9.離合
(1)
数時間前の古坂・・
今日も霧が島を覆っているようだ。長狭や舞泊はどうなっているだろうか・・
彰が外の様子を見て防空壕内に帰って来ると、さっきまで横になっていた優美が起きあがっていた。
「昨夜は眠れたか?」
「・・あんまり」
どうやら一睡もできなかったらしい。無理もない、自分だってろくに眠れなかったのだ。しかし、睡眠不足では、舞泊までの行軍はきついだろう。
「もう少し横になっておけ」
「パパ・・」
「何だ?」
「昨日の夜、わたしたちのことを呼んでいた孝ちゃんは、本物だったんじゃないかしら」
「・・・」
・・・
昨夜、あれは19時半頃だった。わたしたちが防空壕内で息を潜めていると、外から聞き覚えのある声がした。
「石川さーん、優美ー!」
『孝ちゃんだ!』
そう思った刹那、パパがわたしの体と口を押さえた。
『何で!?』
わたしの思いを察したのか、パパは小声で言った。
「あれが本物の安田君かどうか分からない。まして、夜は夜目の利くドッペルゲンガーが絶対に有利だ」
『でも、もし本物だったら、孝ちゃんを見殺しにすることになるじゃない!』
わたしは、自分の保身だけを考え、あんなに仲の良かった孝ちゃんを見捨てるような意見を吐くパパに、怒りの目を向けた。だが、わたしの目に映ったのは、血が出るほど唇を噛みしめ、苦しげに歪んだパパの顔だった。
「パパは、お前を絶対に死なせるわけにはいかない。それは死んだ和美・・ママとの約束でもあるんだ!」
『どういうこと?』
わたしの頭の中で、ママの顔がフラッシュバックする。
「ママは亡くなる前、パパと二人だけのとき『大人になった優美を見られないのが本当に心残りだ』と何度も言っていた。そして『あの子は私が死んだ後、心に傷を受けるでしょうけど、それをはね返して、幸せな人生を送れるような大人に育ててください』と何度も頼んで逝った。だからお前を絶対に死なせるわけにはいかないんだ」
いつの間にか自分の頬とパパの手が、自分の涙で濡れていた。そしてパパは、ゆっくりわたしの口から手を離すと、優しく言った。
「分かったな。絶対に生きて家に帰るぞ」
わたしは黙って頷いた。そして声を殺して泣いた。
・・・
優美は彰からの返事がないので、黙って横になった。そして別の質問をした。
「今朝、進藤さんや中尾さんとは連絡とれたの?」
「今朝、舞泊とは連絡が取れたけど、中尾さん達とは・・」
優美の顔に不安の色が浮かんだが、黙っている。きっと中尾さん達も、冬美さんと同じ運命をたどっているんじゃないかと思っているのだろう。しかし、彰はそんな素振りを微塵も見せないように言った。
「霧が濃くて連絡できないだけだよ。9時くらいに出発しよう。それまでに食事して、体を休めておきなさい」
優美は朝食後、不思議と仮眠を取ることができた。夢には懐かしい顔が・・
『ママ・・わたし、絶対に生きてママのいる家に帰るよ』
9時、二人は古坂を後にした。霧のせいか、道が湿っている。注意深く歩かないと、足を滑らせてしまう。彰は慎重に進むため、ペースを落とした。
1時間ほど歩いた辺りで、木が斜めに倒れ、道を半ばふさいでいる所がある。行きは身を斜めにかがめて通行した場所だ。彰は注意深く木をよけたが、木の方に注意が集中したとき、木の向こうにある濡れた石への注意を怠った。
ザッ、ズザザザー
石に体重を載せた刹那、彰の体は右手の斜面を滑落し始めた。彰は必死に手近の草を掴もうとするが、加速のついた大人と荷物のエネルギーを草が受け止めきれるわけはない。
「パパ!」
優美は必死に叫んだが、聞こえてくるのは滑落の音だけ。しかも、やがてそれも途絶えた。
優美は滑落の跡を慎重に下りようとしたが、途中で斜面が急になり、それ以上進めなくなった。その近くの木の根元には、彰の帽子が引っかかっていた。
「パパー!」
しかし、その叫びに応えるのは、自身のこだまだけだった・・
(2)
優美は長狭への山道を出来るだけ早く進んだ。手には彰の帽子がある。
『パパ、待っててね!必ず誰かを連れて助けに戻るから』
長狭に大分近づいてきた辺りで、明らかに近くの草が乱れているところがあった。右側には、誰かが滑落したような跡がある。近くをよく見てみると、血の付いた石が落ちている。近くには千切れたシルバーネックレスが落ちている。
「これは孝ちゃんの・・」
優美はネックレスを拾うと、目頭が熱くなった。だが、一刻も争う状況であることを思い出すと、ネックレスをポケットにしまい。先へ進もうとした。そのとき物音が近づいてきた・・
加藤は石川に川村の死を伝えようと古坂へ向かって歩を進めていた。その顔は、友人の無惨な死体を目にしたせいで、険しくなっている。そこへ、先方から草の揺れる音が聞こえてきた。
『また化け物か!』
加藤はバットを構えると、音のした方を覗いた。そこは草が乱れ、血の付いた石が落ちており、誰かが格闘した痕跡が残っていた。左側には誰かが滑落した跡もある。
加藤は改めて周りに注意を払ったが、誰もいる様子がないのを確認すると、改めて格闘の痕跡を調べようとした。
長狭方面から来たのは加藤のようだった。しかし本物なのか?『加藤』は周りを警戒し始めた。彼の注意はこちらにも向けられたが、何とか見つからずに済んだようだ。その後、草が乱れている辺りを探索し始めたが、今度は古坂方面から、誰かが近づいてきた。
『パパ?』
『加藤』は、古坂方面を警戒し始めた。手に持っているバットを構えている。やがて現れたのは・・彰だった。
優美は思わず飛び出しかかったが、すぐに異変に気付いた。どこにも傷などついていない。そして決定的なのは・・優美は手にもつ帽子を見た。そして彰の頭にも同じ帽子がある。その事実に気付いたとき、優美の体は震えたまま固まってしまった。
「石川さん!」
「加藤君か、他の人は?」
「洋平は死にました。中尾のヤツなんか知りません。洋平なんかひどいですよ。化け物め、あんなことするかよ、普通・・」
「そうか、気の毒なことをした。とにかくこっちにはもう誰もいない。長狭に戻ろう」
「誰もいないって、じゃあ優美ちゃんや安田っちも?」
「残念だよ」
加藤は彰の顔を見て、一瞬不審な顔を見せたが、すぐに元の顔に戻って言った。
「お察しします。ところで、ここら辺に私が預かっていたトランシーバを落としてしまったんです。石川さんのトランシーバで呼びかけてくれませんか?」
一瞬、彰の顔が曇ったが、肩からかけているトランシーバを加藤に渡そうとした。その瞬間、加藤はバットを彰の頭にたたきつけた。堪らず彰は昏倒する。加藤はその頭を何度も乱打した。そして、そのうち彰の姿はドッペルゲンガーの姿へと戻っていった。加藤に渡そうとしたトランシーバも消えている。
加藤は肩で息をしながら吐き捨てた。
「優美ちゃんが死んだってのに、あんな通り一遍の表情を見せただけで済むかよ。大体、トランシーバを預かったのは俺じゃねえ!化け物め、皆殺しにしてやる」
加藤はそのまま古坂方面へと去っていった。
その正体が化け物だったにせよ、父の姿をした者が殺されるのを目撃した優美は、まだ震えから回復できずにいる。例え今の加藤が本物だったとしても、もう優美には加藤に救いを求める気はなくなっていた。そこに思いが至った時、本物の父が危機にあることを思い出した。
『長狭に中尾さんがいる可能性があるなら、中尾さんを探そう』
なんとか自分を奮い立たせた優美は、長狭に向かって急いだ。
(3)
長狭集落の霧は、古坂とは比べものにならないくらい濃かった。それでも中尾を見つけて助けを求めなければならない。
優美は中尾達が待機しているとされている役場を探した。そしてそれは意外と早く見つかった。優美は寝不足と強行軍ですでに疲労の極みに達していた。そして、二階で長狭グループの荷物を見つけると、そこにバックパックを置いて、ソファーに沈むように座った。そして安心感からか、そのまま気を失うように眠ってしまった。
それからどれくらい眠っただろうか・・誰かが階段を登る音で目を覚ました。神経が研ぎ澄まされているせいか、優美は急速に覚醒した。とっさに隠れるところを探したが、適当な隠れ場所を見つける前に、『相手』が姿を表してしまった。そしてその姿を見た優美は、一言つぶやいたまま、固まってしまった。
「孝ちゃん・・」
「優美・・」
安田は驚いたようにつぶやくと、せわしく問いかけてきた。
「一人なのか?石川さんは?」
『パパが危ないの!一緒に来てよ』
と、優美の口から漏れそうになったが、今一歩のところで口をつぐむと、安田の首を見てみた。そこにはシルバーネックレスがかかってる。
「パ、パパも一緒だったんだけど、さっきトイレに行ったの」
「トイレね・・」
そうつぶやいた安田は、急に異様な笑みを浮かべた。
「子供一人か、こいつは運がいいな」
「ど、どうしたの?」
その問いに答えず、『安田』は襲いかかってきた。優美は武器になりそうな物を探したが、堅い物などは全てバックパックに入れたままだ。『安田』は、後ずさろうとする優美の首を絞めに来た。優美は相手の手を外そうともがいたが、少女の力では、相手が筋力の劣るドッペルゲンガーとはいえ、大人の力には敵わない。
「人間め、俺たちの怨みを思い知れ!」
優美の知覚から『安田』の血走った目も荒い息づかいも薄れ、頭が急速に真っ白になっていく。そして本当に全ての知覚が麻痺する直前、激しく床を蹴る音と、何かの叫びみたいなものを聞いた気がした・・
「・・み、ゆ・・み、ゆうみ、優美」
誰かが自分の名前を言いながら頬を叩く。ゆっくり視覚が回復する。
『誰?男の人・・まだ若い人・・孝ちゃん?・・孝ちゃん!?』
事態に気付くと、あわてて逃げようとしたが、上半身をよじっただけで、逃げることができない。
相手は優美が自分を疑っていることを察したのか、笑顔を見せながら言った。
「俺は本物だよ。本物の安田孝一だよ」
優美は相手の首を見てみる。そこにはネックレスはなかった。しかし、まだ信じる訳にはいかない。
「職業は何?」
「フリーター。今はラーメン店でバイトしてるよ」
「ラーメン店の店長の娘さんが店長のパンツに刺繍したのは?」
「『いちご』だな」
「いつもつけているネックレスないけど、どうしたの?」
安田は表情を改めて答えた。
「昨日、中尾さん・・に呼ばれて長狭に行こうとしたろ?大分長狭に近づいたとき、突然中尾さん・・に化けた化け物に襲われたんだ。そのときに化け物にちぎられて、どこかに落とした」
それを聞いた優美は胸から熱い物がこみ上げてきた。そして、涙を流しながらつぶやいた。
「孝ちゃん、パパを・・」
優美はそのあとを続けようとしたが、そのまま気を失った。
(4)
数時間前、山道下の谷底・・
「ここはどこだ・・」
彰は気付くと、しばらく周りを見渡していた。近くを小さな川が流れている。
そうか・・私は斜面を転落したんだ・・と思った瞬間、優美のことを思い出した。
「優美ー優美ー」
何度か叫んでみたが、何の反応もない。どの位気を失っていたのか腕時計を見たが、腕時計は壊れている。トランシーバーも見あたらない。
『優美・・助けを呼びに行ったのだろうが、この状況では危険すぎる』
彰はとりあえず斜面を登り始めた。手足は擦り傷だけのようだが、滑落中に頭を打ったせいか、頭から血が流れており、それが視界を悪くしている。しかしそんなことにかまってなどいられない。
最初の方は斜面が急だったため、登るのに少し手間取ったが、途中から斜面も緩やかになってきた。
30分近く経っただろうか。ようやく山道についた。
優美が気になるが、さすがにすぐには体が動かない。とりあえず額の傷に布を当てようとしたとき、人らしきものが近づいてきた。彰は身を隠そうとしたが、その前に相手がこちらを認識した。
「加藤君か・・」
彰は姿を隠すのを諦めたが、本物かどうか確かめようと声をかけようとしたとき。
「また石川さんか!」
血走った目で呻いた加藤は、バットを手に、問答無用で走り寄ってきた。
霧に満ちた谷に、鈍い音が響く。