3.霧
(1)
急斜面の崖にへばりつくような細い道を、西田と冬美が歩いている。
「あ、燈台が見えてきたよ!」
崖の中腹が突起状になっていて、ちょっとした平地を作っている。草に覆われたその平地の中心に白い燈台が立っている。遠くからは白く見えた燈台も、近づくと所々ペンキがはげ、金属部分の下には溶けたサビが、いくつかの筋をつけている。燈台の近くまで来て、道が舞泊の反対側にも延びているのが分かる。
「結構険しい道だったね」
少し息を切らせながら冬美が言った。
「誰も来ないだろうから、ゆっくり楽しめそうだね」
西田が早くも目に好色の色を浮かべながら、冬美に笑いかける。
「ちょっと気が早いわよ。山道歩いてきたから、疲れちゃった。少し休ませてよ」
「え~ボクちゃんガマンできないよ!」
西田が口を子供っぽい仕草で文句を言う。冬美もこういう男は嫌いではないのだが、疲れている状態では、少し鬱陶しく思えた。
「じゃあ20分休ませて。その間に燈台を調べててよ。手ぶらで帰ったら、みんなに怪しまれるわよ」
「20分ね、わかったよ。でも、その間に逃げるなよ?子猫ちゃん」
「年上にナマ言ってるんじゃないわよ」
冬美は笑いながら燈台の基部に敷かれているコンクリートの上に腰を下ろした。西田はブツブツいいながらも燈台をカメラに収めると、中に入っていった。
西田が燈台に入って5分くらいすると、足下から這うように霧が出てきた。気付くと、青々とした海上には、いつの間にか霧が立ちこめている。そうこうしているうちに、霧は体の周りを覆っていき、10メートル先も十分に見えなくなってきた。
「やだ」
冬美は少し心細くなってきた。まだ疲れは十分取れてはいないが、西田の所へ行こうと腰を上げた。その時、奥の道の方から人の気配がした。
「西田くん?」
そちらを見ると、確かに人影が見える。
「西田くんなの?」
「そうだよ。こっちに来てよ」
「燈台の中はどうだったの?」
「燈台よりもこっちの方がいいよ」
冬美は、会の趣旨からすると燈台そっちのけというのはどうかと思ったが、『本来の目的』からすれば、燈台の中は適当な場所ではないのかな?と思って納得した。
「そっちには何があるの?」
「いい所だよ」
何がいいのやら・・そう思いながらも、狩野は西田の方に近づいていった。西田の服などがぼんやり見える位まで近づくと、西田はさっさと歩き始めた。
「ちょっと!霧出てるんだから、もうちょっと待ってよ」
「すぐそこだから・・」
西田くんたら、急によそよそしくなって・・
軽く腹を立てつつも、西田しか頼る者がいない状況では、ついていくしかない。そうして5分も歩いたが、あんなに饒舌な西田が、その間少しも話そうとしない。その間に霧は濃くなるし、周りの地形も険しくなってきている。30分以上、山道を歩いて疲れている上、心細さも強くなってきて、当初抱いていた淫靡な気持ちは、完全に不安に取って代わった。
「ねぇ、すぐそことかいって、結構歩いているじゃないの!」
冬美がたまりかねて文句を言うと、西田は立ち止まって振り向いた。
「じゃあここらでいいか」
そのムードも微塵もない淡々とした様子に、ついに冬美が爆発した。
「ちょっと!こんな所まで人を引っ張り回しておいて、『じゃあここらでいいか』ですって?バカにしないでよ!本当に女の気持ちが分からない男ね!もうアンタと『する』気はないわよ。私は一人で帰る!」
冬美は、そうまくしたてると、西田の返事も聞かずに来た道を戻り始めた・・
霧の中、一つの人影が、もう一つの人影から離れようとしているのが見える。
立ち止まっていた人影は、何かこぶし大のものを拾うと、去ろうとする人影に素早く近づき、拾った物を去りゆく人影に振りかぶる。
ゴッ!
音と共に、彼らの周辺の白い霧が一瞬赤く染まったように見えた。
その後、立っている人影は一つになっていた。
やがてその人影は地面に顔を近づけると、音を立てながら何かを咀嚼しはじめた・・・
(2)
西田はおあずけを食らってやや失望しつつも、燈台の調査に取りかかった。
燈台をカメラに収めると、入り口に向かった。入り口には扉はなく、中から枯れ草が膝の高さくらいまで積もっている。風で入った草が積もったものだろう。入り口の右脇に錆の吹き出たプレートがはめ込んである。表面の錆をこすってみると、案外簡単に表面のザラザラした錆は落ちた。まだプレートの表面を錆が覆っているが、何とか判読できる。
「虫藻岬燈台。昭和12年4月初点・・か」
西田はプレートもカメラに収めると、入り口に積もった枯れ草を踏み越えて中に入った。
中は入り口からの光でそこそこ明るい。左には錆びた扉があるが、取っ手が酸化が進みすぎて、取れて下に落ちている。試しに押してみたが、びくともしない。正面から見て右奥には上に登る金属製の梯子があり、その上からも光が差し込んでいる。梯子をよく見てみると、やはり錆び付いている。
「これ・・大丈夫かな?」
恐る恐る足を乗せてみるが、崩れる様子はない。さらに体重をかけてみるが、特に問題はなさそうだ。
西田は意を決してもう一方の足も梯子にかけてみた。意外としっかりしている。そのまま上へ登ってみた。
上の階は展望台みたいになっている。といっても四方が開かれているわけではなく、二箇所が外に通じているだけだが。
その二箇所の足下にはガラスの破片が散らばっている。恐らくここはガラス張りだったのだろう。
中央には楕円状で、横に凹凸が走っている物体がある。恐らくこれが燈台の光源なのだろう。
「これが回るのか・・今でも回るのかな?」
光源をカメラに収めて、光源の位置から外を眺めてみると、いつの間にか海上が霧に覆われている。驚いて窓枠に手をかけて下を見てみると、岬一帯も霧に覆われ、地面がうっすらとしか見えない。
「いつの間に・・」
必死に冬美がいる辺りを見てみたが、全く見あたらない。
「冬美さ~ん」
しかし声は霧に吸い込まれるばかりで、返事はない。
西田はあわてて下に降り始めた。
霧は燈台の中にも容赦なく入ってきたようで、梯子を途中まで降りた段階で視界にもやがかかる。燈台の中も、ついさっきまでの明るさはない。
枯れ草を乗り越えて外に出ると、冬美が座っていた辺りに行ったが、冬美も、冬美の荷物もない。
「冬美さ~ん」
今度は声の限り叫んでみたが、やはり返事はない。何度叫んでも声は空しく霧に吸い込まれるばかりだ。
西田は燈台を中心に、岬の付け根から先端まで冬美を探したが見つからない。今来た道を少し戻ってみたがいない。奥に道が延びていたのを思い出し、そちらも探したが、草むしており、すぐに道を見失った。こうして30分も探していたが、さすがに疲れ、一旦燈台に戻った。この間、一向に霧が晴れる気配がない。
冬美が座っていた辺りに腰掛けて燈台を眺めてみる。こんなに近いのに、燈台の上の方はぼんやりとしか見えない。
「冬美さん・・どこ行ったんだよ・・一人にしないでくれよ・・」
つぶやくように言ったその時、岬の先端の方で何かが光った。
「冬美さん!?」
西田は光った方へ走った。やがて人影が見え始めた。
「冬美さん?」
西田は人影の正体がぼんやり見えた辺りで一旦立ち止まった。そこに立っているのは確かに冬美だった。
「西田くん・・」
「冬美さん!」
西田は一目散に冬美に駆け寄り、冬美に抱きついた。だが、その瞬間、手に、明らかに布とは違う少しぬめぬめした感覚を受けた。少し興奮が冷めた西田の鼻は、鉄分を含んだ生臭い臭いを感じた。
西田は冬美から少し体を離し、冬美を見てみた。しかし、おかしな所は見あたらない。
「どうしたの?」
冬美の問いに答えず、自分の手を見てみた。そして自分の服を見てみた。西田は初めて気付いた。自分の白いシャツが真っ赤に染まっていることを・・
「おおおおおお!」
驚愕している西田の視界の端から、冬美が人とは思えぬほど大きな口を開けて迫ってくるのが見えた・・