第1話 (5)
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トワリは目の前の大きな木にナイフで大きく傷を入れた。森の中を歩きだして、彼が大木を見つけては切れ目を入れるのは、これで4回目であった。
「さっきから何をしているの?」
イチコは尋ねた。
「目印にするんだ」
「目印?」
「戻る頃には、辺りはすっかり暗くなっているかも知れねえ。だから、帰り道が分かるように、こうやって目印をつけておくんだ」
「すごい。そんなこと、よく知っているね」
「お前、これくらい誰でもやってることだぞ。これだからムラを出ない奴は――」
「ごめん」
「ま、いいけどさ」
ヒブリからは狩りに出たこともないと評されたトワリだが、森を歩くためのノウハウは知っているらしい。実際、イチコたちが男たちの合流地点であった渓流のあたりに来るころには、辺りは空の色は赤くなっていた。暗くなってしまった時のことを想定して、トワリは事前に手を打っているのだ。
「こっちだ」
と、トワリは進むべき方向を指差し、歩きだした。進むにつれ、森は深くなり薄暗くなってゆく。イチコはいささか心細さを感じた。
「ねえ、トワリくん」
「何だよ」
「“ふたりを連れて帰る”って、そんな約束して、本当によかったのかな」
「どういうことだ?」
「だって、ふたりが行った先は、とても危ない場所なんでしょ? 考えたくないけれど、万が一、もしものことがあったりしていたら――」
「その心配はないだろ」
「どうして?」
「確かにこの地域は、森は深く、道は複雑で、しかも崖もある。だが、崖といっても、そこまで大きなものは少ないんだ。よっぽど打ちどころが悪くない限りは、死ぬことはない。ま、今頃は帰り道が分からなくて、腹も減って泣いてるってのが、関の山じゃないか?」
「だといいけど。でも、森の動物たちもよく出没するんでしょ」
「その心配はある。だから、早く助けてやらないと」
イチコはトワリの斜め後ろから、彼の様子をうかがった。その顔は山道をまっすぐに見て、背後からでもとても真剣なまなざしであることが分かった。
「トワリくんさ、どうして地図を作ろうと思ったの?」
「どうして、って」
「狩りみたいなムラの仕事にも興味がなさそうなのに。どうして狩りに出る人たちの役に立とうとしたのかな、って」
「ムラの仕事に興味がないわけじゃない。ただ、無意味な伝統や前提が嫌いなだけだ」
「無意味な伝統や前提って?」
「“こうするのが当たり前”という考えて、疑問を持たないことだ。狩りや採集だって、森や山に出て道に迷った奴は過去に何人もいた。たいていは、なんとか帰ってこられたが、下手すりゃ迷いっぱなしになった可能性もあったはずだ。だが、連中はそこに問題意識を持たない。経験と勘だけがモノを言うと、未だに信じている。俺はそれが気に入らなかった」
「だから地図を作ったの?」
「そうだ。あらかじめ付近の立地を調べて、記載しておけば狩りももっと安全で効率的なものになる。より進歩できる提案を、俺はしたつもりだった。だが、兄貴をはじめ、俺のことを理解してくれる奴は誰もいなかった」
「トワリくんってやっぱりすごい」
「おだてても何も出ねえよ。それに、お前だって本当は俺のこと、変な奴、くらいに思ってるんだろ」
「そうだね。ちょっとはね」
イチコはくすりと笑って言った。それから真面目なトーンになって続ける。
「でも、トワリくんの言うことはもっともだよ。皆、もっとトワリくんの言うことに耳を傾けるべきだと思う。そうなるように、私が協力してもいいよ」
「協力って、何すんだよ」
「トワリくんの話を聞こうって、皆に呼びかけるの」
「ふん、お前まで変な奴だと思われるぞ」
「いいよ、それでも」
イチコは平然と応えた。トワリは意外そうな表情で振り返る。
「物事をありのままとらえて、ふさわしい方向へと導く。この考え方は、私たち巫女も同じなの。だから、トワリくんの考え方、決して間違っているとは思えない」
「お前も大概だなぁ」
「かもね。ねえ、ひとつお願いがあるんだけど」
「何だよ」
「アラキくんとコモンくんを無事、助け出せたらさ。ふたりで星を見ようよ」
「星だと?」
「私、トワリくんと一緒に、夜空をゆっくり眺めたいって、前から思ってたんだ」
「何で」
「さあ――どうしてかな。でも、ずっと思ってたの」
「……考えとく」
トワリはぼそっと言って、それからあまりしゃべらなくなった。イチコはそれでもよかった。彼がぶすっとして歩く様子さえ、イチコには不思議なことに、可愛く思えてしまうのだった。
ただ、トワリはイチコに一言、こう言った。
「ここから道は険しくなってくる。お前、俺の後から外れて歩くな」
「うんっ」
イチコは快活に返事をした。