12.脱出2
(3)
優美は安田に肩を貸しながら舞泊の港を目指して歩いていた。安田の傷は動脈をそれていたものの、苦痛から来る衰弱は明らかだ。
「孝ちゃん、大丈夫?」
「少なくとも死にゃあしないよ」
安田は無理して笑顔を作って答える。
その顔を見た優美は『もう孝ちゃんに心配かけられない。今は、わたしがしっかりしなきゃ駄目なんだ』と強く思った。
やがて二人は港に着いた。桟橋は、霧のせいか、やけに濡れている。
安田は桟橋近くのブロックの上に腰を下ろすと、雑貨屋でドッペルゲンガーから奪ったナイフを優美に渡した。
「どうしてこれを?」
「お前リーチも短いし、力も弱いだろ?接近戦になったら、それを使え」
「でも孝ちゃんが」
「こんな状態でも、俺はお前には負けないよ」
安田はそういうと笑ったが、すぐに疲れた表情になり、弱々しくつぶやいた。
「のどが渇いたな・・」
優美は改めて安田の顔を見ると、顔色が悪くなっている。さっきまで苦痛を我慢して滝のように汗を流していたのだが、今は汗を流すこともできないほど水分が不足しているのかもしれない。優美は水筒を出したが、すでに飲み干されている。
『どうしよう・・』
その時、この島に上陸した日の記憶が蘇った。
「孝ちゃん、ちょっと待ってて。水を汲んでくるから」
そう言うと、鉄管も荷物も置いて、優美は返事を待たずにかけ始めた。
「待て、まだ危険だ。行くな!優美ー!」
安田は優美の背中に向かって叫んだが、いつの間にか出てきた濃い霧が、安田の視界から優美の姿をかき消した。
優美は社へと脇目もふらずに走った。やがて見覚えのある木陰が目に入る。木陰からは山から流れてきたのか、不気味な濃い霧が流れ出ているが、今は怖がっている暇などない。木陰に飛び込むと、すぐに社が見えてきた。霧のせいでよく見えないが、水音が社の左脇から聞こえてくる。優美は改めて清水を飲んでみる。
「よかった。やっぱりおいしい」
優美は水を水筒に詰め終わると、何気なく左にある廃屋の窓の辺りを見てみた。その窓から、両目をえぐられ、鼻を削がれた中尾の生首が置いてあり、空虚な眼窩が優美を睨んでいるように見える。
優美は後ずさると、逃げるために振り返った。すると、今まで死角になっていた木の裏側の根元の辺りに、四肢が地面から生えているように刺してあり、近くの木には進藤の頭が、細い杭で幹に打ち付けてある。
「いやあああー」
ついに優美は悲鳴をあげて木陰から飛び出した。そして港に戻ろうとしたとき、雑貨屋の方に人の気配を感じた。
『ドッペルゲンガー?』
優美は雑貨屋の方に振り向くと、武器を構えようとした。しかし鉄管を港に置いてきたことを思い出し、急に足に震えが来た。
「孝ちゃん・・助けて」
思わず漏れた弱音に、はっとした。今、安田はとても戦える状態ではない。
「わたしが・・わたしが戦わなきゃいけないんだ」
優美はそうつぶやくと、相手を睨みつけて叫んだ。
「止まって!こっちに来ないで!」
その言葉が終わると同時に、相手は崩れ落ちた。そしてあの懐かしい声が聞こえる。
「優美か・・」
それは、古坂からの山道の途中で滑落した、あの彰の声だった。しかし安田の話では彰は死んだはずである。
「パパ、パパなの?」
「やっぱり優美か?」
優美は崩れ落ちた彰?の側へと駆け寄る。しかし、相手の姿が認識できるところで止まった。
体の各所には擦り傷があり、血が固まって服にへばりついているところもある。頭の傷は重そうな感じだ。
優美は駆けだして抱きしめたい衝動を抑えて、彰を観察した。帽子はかぶっていない。右手を見ると、腕時計もしていないようだ。
「優美・・」
相手は自分に気付くと、何とか起きあがって近づいてこようとする。
「来ないで、パパは死んだはずよ!」
彰の動きが止まった。
「俺が、死んだ?嘘だ!誰がそんなことを」
「孝ちゃんが嘘を言うわけないわ!」
「安田君が・・そいつの言うことは嘘だ。パパは安田君の死体を見てきた。そいつは安田君に化けたドッペルゲンガーに違いない!」
彰は精一杯の声をあげると、近くの廃屋の壁に背を預けて座り込んでしまった。
『本物のパパ?孝ちゃんの方が偽物?』
「ママの名前は?」
「和美だ・・」
『ママの名前は、誰にも聞かれていないはず・・』
本当は生きていてくれたら・・彰が滑落して以来、ずっと持っていたそんな父への思いが優美の体を動かす。
「パパ!」
二人は抱き合った。
「パパのバカ!死んじゃったと思ったんだから」
「ごめんよ。傷が深くて思うように動けなかったんだ」
「生きていてくれれば、後はどうでもいい・・」
「早く帰ろう。ママに無事に帰ったことを報告しないとな」
優美の体が震えているのに気付いたのか、彰は無理して笑顔を作ると言った。
「可哀想に。大分怖い目にあったんだな。でも、いつも遊んでいる学校の友達の顔でも見れば、怖いこともすぐ忘れるさ」
社の入り口に立つ木。そこから霧の中に、抱き合ったような人影が見える。やがて下になった人影の右手が上に上がる。手には何か短く鋭い物が握られている。そして右手に握られた物が地面に落ちる。しばらくして、下になっていた人影が沈み、上になっていた人影が立ち上がる。
「やっぱりパパは・・」
そうつぶやいた優美の手には、血に濡れたナイフが握られていた。傍らに倒れている『彰』の姿は、彰の服を着たドッペルゲンガーの姿に戻っていった。
優美が港に戻る頃には、霧が大分薄くなっていた。安田の顔色は大分悪くなっている。
「孝ちゃん、しっかりして!」
優美は水筒を安田の口にあてがう。安田は水を少し飲んだ。すると、多少元気になったのか、笑顔を見せた。顔色も少し良くなったように見える。
やがて霧は晴れて、この島に来たときのような快晴になった。
正午を少し過ぎた頃、彼らをこの島に送った船がやってきた。他の人間がいないことをいぶかしがった船長に、二人は今まであったことをかいつまんで説明したが、船長は信じられないというような顔をしていた。しかし二人とも血だらけで、しかも一人は負傷しているので、本土に上陸したら警察と病院に行くという条件で、船を出してくれた。
気を失った安田を見ながら、優美はつぶやいた。
「死なないで。死んだら針千本だからね・・」