曰く付き長屋11
しかし、いくらなんでもこのままぼんやりと座して待つわけにもいかない。
腹は減るであろうし、住人たちも暮らしがある。
「はてさて、どうしたものでしょうかな……」
清兵衛も思案顔である。
じっと座っていると、捕り方がじわじわと活気付くのがわかる。
「やれやれ……こちらが大人しいとわかると、途端にあれだ……」
英次郎が苦笑を浮かべ、二人を手招きした。こそこそと耳打ちし、二人が驚いた顔になったもののすぐに笑いだした。
「さすが、太一郎親分と修羅場をくぐり抜けてきた御仁だ」
「派手にやればやるほど、お奉行は遠ざかっていくゆえ、しっかりな」
「あいよ!」
清兵衛が多少己の髪や胸元を乱したうえで扉の前に膝をついた。どすん、ばたん、とそれらしい音を一人で立てるのは英次郎だ。
ことさら賑やかに引き戸を開け放った男は、英次郎の刀を振り上げて大音声。
「おれは、殺ってはねぇんだぞ! さっさと下手人をここへ連れてこい! さもなきゃ、大家をぶっ殺すぞぉ!」
素早く周囲を見渡した清兵衛が、足元で震えるふりをしながら、男の足を軽く叩いた。今だ暴れろ、という合図である。
長屋の前に数歩出て、わけのわからぬ言葉を喚きながら滅茶苦茶に刀をふった。英次郎が「うまいっ!」と思わず呟いたほどの名演技であった。
刀の動きが無茶であればあるほど「狂ったかもしれぬ」と人々は恐れる。それを、見事にやってのけたのだ。案の定、肝の小さい奉行はまっさきに駆け出している。
「ははは、もう戻っていいぞ」
「はいっ」
「馬鹿面連中にどうこうされるほど、こちとら落ちぶれちゃいねぇんだ」
刀を受け取って拭いをかけながら、英次郎が珍しい物言いをした。
と、そこへ、聞きなれた大声が降ってきた。どたどた、と賑やかな足音つきである。
「英次郎、相済まぬ。ちと異人襲撃の予告が届いたゆえ護衛を……おや、何事じゃ?」
親分の登場である。しかも、相当物騒なことを口にしていた。
聞き捨てならぬ、と逃げ出しかけていた奉行が喚く。
「お奉行、こんなところで遊んでおる場合ではないぞ! 奉行所にな、異人を襲撃するとの投げ文じゃ。その上、血まみれの女が日本橋そばで見つかってな。心中を図ったそうであるが、しかしその相手が見つかっておらぬ」
それだ! と、英次郎が叫んだ。
「親分! その、心中の話を詳しく!」
と、叫んだ。目をぱちくりさせたのは太一郎だが、年若い友が深刻な顔をしているのを見ると一つ頷いた。
先ほど発見された女は、腹部に出刃包丁を突き立てて息絶えていた。綺麗な中年女であった。
彼女は、懐に文を持っていた。
10年ほど連れ添った男が心変わりをし、女将の座を若い女に渡そうとするのが許せない。
苦労した店も男もくれてやるものかと、男をめった刺しにして殺し女房もすぐ死ぬつもりだった。ところが殺したところまでは順調だったが、古参の料理人が金を借りに来たために慌てて逃げ出して、日本橋まで来てしまった。
思い出の日本橋、生きていく気力も尽きた。
と、流麗な女文字で連綿と書いてあったらしい。
「親分、その殺された男というのは……」
「きっと、大将のことだぁ……。うう、女将さん……」
訳が分からぬながらも、太一郎は叫んだ。
「お奉行、何をしておる。急ぎ奉行所へ戻られよ」
「その男はなんとする」
「我が衣笠組に預からせていただきたい。なに、勝手に逃すことはない。何かあれば、いつでもこやつを連れて奉行所へ出向こう」
しかし、とそれでも渋る奉行に、親分があれこれと話しかける。
宥めすかされた奉行が「撤収じゃあ!」と駆けだしていくのを見送り、親分は説教部屋へとやってきた。何か言いたそうな一同を制して親分は叫んだ。
「英次郎、異人警護じゃ!」
「待った、親分! 彼を連れていかれるとここの警備が手薄に」
「ならば夜半までには英次郎を戻す」
「それではちと遅いかと! 異人はいつ、どこへ移動するのですか」
「長崎屋とどこぞの大名家の上屋敷をまわり、寺へ寄って料亭へ参り……定宿へ戻るのは夜も更けてであるとか」
「そんなに異人に勝手にうろうろされては……」
清兵衛が呆れた風に言う。攘夷派に襲撃されるのも致し方なかろう、とでも言いたそうである。
「……江戸で異人がどうこうなると、異人の国が出てきて金だの待遇だのと至極厄介なことになる、そうであったな、親分」
英次郎が、身なりを整えながら言う。
「さ、参ろうか。親分。大家どの、その男をしばらく預かっていただきたい。なに、日暮れ前には戻ります」




