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番外編――衣笠組、鍋騒動――

衣笠組、鍋騒動


 その日、本所深川にある衣笠組は、朝早くから総動員で活動していた。

「あ、寅吉、見ろぃ。埃が残ってらぁ。お絹さまの足裏が汚れる」

 太一郎親分が昵懇の間柄である御家人佐々木家。

 今日はそこの紅一点お絹が次男の英次郎と一緒に訪ねてくるのだ。

 お絹の舅と亭主は、金を借りるために何度か衣笠組を訪れているし、英次郎は仕事や遊びに頻繁に顔を出しているが、お絹自身は初めての訪問である。

 とはいえ、組の者はみんな「お絹かすていら」が大すきであるし、親分と衣笠組専属の菓子職人喜一がお絹を崇拝していることもあり、下へも置かぬ構えである。

 そんな中、ぽかっ、と痛そうな音がして寅吉と呼ばれた鼻水をたらした少年が頭を摩る。

 拳骨を落とした相手は、月代も伸び放題、浴衣をだらしなく着崩した男だった。ひょろりと青白い彼は、寅吉と同じくらいの頃に太一郎に拾われている。

「えええ、こんな三和土の隅っこ踏んだりしませんや」

「わかんねぇだろが、清めろっ!」

 再びのぽかり。

「三吉兄ぃ、横暴だ!」

「んだとぉ? おう、表へ出ろや……」

 この時互いに手にしていたのが匕首や包丁であればまだ格好はついただろうが、生憎彼らが手にしているのは、雑巾に竹ぼうきである。

 往来へ飛び出し、睨み合う。

 が、どこか迫力に欠くるためであろう、蝉しぐれも止まることはない。

「おう……どっからでもかかってこい……」

「おうよ……」

 腰を落として睨み合う。

 と。

「……うるせぇてめぇら、どさんぴんが!」

 ばっしゃん、と、盛大に水が掛けられた。汲んだばかりの井戸水が掛けられたらしい。

 だれでぇ、と怒鳴ろうとした三吉が慌てて口を閉ざした。大きな盥を手にした菓子職人喜一が、憤怒の形相でそこにいたのである。

「あ、喜一兄ぃ……」

「寅吉、おめぇは手習い塾だろうが! とっとと行け!」

「は、はいぃ!」

「いいか、師匠の仰ることはよぉっく聞くんだぞ」

「はい」

「それからぁ! 謝礼の金や食べ物を今度くすねたら……大川に浮かぶことになると思え」

 喜一が寅吉を睨みながら、風呂敷包と油紙に包まれた金を渡した。受け取った寅吉は、よほど喜一が恐ろしいと見えがくがくと頷く。

 その傍らでは、三吉が着物の袖を絞っている。

「三吉、おめぇも他人事って面ぁ、してるが……わかってねぇなぁ」

「え?」

「俺はおめぇに、命じたはずだぜ……鍋を見てろ、と!」

 鍋? と、三吉と寅吉が思わず互いの顔を見る。通りがかったなにがしかの職人も「鍋?」と首をかしげる。

「鍋だよ、鍋! 和菓子作りにでぇじな、小豆が入った鍋だ」

 小豆、と言われてもまだ二人はピンとこないらしい。

「まだわからねぇか! 小豆を砂糖と煮たら何になる!」

 ようやく合点がいったらしい二人が、声をそろえて「餡」と叫ぶ。

「ああああ! 漉し餡を大量に作るから小豆が常にひたひたであるよう鍋を見てろって……」

「この盆暗三吉! ようやく思い出したか。水加減火加減が大事だとあれほど……」

「す、すんません、兄貴」

「まともに仕事が出来ねぇんじゃ、人足寄せ場に放り込むぞ」

 この三吉、文字通りの盆暗であった。

 博打をさせてみれば悉く読みをあやまって負け続け、莫大な借財をこしらえた。

 あまりにも見事なきれいさっぱりとした負けが続き、妻子には三下り半を叩きつけられ長屋も追い出され、

 借財も膨れ上がってもはや大川に身投げするしかないと思い詰めたところを太一郎に拾われた。

 勝ち負けがだめならばいっそ壺振りはどうだとさいころを持たせてみれば、客が希望する目をぞろぞろと出してしまう始末、客は大喜び胴元は憤激。

 よくよく博打に向かない男なのである。そこで大幅な配置転換が行われ、博打とは縁もゆかりもない菓子部門へと回されてきたのである。

「いいかっ。お絹さまに妙な餡子を召し上がっていただくわけにゃいかねぇ……わかったらとっとと鍋の傍へもどれ、すっとこどっこいが!」

 三吉は転がるように台所へと走った。

 小豆から小豆餡になるためには、かなり煮込まなければならない。

「弱火でことこと、だったっけ。強火でがんがん、どっちが先だったかな。どっちでもいいか……」

 考え事をしながら歩く三吉の目の前を、犬猿の仲の吉蔵が横切った。彼は三吉とは対照的に体格もよく、剣術の心得もある。

「おう、木偶の坊、朝帰りか」

「木偶とは何だ木偶とは……おれは大店の用心棒稼業をしてきたところよ」

「ほほう、おめぇのような悪人面が用心棒か。どっちが悪党でどっちが用心棒かわからねぇな」

「なんだと、盆暗」

「ああ? やるか?」

 ごつん、と額と額を突き合わせて、闘牛のように睨み合う。

 どちらが先に手を出すか――と、思われた瞬間。二人はばっと離れた。

「……三吉ぃ……」

 ゆらり、喜一が立っていた。

「鍋はどうしたぁ……」

 鍋? と、吉蔵も首をかしげる。

「は、はい、ただいますぐに」

「鍋だ、鍋! お前の持ち場は鍋! 俺が良いというまで、鍋にひっついてろ!」

 その後三吉は駆け足で台所の鍋に張り付いた。


 が。


「喜一兄ぃ、鍋が沸騰しやした! どうしましょう」

「馬鹿野郎、沸騰するのは水だ、鍋じゃねぇ」

 その後も、衣笠組の中を鍋という単語が飛び交う。

「兄ぃ 鍋がいい感じですぜ」

「よし三吉、砂糖を出せ……ってうわぁ、入れ過ぎだ馬鹿」

「たくさん入れたほうが親分喜ぶかな、って……」

「何事にも加減っちゅーもんが……ええい、そっちの鍋かせ!」

「へぇ!」

「って、ちがう、そっちの大鍋だ、急げ、いや走るな、走らなくて……ああああ、鍋に頭から突っ込む馬鹿があるかっ」

「ひどい兄ぃ……弟分より鍋の方が大事なんすか……」

「あたりめぇだ! ここには大事な大事な餡子が入ってんだ!」

 さすがに親分が台所に駆けつけたとき、大鍋を抱えて転倒したと思われる三吉は、竈の傍で泣いていた。

 その横には鍋を大事そうに抱えた喜一がいる。

「あー……喜一や、餡子づくりを続けてくれ」

「へぇ、承知いたしやした」

「三吉、どれ、見せてみ……おう、これは色男が台無しじゃな。お絹さまが心配なさるゆえ、了蘭先生のところで手当してもらえ」

 言いながら懐から何某かの金を渡してやる。

 よほど傷が傷むと見え、三吉は大人しく立ち去る。

「喜一、鍋を守ったのじゃな」

「……調理道具は料理人の命ですから」

 うんうん、と、太一郎は頷く。

「餡の、甘き匂いじゃな。今日も楽しみじゃ」

 くるりと奥へ戻っていく太一郎の背中に向かって、お任せくだせぇ、と、喜一は頭を下げる。鍋をしっかり抱えて。

「諍いの元が鍋であったとは、平和じゃな」

 どこか嬉しそうに、太一郎は笑った。



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