第1話 (2)
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「イチコ」
ふと、ミノカに声をかけられた。このムラに来る前からともに過ごしてきた、イチコの親友だ。
「ミノカ、どうしたの?」
「昨日の夜、トワリがやたらと興奮してバタバタしてたっぽいんだけど、何があったの?」
「さあ――何か地図作るとか言ってたけど」
「また妙なこと考えてるんだねぇ」
ミノカは呆れたように言う。
「でも、トワリくんによれば、ムラの人たちみんなのためになることらしいけど」
イチコは昨夜のトワリの言葉を思い出して言った。ミノカは目を細めた。
「どうだか。アイツの考えることって、ぜんぶ妙ちきりんじゃん。やることなすこと、ことごとく浮いてるよね」
「それについては同意」
「でもイチコ、アイツとよく一緒にいるよね」
「そ?」
「そうだよ。ムラの人たちも不思議がってるよ。『どうしてイチコさまは、あんな変わり者と付き合ってるんだろう』って」
イチコは、ミノカの“イチコさま”という言葉に、どうにも違和感を覚えずにはいられなかった。ムラの人々のほとんどが、イチコのことを敬称をつけて呼ぶ。しかし、いつまで経ってもイチコにはそれが慣れないのだ。イチコは言った。
「大した理由はないよ」
「慈善活動ってやつ? 普段話し相手がいなくて可哀想だから、みたいな」
「まさか」
「それとも変わり者好き?」
「そんなつもりもないけど」
「イチコには、ヒブリさんの方がお似合いだと思うんだけどなぁ」
「私がどうかしましたか?」
背後からの声にミノカはびくっとなった。振り返ると、そこには武具を抱えたたくましい体つきの青年の姿があった。噂をすれば影とはこのことである。イチコたちの前に現れたのは、このムラのリーダーであるヒブリだった。
「おはようございます、ヒブリさん。今から狩りですか?」
「ええ。長い冬がようやく終わり、狩りには絶好の季節になりましたからね。今まで我慢していた分、張り切って行こうと思いまして。なあみんな!」
ヒブリが呼びかけると、後に並ぶ数十人もの男たちが「おお!」と威勢のいい声をあげた。ムラの食糧元となる森の獣を狩るのは、男たちに課せられた使命だった。男が狩りに行っている間、女たちは山へ木の実や山菜取りに出かけたり、土器づくりを行う。
見れば、男たちの中に珍しい姿があった。年のころでいうなら、10才を少し超えたくらいの背格好のふたりの男の子。
「あなたたちも狩りに出るの?」
その男の子たちは、ついこないだまで子供としてムラで過ごしていたアラキとコモンだった。
「はじめてなんですけど」
「ムラのみんなに迷惑をかけないように頑張ります!」
アラキとコモンは、あどけなくもはつらつとした顔で言った。ヒブリが笑って続ける。
「彼らもそろそろ大人の仲間入りですからね。――君たち、今日は大きな獲物を狩れるよう、頑張るんだぞ」
「はい」
ふたりは元気よく応えた。初々しさにイチコも微笑みを漏らした。
「では行ってきます」
ヒブリら一行は、森へと出発しようとした。その時、
「ちょっと待てよ!」
どこかから大きな声がした。見れば、トワリが血相を変えてこちらに向かってくる。
「どうした? トワリ」
ヒブリが言う。トワリはヒブリに近づくと、手に持っていた木の板を差し出した。
「兄貴、これ持っていけ」
ヒブリは差し出された板に、訝しげに目を細めた。
「何だこれは」
「このあたりの地図だ。狩りに役に立つだろ」
「こんなもの必要ない」
ヒブリは吐き捨てるように言った。
「なぜだ。徹夜で作ったんだぞ」
「俺たちがどれだけこの辺りに狩りに出ていると思っている。地形なんか、すでに頭の中に入っている」
「そうとは限らねーだろ」
「第一、お前は13にもなるのに、一切狩りにも出ていないじゃないか。お前くらいの歳になれば、男は一人前になるもんだ。なのに、お前はなんだ。好き勝手なことばかりして、誰の役にも立とうとしない」
「そんなことはねえよ。この地図は絶対に役に立つ」
「ひとり立ちもできていない奴の作るものなんか、誰の役に立つものか。もっと現実を見たらどうだ。お前を認め、頼りにする奴が誰かいるのか。――もういい、お前にそんなにかまっていられるほど、俺たちは暇じゃない。行くぞ!」
ヒブリは男たちを連れて、去っていった。
「くそっ!」
トワリは持っていた地図を地面にたたきつけた。
「トワリくん、落ち着いて」
イチコはトワリをたしなめた。けれど、トワリはイチコに応えることもなく、うつむいたまま、声を震わせて呟いていた。
「なぜ誰も俺のすることを理解しない。意味のないことだとなぜ決めつけるんだ。――ったく、やってらんねーよ」
トワリは怒りを露わにしながら、ヒブリが出発した方向とは逆の、集落の方へと戻ってゆく。
「同じ兄弟とは思えないよね」
ミノカがぽつりと言う。彼女の言う通り、ヒブリとトワリは兄弟であった。けれど、ムラを取り仕切るリーダーとして人々から慕われているヒブリに対して、真逆な立ち位置ともいえるトワリ。両者は似ても似つかない。
「やっぱヒブリさんの方がいいよ。あれだけ力も人望もあって。そう思わない? ――って、イチコ何やってんの?」
イチコはかがんでトワリが投げ捨てた木の板を拾っていた。軽く表面の土を払う。
「ミノカ、見て」
「――え?」
それはトワリの言う通り、森の地図だった。覆い茂る木々の場所や、岩場のある区画、崖のある場所など、さまざまな森の地形が事細かに描かれている。
「これすごいよ」
「まあ、よく描けてるな、とは思うけど。でも、これって何か役に立つのかな?」
「うーん……」
ミノカの疑問に、イチコは反論できなかった。イチコにもこれが確実に役に立つものかどうかは分からなかった。けれど、必ずしも無意味なものとも思えなかった。少なくともトワリは、意味があることだと思ってこれを作ったはずだ。その気持ちまで否定する気にはなれない。