決意の叫びを轟かせ
人には本能的に、仮面を被る能力が備わっている。
時に都合の悪いことを隠蔽したり、自分を飾るために嘘で見聞を塗り替えたり。
本当の自分を大っぴらにして生きれる人間などおるまい。
空気を読んで合わせることもあれば、自分を信じて、他に斬り込むこともある。そのどちらも、れっきとした「自分」であることに変わりはないけれど。
だからこそ、仮面と素顔を使い分けて生きる。
ある時は仮面を被り、理想の自分になったかのように演じる。ある時は、ありのままの自分で誰かに接する。
そのどちらも自分なら、と。
「また・・・遅かった、のか・・・・・・」
うわ言のように呟いて、誰もいなくなったその場を呆然と眺める。
馬車の車輪が削り取った芝の跡が残っていた。それは遥か西の方へ続いている。
追わなければならない。
だって俺は先生なんだから。
生徒を見捨てることも、もう助からないと諦めることも許されはしない。
それは先生としての俺に課された義務だ。
でも、先生としての俺じゃ、駄目なんだ。それじゃ誰も助けられない。
だから仮面を被る。何も出来ない、優しい、穏やかないい人の像を捨てて、別のなにかを掴みとろうとする。
何かを掴む人は、何かを捨てた人だ。
その選択は遥か過去に済ませた。その結果、手には何も残らなかったけれど。
ただ俺は、今、この選択が大いに役立っている状況に、少しだけ歯噛みをした。
────────
馬は駆け、景色は移り変わる。
先程までは開けた平地で、遠目に転々と木々が見えていた。
しかし転々と茂る草木を横目で見送り、追跡者から逃れるうちに、視界には建造物さえ映るようになっていた。
「これが例の村か・・・?」
「地理的にはそのはずですが・・・」
たどり着いた村は人がいないからか、どこか異様な雰囲気を醸し出している。
人がいないのは、魔獣大行進に先んじて避難させてあるから。それにしても村は不気味だった。
やせ細った灰色の畑。不自然に開かれた家々の戸。何気ない箇所も、全てが怪しげなオーラを纏っているようにさえ見える。
「なに・・・、この村、なんか嫌・・・・・・」
「ですが・・・、このままでは豚人に追いつかれてしまいます。今は我慢して身を隠しましょう」
サクラの提案に、全員が馬車を乗り捨て、近くにあった納屋に駆け込む。
「おい、馬はどうするんだ!?」
「大丈夫。豚人は馬は襲いませんわ。彼らは今は、繁殖のために亜人族に狙いを定めているでしょうから。むしろ私たちが一番狙われてるんです」
その情報に一番身震いしたのは、話し手であるサクラ以外の女子、ミカだった。
ナリを見れば一発で分かるが、豚人は基本男しかいない。元から男しかいないというわけでもなく、女もきっちり産まれてはくるが、豚人の女とは彼らの中では異端とされ、早々に殺されてしまうのだとか。
それで他の亜種族の女が慰み者になるので、とばっちりにも程がある。
「だが・・・奴ら鼻はめちゃくちゃ効くぞ。ここに隠れていられるのも時間の問題じゃないか? だったら────」
「しっ!」
外の気配を伺っていたサクラが、ギルの言葉を遮る。
「・・・・・・残念ですが」
言い出すまでに少しだけ間が空いたのは、若干の諦めを含んでいたからかもしれない。
促されるように他の3人も、戸の隙間から外の様子を覗く。
・・・・・・・・・・・・。
誰も声を出せなかった。
声を出しちゃいけない。そう思う気持ちがあった。でもだからじゃない。確かに出せなかった。
「なんで・・・・・・、なんで・・・こんなことに・・・・・・」
ミカの震える声は、他の者たちの身体も震わせた。
彼女の目には今も、戸の隙間から見える、
おびただしい数に増えた豚人を映している。
その隙間から見えるだけでも十数体。
おそらくこの村全体を見渡せば、百体程度はいるのではないかとさえ想像させる。
「どうすんだよ・・・これ・・・・・・」
問いにもならない問いをギルが呟く。当の本人も答えらしい答えが返ってくるなんて思っていない。
サクラも戸の外をきっと睨むようにして見ている。その頬を汗が伝い、ぐっと奥歯を強く噛み締め。
ただ一人、マックスだけが表情一つ変えず、外の光景を眺めていた。
「みんな落ち着こう。ひとまず冷静になって、この場を切り抜けないと────」
「冷静になったって何ができるって言うのよ!! こんな状況の中で・・・・・・」
それは恐怖が我慢の限界に達した瞬間だった。
叫んだミカも思わず「あ・・・」と呟くが、時すでに遅し。
ズドォン!!!
納屋の入口とは反対方向から、地響きのような音がした。
「くっ・・・!」
ギルをはじめ、全員の視線が音の方向を向く。
だが危機が迫っているのは、そちらだけではなかった。
「おい! 閉めろ! はやく!」
「!!!」
マックスのその叫びは届かなかった。
少しだけ空いていた戸の隙間に、薄茶色の太い指が入り込む。
「ギル! 戸を押さえてくれ!」
「あ、ああ!」
幸いにも指しか入り込まなかったため、人の力でも押さえが効いた。
その隙にマックスは、手に火を灯し、その指を掴む。
指が焼けると、戸の外からは「ギャアアア!」という悲鳴が聞こえ、指はするっと引っ込められる。
戸が閉まりきったところで、すかさずサクラがカンヌキをかける。
その一連の行動中にも、反対側の壁はズドンズドンと地響きのように揺らされ、軋みの音を立てていた。
「ギル、サクラは2階へ! 窓から外の奴らを狙撃してくれ! 俺とミカで、あの壁を突き破ってきそうな奴を押さえる!」
「そんな! そんなの・・・・・・無理よ・・・」
「ミカ! そんなことを言ってる場合じゃない! こうなることは、いつか闘わなきゃいけなくなることは分かってだだろ!」
「でも、でも・・・!」
覚悟する、ということはそう簡単なことではない。
そして前持って準備した覚悟になど意味はない。
闘うための覚悟なんて正しくそれだ。
戦いの場に赴くまでに、どれだけ自分の覚悟を口にして、どんな目に遭うことも覚悟したと思い込んでも、結局、敵を前にしてみなければ、その覚悟が本物かなんて分からない。
脆く、無知な覚悟なんてないのと変わらない。
ドゴォン。
何かを突き破り、砕く音がした。
「あ・・・あぁ・・・・・・」
その襲来は壁とともに、彼女の覚悟も砕いたようだ。
小さく歯噛みをして、マックスは叫ぶ。
「クソっ! ギル、サクラ、急いで2階から援護を!ミカ、お前も2階へ逃げろ! あの入口だけなら俺が食い止めてみせる!」
「で、でも・・・あんたは・・・・・・」
「いいから行ってくれ。俺は────、
────覚悟・・・出来てるからよ・・・・・・!」
拳を打ち鳴らし、両手に炎を纏う。
────大丈夫。アイツに比べたら、こいつらは。
「相手にもなんねぇよ!」
先陣を切って、真っ先に突入してきた1匹目に殴り掛かる。
その拳を受けようとした豚人は、炎に左手を焼かれ、思わず仰け反った。
そこに出来た隙をギルが見逃さない。
「凍り付け、汝の魂に、裁きの槍を下す! 『霜槍』ッッ!!」
人の拳ほどの鋭利な氷の槍に喉仏を貫かれ、1匹目はあっさりと絶命する。
────いけるかもしれない。
そう思ってしまったら、彼らの負けはそこで決まっていたことだろう。
しかし、そこでマックスは倒れゆく1匹目の屍を乗り越え、崩れた壁の穴から新たに入り込んできた2匹目に殴り掛かる。
「燃えろ! まだ! もっと!」
己を鼓舞するようなその言葉は、彼の魔法だ。
腕の炎は噴き出すように変化し、拳に推進力を乗せる。
やはり拳を受け止めようとした2匹目も、加速した拳を見切れず、顔面に受ける。推進力そのままに入ってきた次の瞬間には、納屋の外へと退場させられる。
それでも、周囲からは敵の気配が消えず、戦闘は熱を持ち始めようとしたばかりだった。
その熱が、再び彼らの感覚を鈍らせる。
バキィッ!
「!?」
何かが折れた音だった。
後ろを振り返ったミカの目には、それが映った。
「嘘・・・、嘘よ・・・・・・!」
戸にかけたカンヌキが中心から折れていた。
────逃げなきゃ、離れなきゃ。
そう思えど念じれど、彼女の身体は動いてくれない。
「いや、いやああああああっ!!!」
飢えた豚人を阻む戸は開け放たれ、開けたその目の前に、大好物の女が腰を抜かして佇んでいれば、それは格好の的だ。
「しまった! ミカ!!」
「いやあああっ!! 離してえええ!!!」
少女がいくら暴れたところで、左腕、右足を掴んだその豪腕は、ビクともしない。
「野郎ッ!」
2階へ続く階段の中段という、比較的安全な場所にいたギルが、ミカを拘束した豚人に狙いを定める。
しかし不運に不運は重なり、1度始まった負の連鎖は止まらない。
「ギル君! 後ろ!」
振り返ったギルの目には、そこにいるはずがないと思われていた豚人がいた。
(窓、割れて・・・、こいつまさか壁を上って・・・!?)
「ごッ・・・・・・!?」
反応した頃には、豪腕の裏拳が彼を軽々と吹き飛ばし、壁に叩きつけた。
次にサクラの目に映った彼は、頭から血を流し、完全に体から力が抜け、意識を失っていた。
「ギル! クソがっ! 邪魔なんだよ!」
比較的善戦していたマックスも、次々と飛び込んでくる新手に囲まれ、思うようには動けない。
ギルの近くにいたサクラも、彼を倒した1匹にジリジリと詰め寄られる。遠距離攻撃が主体の彼女では、その間合いの近さは致命的だ。
そして、
「離して! 離しなさいよおお!!」
魔法を使うことも考えられず、ただただ泣き叫び、暴れ回るミカ。
彼女を捕まえている豚人も、それを後ろから眺めている個体も、余興がるような目で見ていた。
彼女を続く掴んだ豚人の口が気色悪い三日月型に
にたあっと歪み、生臭い吐息を漏らして開く。
「嘘、嘘ッ・・・、いやああ! やめてええっ!!」
その目がゆっくりと狙いを定める。
人の体の中でも、一番肉付きのいい場所へと。
がぶじゅっ。
「あああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
「ミカっ!! ミカあああああっっ!!!」
腿を食いちぎられ、痛々しい悲痛の叫びをあげた彼女にマックスは迫る。
掴みかかってくる薄茶色の腕を掴み、焼き、叩き落とし。それでも蜘蛛の糸に絡め取られる蝶のように、足を取られた。
「くっ・・・!」
そのまま持ち上げられ、拘束される。
「ミカ! ミカ! しっかりしろ!」
捕まりながらも必死に叫ぶが、涙を流し、気を失ったように目を閉じている少女に、その声は届かない。
────どうして、どうして・・・。
分からない。分からない。
ほんの数刻前まで、みんな笑っていた。
今は血を流し、気を失っている少年も。
追い詰められ、涙ながらに敵を牽制する少女も。
身体を喰われ、泣き叫んだ少女も。
何がダメだった? 俺は、どうすれば良かった?
あの時、2匹で追ってきた奴らを迎え撃っていれば良かった?
馬の走る速度が豚人に負けるはずがないのだから、逃げ続けていれば良かった?
それとも兵士のいる方へと逃げれば良かった?
いくつもいくつも考えが頭の中をめぐり、その度に一つ一つ、今更もう遅いのだと消してゆく。そしてその度に少年は、世界の残酷さを痛感する。
たった1つ、どこかで道を間違えた。
それだけで、皆無くなってしまう。
時は戻らないから、道を引き返すことなどできない。
それが生の選択。それが戦うということ。
たった1人、憧れた人を思い浮かべた。
────それを知っていたからこそ、あなたは・・・そこまで剛く、そんなに哀しそうに。
多分その人は何度も間違えてきたんだ。
その度に失って、失って、その度に立ち上がって、立ち上がって。
だから、
本当の強さを・・・・・・!
今だけでいい。あの強さが欲しいと願った。
この気持ちがあるなら自分などいらないと。誰かを助ける、誰かを守る。誰かのための力が欲しいと。
もう一度戦えるなら、もう二度と負けない。
だから、だから、
「俺は、俺はもう負けない! だからっ・・・! 誰か、誰か! 俺を、皆を、助けてくださいッッ・・・!!!」
あまりに稚拙な言葉を並べて、全てを出し尽くし、渇いた叫びを放った。
やけくそ、手当り次第、最後の悪足掻き。
そのどれも、その叫びを表わすには正しい。
願望のままに、希望を述べただけ。
だが願望こそが、希望こそが、生きることの証明となった。
そこに彼がいることを知らしめた。
「ありがとう。助かったよ、個人的に」
そんな誰の耳にも入らない、誰かの囁きが空に消える。
「グゴオオオオッッッ!!!」
マックスを掴みあげていた豚人の背後の壁を何かが突き破り、そのまま豚人の背中を穿った。
「がはっ!」
それと共に解放されたマックスは、その場に尻餅をついたまま、見上げる。
「あ・・・、あ・・・・・・」
壁を突き破ったのは、謎の人物だった。
服装は軍服でも、教員専用服でもない。黒装束という表現が正しいような、ただのコート。
顔には獅子を象ったような仮面を被り、その正体は窺えない。
ただ体型的に男であることだけが認識できた。
「不浄なる有象無象、不浄なる魂に、足は要らぬ。『零の拘縛』」
男の唱えた魔法が、納屋の床を瞬時に凍らせる。
地に足がついていた者は尽く、その足を凍り付けにされ、身動きがとれない状況に陥った。
「次・・・」
男は間を置かず、地を蹴り、足が凍ってもミカを離さなかった1匹に肉薄する。
その移動はもはや、マックスの目には瞬間転移にも近い速さで映った。
彼は懐からナイフを取り出し、
「ふっ」
「グィエオオオオ!!!」
深めに肩の腱を削がれ、叫びを上げて、手を離す豚人。
男は落下したミカを受け止め、
「おい。そこの女。近くで伸びてるお友達を抱えて馬車へ急げ。そこのお前はこいつを連れて行け」
淡々と、冷たい声でマックスとサクラに指示を出す。
しかし、それでも呆気にとられたままの2人。
「急げ。また間違えると、今度は死ぬぞ」
やはり冷たく、鋭く尖ったような声だった。
そして真に迫るような声色。
一足先に正気に戻ったサクラが、気を失ったギルの元へ駆ける。
それを見たマックスも、男の元へと駆け寄った。
「急げ。俺を追っていた奴らも、そろそろここに来るだろう。それまでに馬を出せ」
「あ、あんたは・・・?」
「俺はいい。今はお前のやるべきことをやれ」
男は仮面を被っているからその表情は窺えないけれど、その言葉には何かを捨てきったような、決別させきったような哀しさがあった。
だから信じられた。
「サクラ急げ! 行こう!」
「え!? でも・・・」
「大丈夫。あの人は・・・きっと大丈夫だ」
決して振り返ることはなかった。
見捨てたわけじゃない。
────きっと俺たちが邪魔になる。
そう感じさせたのは、男だったのだから。
そのまま逃げて、逃げて、逃げ続けた。
豚人は一匹たりとも追っては来なかった。
男は何者なのか。そんなことも気にならず、頭の中は空白のままに、前を見据えて、馬車を走らせ続けた。
────────
男は1人佇んでいた。
高い丘の上に。
いや、違う。
丘に見える「それ」は「山」だった。
累々と横たわるおびただしい「死」を積み上げた「山」だった。
豚人が纏う不衛生の臭いは、血に染め上げられ、塗り替えられ、男のよく知った香りに変わっていた。
「あーあ・・・。殺した、殺したー・・・」
それは男にとっては何気ない一言のような、それともある一種の嘆きのような。どちらの意味をも感じさせる。
「まーたたくさん殺したよ、俺。まぁ『人』じゃないからーって、『豚人』だから人かー、ははは・・・」
男は力なく笑う。
空元気ほどの元気もなく、言葉はただの空っぽだった。
その哀しそうに笑う、男の心の中には何が渦巻いているのだろう。
「でも結局、何かを守ってるんだよなー。まったく皮肉なこった・・・」
男は見えない誰かと会話しているかのように、声のトーンを変えて、呟く。
誰もいないけれど。誰もいなくなったけれど。
人とは磁石のように、相性さえ良ければくっつき、離れず、悪ければ一生くっつくことはない、なんて単純な生物ではない。
人間の「極」は簡単に変わる。昔は仲の良かった人物が、今は離れていってしまったなんてありふれた話だ。
そして1度壊れた関係は、パズルのピースのようにまた繋ぎ合わせることは叶わないのだと。
だから、彼の傍に誰かが戻ってくることはきっと、もうない。
そんなことには元より期待していない。
自分は何かを裏切り、何かを切り捨て、そしてこの世の全てに裏切られた。
もう何かに寄り添うのも、寄り添われるのも結構だ。
──────独りで生きていくんだ。
そう誓って、叫んだ自分がいた。
「・・・笑わせる。自分で何とかできたことが、この世に一つだってあったか?」
俯きながら、男は笑った。嘲笑った。嗤った。
でも仕方ないと思えた。
彼の「選択」はとうの昔に終わってしまっていたから。
もう彼に選べる道はなかった。
あとは目の前に続く道を歩いていくだけ。後ろを振り返っても、きっと歩いてきた道はもうない。
彼はもう一度、懐から仮面を取り出して、被った。
ゆっくりと立ち上がり、沈みかけた赤い落陽に背を向け、屍の山を下り、歩き出す。
彼の道がどこへ続いているのかなんて、彼自身にも分からなかった。