曰く付き長屋9
大家の清兵衛も、驚いていた。
大家になる前――さる藩で藩主のお側近くに仕えていたころから悪人との付き合いはあったし悪事もたびたび暴いてきたが、悪人に人質として捕まったことは一度としてない。
もちろん、長屋を差配しながら南町に協力して捕り物を手助けするようになってからも、このような間抜けは一度もない。
年を取ったのか、勘が鈍ったのか――と一人深々と反省している清兵衛は、外にいるであろう住人たちに、助けを求めてみた。
「助けてくれんかのう……」
待ってろ大家さん、と、男たちの声がして引き戸を揺らす音がする。
「……うるせぇ!」
下手人が、脇差を抜いて清兵衛の首に突き付けたまま、引き戸を勢いよくあけた。
「近寄るな、さもなきゃ大家をぶっ殺して、お前らも殺す!」
「ぎゃああ」
蜘蛛の子を散らすように、住人は逃げていく。
「……なんとまぁ……」
清兵衛は泣きたくなった。店子がここまで薄情だったとは。
「……戻ろうか、兄さん」
「え? あ、ああ」
室内に戻り、清兵衛はため息をつく。
「……あの、おれが言うのもあれだけど、もう一度、助けを呼んではどうだ?」
「そうじゃな、やってみるか」
助けてくれーと叫んでみるが、音沙汰がない。シーンと静まっている。
不思議に思った下手人が、そっと扉を開いて外を覗く。
「おいおい、なんとも薄情な店子だな。それぞれの家に飛びこんで、家の中からこっちを見てるぜ」
「なに!?」
「大家を助けようって気概の奴はいねぇようだな……慌てて扉をしめたぜ」
なんと、と、清兵衛はがっくりとうなだれた。
しばらくは、落ち込んだ清兵衛を見守っていた下手人だが、ついにしびれを切らした。
「やい、爺さん」
「……爺さん? ああ、どうした?」
「爺さん、おれは殺しはやってねぇ。それを奉行に説明してくれ」
はぁ、と清兵衛はため息をついた。
「兄さんや、あのねぇ。駄々をこねたって仕方がない。お上の調べが、そうそう間違うものか……い……」
言いながら清兵衛は不安になった。
腑抜けで有名な、南町である。先達ても、わざわざ太一郎が大きな賭場の仕事を見つけてこっそり斡旋したのに、しくじった。
「お兄さん、その血糊はどうしたことだ? 胸元と頬についているが……そもそも、どこへ盗みに入ったのだ」
「盗みに入ったのはおれの元奉公先の大店だ。日本橋の飯善の主、吉兵衛が殺されてたんだよ! 抱き起したときにはもう死んでたんだ……背中がもう、めった刺しで……」
吉兵衛なる男を抱き起した時についた血糊だと、男は主張する。
「確かに、めった刺しをしたにしては血糊がついている範囲がいささかおかしいですね。もっとこう、飛び散ったでしょうから」
のんびりと会話に入ってきたのは、若い武家だった。どうやらここで眠っていたらしい。
「ぎゃあ、あんた、誰だ」
「本日よりこの長屋に住まいする、佐々木英次郎と申す」
「あ、あ、あんたが……佐々木の英次郎さんか」
それがしをご存知か、と、英次郎は照れたように笑う。
「で、盗んだ金子はいかほどですか」
「一朱銀……三枚ほど。部屋の入口に落ちてたんだよ。だけど南町が、大繁盛している店から盗んだにしては少ない、他にもっと何両もあるだろう、出せって聞かないんだ」
確かに大店に盗みに入って、主を殺して盗んだのがそれだけというのは考え難い。
「その脇差は?」
「ああ、おれの家に伝わる刀さ。これで金を借りられないかと思ってさ……」
見せてみろ、と清兵衛が脇差を奪い取る。黒地の鞘からそっと抜いた脇差は、血油もついていなければ刃の欠けた箇所もない。刃紋も美しく、見事な刀だった。
「英次郎さん、どう思います?」
清兵衛が、くるりと振り返る。と、英次郎がするすると近寄ってきた。
「ああ、とてもめった刺しにしたとは思えませんね」
「そうですな」
脇差を見つめながら英次郎が穏やかに笑った。
「金が、いるのか」
「……仕事がない。病気の妻がいる」
「衣笠組、存じておろう?」
「――縦にも横にも大きい、派手な着物をいつも着ている親分のところか」
「そこへ持っていけ。いくばくか、用立ててくれるゆえ。何なら、それがしが一筆認めよう」
文机に向かって、英次郎が何かをさらさらと書く。読み直して、綺麗に畳んで下手人へと手渡す。
「これでよし」




