幻想に生きて
人には予測能力というものが備わっている。それがあったからこそ人類は時に己が身に降りかかる厄災を防ぎ、文明を発展させてきた。
また人が他の生命体と一線を画すのは、その能力の発達度合が故にである。
しかし発達し過ぎたものは時に何かを見落とし、過ちを犯す。人のそれにも同じことが言える。
だからこそ人は出来もしないことに挑み、朽ち果て。
本当は成しうることに踏み出せず、損をする。
それが幻想、幻惑というものか。
しかし幻想を見上げる者は努力の道を走り出す。甘く微温い幻惑に浸かる者は下を見下ろすばかりでどこへも進もうとしない。
ならば彼らが邂逅するまでにそう時間はかからないだろう。
────────
「ぐへっ!」
拳を突き伸ばした勢いそのままにマックスが地に伏せる。
結果として、彼の右拳はロイの魔力壁を破り、咄嗟に紙一重で顔を逸らした彼の頬を掠めた。
炎に焼かれた傷から血は滴らない。傷口を押さえたまま、ロイは目を剥いているように見える。まるでありえないものでも見たかのように。
「ははっ・・・、ふふ・・・! フハハハハアッ!」
傷に触れ、焼き固められた血を指で拭ったロイは、そんな奇妙な声を上げて笑い出す。
「まさか・・・! まさかこんなことがあろうとは・・・! ふふふ、面白いッ・・・・・・!」
「そこまでだ! 両者、魔力を収めろ!」
ロイの雰囲気が一転したのを危険視した審判の教員が、先んじて終了を告げた。
マックスの方はと言えば、終了のゴングが鳴り集中が途切れたのか、もう完全に伏している。恐らく腹部に受けたダメージも無視できるものではなかったのだろう。
「聞こえないのかロイ・ウィレム! 魔力を収めろと言っているんだ!」
ロイを中心に渦巻く魔力の渦は、ここにまで伝わるほどに出力を増している。
だが彼が怒りに猛っている風には見えない。
ただその闘志が湧き上がる様を、込み上げる魔力が体現しているようだった。
「なるほど・・・そういうことかよ・・・・・・!」
その呟きは口の動きと、こちらを真っ直ぐ鋭く見上げてくるその目で聞き取れた。
そのまま魔力の収まらないロイは、端に控えていた教員たちに拘束されるような形で連れていかれた。
その顔は、射貫くような眼光は、しっかりとこちらに照準を定めたままで。
「よいしょ・・・っと」
自称は否定している狂犬が退場なさったところで席を立ち、石段を降りて舞台へと向かう。
舞台の上では倒れたまま動かないマックスが、駆けつけた教員や医務の人に囲まれている。
どうもただならぬその状況に、観客と化していた他の生徒たちもざわめき出す。A組の生徒なんか今にも飛び出していきそうな様子だ。
観客席最前列の塀を跨いで、舞台までの高低差を飛び降りる。
「すいません。空けてもらっていいですか?」
そのまま取り囲んでいる一人の肩を叩き、どいてもらう。
大勢に囲まれていて見えなかったが、マックスはうつ伏せの様子から一度寝返りをうち仰向けになっていた。
「どうだ?」
今にも昇天しそうな様子の彼に声をかけると、目だけでこちらを向いた。
「へへっ・・・くっそ強かった・・・・・・」
「バッカ。死にかけのようなやつに感想述べさせるほど鬼畜じゃねぇよ。そんだけ屁理屈吐けるなら折れてはなさそうだな」
様子を窺ってからマックスの首の下と膝の下に手を入れ、そのまま持ち上げる。
「メヴィウス先生! 安静にさせないと・・・」
「心配ありませんよ。折れてたら寝返りも打てませんしね。ただ痛いだけでしょう」
生憎、ハード戦場を生き抜いてきた俺は「人間そう簡単には死なない」がモットーだ。折れてたら色々突き刺さるので危険だが、痛いだけなら我慢させます。そのくらいには鬼畜です、はい。
平和な温室育ちの医務員は呼び止めようとするが、意にも介さない。
すまないが、この程度なら彼らはこれから幾度も経験することとなろう。その度に誰かが助けてくれるとは限らない。その度に独りで立ち上がらなければならない時が来る。
ならばこの痛みはそのための経験にしてもらわなければならない。
「なぁ先生・・・」
「痛いならあんまり喋らない方がいいぞ」
「いや・・・今なら痛みのせいで、大抵の事は気にならないんだけどさ・・・。やっぱ・・・自分で歩くよ」
「・・・・・・・・・・・・そうか」
観客席の下、舞台へと繋がるトンネルの中、彼はそう言った。
表情が窺えなかったので彼が恥ずかしかったのか、悔しかったのか、それとも何かを決意したのか、そこまでは分からなかった。
────────
「あででででっ! 痛いっ! そこヤバいっ!」
保健室に到着すると患者をベッドに寝かせ、即座に触診が始まった。
「ふむ。折れてはないな。ただ鳩尾に入っているから、食らった後は痛みで動けないはずなんだが・・・」
保健室の女医はそう言って、首を傾げる。その傾げた首に吊るされた名札には見知れた名が記されている。
「察するに、戦闘に固執する精神が痛みを食い止めた。要するに『若気の至り』ってところか・・・」
「おい。そのまとめ方じゃ男と男の純粋な勝負がなんか犯罪っぽくなっちゃうだろうが」
「じゃあお前が同じ状況に陥っていたらどうしてた?」
「痛くて諦めてた」
「ほら『若気の至り』じゃないか」
どうやら29歳は若くないらしい。いや、若くはないな、うん、そうだな。
「とりあえずお前は痛みが引くまでは寝てた方がいい。痛みさえ引けば問題ないだろうが、下手に動けば厄介なことになるぞ」
「は、はいぃー」
ちょい強めの口調で女医が釘を刺す。献身の欠片もないその言葉は、この人本当に医療専門なのか? とさえ思わせる。
そして荒々しい触診の痛みに怯えるマックスはやたらと震えた返事をした。
「あれ・・・」
そこで女医が机の上に置かれた水晶のような物が光だしているのに気付いた。
「チッ。緊急の呼び出しか。今年はケガ人が多いな、ったく。じゃアタシは行くから。メヴィウス、お前も会場に戻らねぇとケガ人出た時、呼び出し食らうぞ。早く戻れよ」
「あいよ」
一通りの宣告だけ残し、やることはやったという様子で女医は保健室を後にしていった。
ていうか何気に舌打ちしたな? 医師が新たな患者に舌打ちとはなにごとか。
荒々しい診断、荒々しい言葉遣いに悪態。生徒が想像する理想の保健室女医としてはとことん真逆をいく人である。
「先生、クリスティン女医とも仲いいんすね」
「あれクリスティンなんて名前だったっけ」
「クリスティーナ女医、略してクリスティン女医」
あっそう、と適当に相槌を打ちながら、大して省略されてないよなぁ・・・とふと思う。
こんな通り名前もうろ覚えなくらいなのでそんなに仲良いわけじゃない。まぁなんか気は合いそうな気がする。
「くっそー・・・、なんで先生はそんなに美人と仲良くなれるんだよぉ〜。なんか秘訣とかあるの?」
「俺は別に周囲の女を美人かどうか、仲良くなりたいなんて目では見てないからな」
「ハッ、つまり俺が意識して見ている限り仲良くなれない・・・?」
「そーかもねー」
顔を覆い隠しながら「じゃあ俺無理じゃん!」と心まで傷ついた様子のおサル。コイツ、実はもう痛みすらないんじゃないか・・・。
というか最近は俺に対するアリスの接し方が露骨になったからか、クラスの男子は俺の交友関係を注視しすぎだと思うんだが・・・。
ともあれ元気そうなので、椅子から腰を浮かせ、この場を去ろうとすると、
「なあ先生。俺さ、クラスに仲良くなりたい女の子がいるんだ」
袖を引くようにマックスが言葉を編んだ。
「・・・・・・恋愛事なら俺に相談しても無駄だぞ?」
「いいや、恋愛事じゃないんだ。男の相談ってやつさ」
ケガ人らしからぬ顔で笑った彼の目は少しだけ輝いていた。
昼下がりに吹き込む麗らかなそよ風と穏やかな陽の光が、これから始まるのはここ最近よく耳にするような重く、暗い類の話ではないことを期待させる。
俺が椅子に座り直すための少しの幕間を置き、マックスが口を開く。
「先生はさ・・・。英雄に憧れたことってあるのか・・・?」
「・・・!」
心臓が鼓動のリズムを外れ、ピクリと跳ねた気がした。
このワードにまだ反応してしまうらしい。
「ああ、あるよ」
その重みを感じながらそう答える。するとマックスは何故か安堵したような様子で、
「そっかー。男ならやっぱりみんな同じなんだな」
照れ笑いのような形で答えた。
「そうだよな。強くて、カッコよくて、最後には大切な人と結ばれる、そんな英雄に憧れるよな」
「そうだな・・・・・・」
彼は輝かしい瞳にこちらを写し、語り続ける。それは、まだ見ぬ本を初めて開いた少年のような顔。
「でもさ、この間・・・俺は自分がそんな英雄からは程遠いことを痛感したんだ」
逆接によって繋げられたその言葉は、直前の輝きと相違して、お得意の重暗いトーンを響かせる──のかと思われたが、
「けど・・・俺はあの時、自分の目指すものがはっきり見えた気がしたよ」
逆接に逆接を重ね、暗い話は漂わなかった。
「俺は・・・ずっと派手でカッコいい英雄に憧れてたんだ。けど、あの時、それだけが英雄のあり方じゃない気がした」
明るく語っていた彼の顔はいつの間にか真顔に近くなっていた。好きなものを語るのならこうはなるまい。
彼が語りたいのはここからだ。
「アリスみたいにカッコよく敵を倒して誰かを守るのも立派な英雄だった。けど守り方はどうあれ、先生は俺を庇って守ってくれた。その二つに違いなんてきっとない」
その瞬間、脳髄に電気が走った。
それは彼が視野を広げたことの喜び、ではない。むしろ今の彼がそれを悟ってしまってはならない。
勘のいい俺のことだ、恐らくこの後に続く言葉は予想通りになるだろう。だが、してはならない。
「俺の認識は少しだけ間違ってたんだ。いざ強くなりたいって思った時、その理由を追求した時、
────自分がどうなりたいのか分からなかった」
そう告げる彼の顔はよく見れば、大分成長したように感じられた。
喜ばしくなんかはなかった。
「俺は誰かを守りたかったのか、それともただカッコよくなりたかったのか。それが分からなかったんだ」
仰向けになったままでこちらから顔をふいと背けるようにして、窓の外を窺いながら言い切った。
今、未知の階段を一歩昇ろうとしている生徒がいるとして、その場に居合わせる教師は何をするべきか。
背中を押すか? それともただ傍観しているか?
俺はそのどちらも誤りだと思っている。
俺は──────
「・・・・・・人の強さには、いくつかの種類がある」
「?」
突如とした切り出しに、マックスも不思議そうな顔をこちらに向ける。
「英雄のように悪を圧倒し、人を救うのはれっきとした強さだ。だが、悪に立ち向かうことは出来ずとも、誰かに優しく、寄り添い与えることも・・・また強さだ」
そうだ。何も命を危機に晒さずとも、誰かを救うことはできる。
「だからこそ人は時に見間違う。自分の願望ばかりに目を向け、自分の姿を考慮の対象から外してしまう」
「・・・・・・・・・・・・」
「俯かなくていい。そもそも自分というものを一番知っているのは自分だ。まだ未来の見えない若者なら誰かの言葉に身を従わせるのは・・・明らかな間違いだ」
「あいたっ!」
マックスの弱気な顔に喝を入れるようにデコピンを叩き込む。
「なあマックス。お前のなりたい英雄はどんなやつだ? お前が欲しいのはどんな強さだ?」
「え・・・・・・っと」
今はその答えを口にする必要などない。
彼らが至りつく終着点などありはしない。何かに憧れ、何かを追いかけ、最終的に辿り着いた場所こそが彼らの終着点だ。
「女の子とお近づきになるための強さ? 結構だ。誰かを守るための強さ? それも結構だ。強さの理由は幾つあってもいい。それら全てを追いかけ続けた先こそが────、
──────お前のなりたい英雄の姿だ」
英雄が幼い頃に憧れた後ろ姿は、未来の自分だった、なんてのはよくある話だ。だからこそ格好いい英雄を理想としなければ、格好よくはなれない。
そして、その憧れの方向を間違ってはならない。
階段を昇る最中にある者は、その段の上にあるものに対して盲目となる。ならば教師が成すべきことは、
その段の上を見ることだ。
未来の英雄の目を真っ直ぐ見つめて答えた、その瞳には魔力を持たぬ魔法を宿した。
「俺は・・・、俺は・・・・・・っ」
「言わなくていいよ」
それは優しいようで、いつかは残酷な魔法。彼はいつの日か、その魔法の本質と本意を知ることになるだろう。
「マックス、強くなれよ。道は長いぞ」
そう言って今度こそ、去るために椅子を立つ。
何かの想いに溢れたまま、歯を食いしばったマックスは腕で目の辺りを覆い隠していた。その口元は少しだけ釣り上がっている。
「なあ先生。先生ってカッコいいな」
「やめろよ、気持ち悪い」
保健室の戸を開けて、少し暖かい陽だまりから足を進める。戸を閉める直前、吹き抜けてきた風が髪を揺らした。