構えから繰り出されるのは薙ぎ払い。
一呼吸止まるっ鷹と思うと、その腕が振りぬかれた。
しかし構えが終わってから、払いまでの動作は神速の剣筋だった。
それに対して、距離をとって悠人は避ける。
ヴィグリーズというゲームは、攻撃の予備動作をより分かりやすくして、避けることを主眼に置いているゲームといって過言ではない。
相手の体が流れると同時に、今度は悠人の手番になる。
速く!
想いを載せて両足に展開された紋章がはじける。
疾駆。一足の力で黒騎士の懐まで入り込む。
この距離ではすぐに反撃は来ないと、悠人は経験から分かっていた。何発入れられるか。
強張る体に気合を入れる。
「フッ!」
初撃を横に、二撃を返す刃で叩き込む。
剣戟により生じる腕への衝撃は存在しない。現実には虚空を捌くだけだからだ。その剣に、重みを感じないまま、悠人は三撃目を放とうと左足を踏み込む。
しかし、黒騎士は許さない。
上段から振り下ろそうと両手剣が黒騎士の背後に回る。
悠人は、一度踏み込んでいる物を止める事は出来ないと判断。相手の右脇をすり抜けるようにして、背後に回りこむように、前へ踏み込んだ。
悠人の視界の端で、待機バーが削られていくのが見える。焦る気持ちを抑える。
見える黒騎士の背面に、刃を叩き込む。
「――はっ!」
呼気が漏れる。
狙うのは首筋。二度の斬撃を振りぬく。
クリティカルに相当する攻撃は、相手の装備値を零へと進ませた。そして、ガラスが砕け散るように、黒騎士は霧散した。
「はー……。」
悠人はため息をつく。
三撃目の待機時間は0,125秒だったが、大幅に超えてしまっていた。
倒したことによる討伐数もカウントされていない。
肩を落とし涼音に向き直る。
「こんな感じですね……。」
「なるほど……攻撃する腕の制動に改変を回した方がいいかもしれないね。」
「……そうなんですよね。僕の場合、その辺が上手くできなくて、どうしても距離とられるのも嫌なんでこういう戦い方になっちゃいますけど。
規定回数までは胴体狙いで、到達したら首筋狙いで、片付ける、っていうのが一般的ですね。胴体だけ何回きっても倒せはするんですけど、時間はかかるので。たぶん、十回も切ればいけるかな。」
「そうかい。次は……どれ、私がやってみるとしようか。」
「頼みます。」
一分ほど待つと、マップに、次の出現ポイントがマーカーされた。
数メートル先だろうか、そこにゆっくりと涼音は進む。
「ファイトっす!」
「少しは、頑張らないとね……。」
悠人の言葉に応えるように、つぶやくと、気合を入れ視野を広く持つ。
悠人の時と同じ様に、近くまで来ると、敵を出現させる魔法陣が形成された。
涼音は武器を構える。
悠人と同じ、片手剣を構えているが、軟式テニスをやっているからだろうか、なんとなく、両手で握り、中央に構えてしまう。
重心を下げ相手の出方を待つ。
出現したのは槍を持つ騎士だ。青を基調としたその甲冑は、視界に残像を引く程に鮮やかだ。
槍を構え少し後ろに引く行動が見える。
それは突きの初動の動き。
横へ。
それは最小限に動作させた事象改変が引き起こす瞬間的なサイドステップ。
速くと焦る気持ちを押し殺し、次に前方へと距離を詰める。
加速。
フロイドの帯を残し前方へと大きく踏み込む。
青騎士の引手に合わせた形に前方へと踏み込んだ形だ。この距離であれば長物よりも、涼音に有利。
「――フッ」
小さく漏れる呼気は相手の背後へと回る一足の為に。体をひねるように青騎士の横を跳躍する。一足の先にあるのはがら空きの背中だ。
速く鋭く。振るわれる右腕。手首を返し最速で剣を返す。
最大の
四度の斬撃。最小動作の斬撃は、フロイダの青白い帯を虚空に線として描き出す。
…まだだ…
青騎士は体をひねるように槍を横薙ぎに振るってくる。相手の装備値は高いまま。
…だからこそ…
「首筋です!」
悠人の言葉に反応するように残光を残して最後の一撃が繰り出される。
首筋へと延びる剣を遮るものはない。
強く!
焦る気持ちがすべてを出し切る。一際右腕に、強い青い光を残して、剣は相手を確実にとらえていた。
クリティカル。鋭く入ると同時に、青騎士は霧散する。
「――はは。」
「先輩さすがですね!」
嬉しそうに悠人が駆け寄ってくる。そして、労う様に彼女の左手をとって上下に激しく振った。
悠人に触れらたことに因るものか、はたまた、先ほどの緊張が抜けたたためか、涼音の心臓は一段高い音を立てた。
「いやーはじめてなのに、すごいですよ! 大体動き読めるまで、何回かは攻撃もらうんですけど、最初っからこれなら……。実は結構やりこんでます?」
「いや、クラスメイトに合わせるために、少しだけだよ……。」
涼音は、気恥ずかしそうに、コントローラーを持つ右手で頬を掻いた。
「この調子で行きましょう! とりあえず……僕も練習がてらやるので、交互っていうことで。」
「あ、あぁ。」
離される手の感触に、少し名残惜しい気持ちを感じつつ、涼音は頷く。
涼音は、その感情が、前日の絵美の言葉を伴って反芻される。しかし、おそらく高校になって初めて、異性と触れ合った事による高鳴りだと、自分に言い聞かせるように、一度深呼吸をして落ち着かせた。
その後は、順次交代をして一時間かからず、討伐数をクリアした。
そして、それ以上やる事もないので、自動販売機の傍まで移動した。
「先輩、何飲みます?」
「あ、いや、私が出そう。」
「いや、いいですよ。手伝ってもらったお礼なんですから。」
「……本来、外装のバイトとして来ていた気がしたのだが……。まぁ、奢ってくれるというのなら、これ……かな。」
へへ、と悠人は笑いながら、涼音が指さしたスポーツドリンクを購入する。
電子マネーを読み取る甲高い音が機械から発せられると、ごとりと重い音をたてて、缶が落ちてくる。
「いやー、僕だけのスコアみると五ですよ? まったくもってだめですよね。」
「――ありがとう。ただ、君の使い方が特殊なきがするけどね。」
涼音は、缶を受け取り、プルを開ける。
よく冷えた缶から、小気味良い音が立ち、微かに独特の甘い香りが風に乗る。
「そうえいば、昨日はどうだったんですか?」
「――‼」
ドリンクが喉に向かう瞬間に涼音に向けられた問に、盛大にむせた。
ケホケホと、咳こんで身を屈めた。その様子に、大丈夫ですか、と悠人は、背中をさすってくる。
体温の高いところに、缶の冷たさで冷えた悠人の手の感触が伝わった。
気を取り直して、彼女は立ち上がる。
「――ありがとう、少し……動揺してしまった。なに、クラスメイトは、私服で来てね。浴衣は私だけだった。から相当浮いてね……。あまり思い出したくもない羞恥の時間だったね。」
「そう……ですか。」
残念そうに、悠人は眉根を下げた。その表情は、彼の童顔も相まって、まるで叱られる子犬の様な愛おしさを持っている。
「あ、いや、君の外装はよかった。うん。良かった。多分、だいぶ学校内では盛り上がってしまっていることだろう……。クラスメイトが上げていたからね……。」
「あれ、そうなんですか? ちょろっと月曜日の予定を見ようと思って覗いた時にはまだなにもなかったのになぁ。あ、でも、先輩。そのフォトとかないんです? 僕も実際には見てないんでどうだったのか……。作った方としても心配で。」
「あー……。これかな。」
そういってプライベートフォルダから、画像を取り出す。
絵美に撮られたものを一枚貰ってきたものだ。
夕暮れの薄暗い空を背景に撮られた一枚は、月白色の外装の所為で涼音の存在感を一段と引き上げている。
「お、良い感じに混ざってますね! あー、でもこれ。……もうちょい輝度を下げたほうがよかったですね。すごい存在感になっちゃいますし……。調整したのが昼間だったから、あんまりわからなかったけど。」
「その通りだったよ。――なに、私も綺麗だとは思ったのだから、問題はないさ。」
少し恥ずかしかったけどね。と涼音ははにかんだ。
「次の時は、もうちょっとうまくやりますよ。」
「次があると思おうのかい?」
「だって、先輩に外装奢れば、またイベント付き合ってくれるじゃないですか。」
なんだいそれは、と顔を見合わせて二人は笑った。
稚拙な文ではありますが、読んでいただきありがとうございます。
次は、1月26日までにはと思っています。