おとぎ話の始まり(9)
2019.03.25 更新:1/2
お待たせしました、続きになります。
今回の更新で、番外編【おとぎ話の始まり】は終わりになります。
瞼を押し上げた時、薄らと白んだ空と水辺の風景が広がった。
まだ夜が明けきらない、明朝のようだ。
両隣へ顔を向けると、スヤスヤと眠る姉様や妹たちがいて、彼女たちの色とりどりな羽根に埋没し気持ちよさそうに眠るセリーナがいる。
自然と頬が緩んだけれど――これも、今日までだ。
ふわふわして、ぬくぬくして、でもずっとこの心地好さの中にはいられない。
もう一度、お別れをしなければならないのだ。
そう考えたら、何だか急に目が冴えてしまった。セリーナたちを起こさないよう、慎重に折り重なった羽の下から抜け出し、目元を擦りながら辺りを窺う。
他の冒険者も、まだ眠っている。グレンは……少し遠くで、外套に包まって目を閉じていた。一晩、見張りの番をしていた冒険者は、ウトウトと目を細め、頭を上下に揺らしている。
まだ薄暗いし……声は掛けない方が良いよね。
音をこぼさないよう欠伸をした、その時――何処からか、歌声が聞こえた。
すぐ側を流れる水の音に掻き消されてしまいそうな、そよ風よりも柔らかく、儚い歌声。
聞き覚えのあるその調べに、私は物音を立てないよう野営地を離れ、静かに空へ飛び立った。
夜明けを待つ故郷の森は、空と同じ仄青い美しい色に染まっていた。薄く漂う霧を片隅に見ながら、歌声を辿ってゆけば、その先には果たしてあの人がいた。
「――お母様」
夜明けを待つように、樹木の天辺にとまるその姿は。
女王の威風ではなく、母の温かさでもなく、なんだろう……哀愁を帯びていて。
それは初めて見る、お母様の横顔だった。
お母様は私に気付くと、視線を下げ微笑んだ。そこにはもう、私のよく知るお母様の顔だけがあった。
「ああ、二の娘か。起きたのか」
「うん。お母様のお歌が聞こえてきて。あの、側に行っても良い?」
窺いながら尋ねると、お母様は言葉の代わりに、片側の翼を広げた。私はぱっと表情を明るく咲かせ、すぐさま飛び上がり、お母様に寄り添う。
広げられた大きな翼が、ゆっくりと閉じる。赤い翼に包まれると、群れで暮らしていた記憶が蘇る。こうして翼に守られ、お母様の匂いと温もりに包まれて、過ごしていた。
不思議と、恋しさはない。ただ、懐かしいと、そんな風に感じた。
「――あんなに小さくて、可愛い灰色の雛だったのにな」
お母様は笑みをこぼしながら、ぽつりと呟いた。
「いつの間にか、こんなに大きくなるなんてな。言葉も、とても上手になったな」
「えへへ……私ね、ずっと、お母様みたいになりたかったの」
群れを率いる女王であり、群れ一番の強者。
強くて、かっこよくて、それでいて煌びやかな美しさがあって――灰色の羽根だった頃も、純白の羽根へ変わった今も、お母様は憧れだった。
ずうっと、お母様みたいになろうと、思っていたのだ。
「私、お母様みたいに、なれたかな?」
「ふふ……ああ。私と違う、お前の姉妹達とも違う、お前だけが持つ綺麗な羽根になったよ」
お母様の言葉に、胸の中が温かく、くすぐったく満たされる。
「きっと、お前がそうなりたいと願ったのだ。とても、立派だよ」
「うん、ありがとう。……あのね、お母様。私、聞きたい事があったの」
ここにやって来てから、ずっと、聞きたかった事だ。
「この森の外の、人間の村に行ったの。そこではね、お母様は“凶鳥”って呼ばれてるって、知った」
「……そうか」
「でもね、私、お母様がそんな風にするなんて、思えないの」
――真紅の羽根を持つハーピーが、農村の住人から慕われた学者を、村の近くで喰らった。
人間の住み処の近くで、この女王が、そんな無防備な事はしないはずだ。
「お母様、村の人間なんて、食べてないんでしょ。私、何があったのか、知りたいの」
私の知る事のない、お母様の昔の記憶。
そこにはきっと、人間の暮らしや文化に詳しかった事、私たち雛によくよく人間の恐ろしさを説いた事、それでも何処か恐怖ではなく一定の理解を示していた事の理由が、あるはずだ。
お母様は、しばらくの間、何も言わなかった。それでも、真っ直ぐと見つめ続ける私に根負けしたように、やがて小さく呼気をこぼした。
「……お前は賢いね、二の娘。まるで、あの学者のようだ」
呟かれた声は、懐かしさに溢れた、穏やかな音色を含んでいた。
「――お前が言うように、私はあの麓の村を襲った事はない。あの場所から人間を攫い、食べた事もないよ」
ああ、やっぱり。
腑に落ちると同時に、不思議に思う。ならばどうして“凶鳥”などと呼ばれるのか。
どうして、と問うと、お母様は小さく笑った。
「それは、私が“魔物”であったからだろうな」
例え、人を襲わずとも。
例え、言葉を覚えようとも。
魔物は、所詮、魔物なのだ。
お母様の声は、怒りもなく、諦めもなく、淡々としていた。
「――昔の話になるがね。ずっと前に、人間が住み処の近くに迷い込んだ事があったんだよ。今は山の頂上付近だが、昔はもっと森に近い所にあってね」
それはまるで、寝物語を語るような声色だった。
今でこそ大きな群れの女王だが、当時はまだ未熟な、未完成な女王だった。
その頃、群れはまだ小さく、各地を転々としながら仲間を増やし、群れの規模を大きくしている最中だった。
自らを産んだ母が女王だったように、その雛であった自身もやがて女王になる存在。
生まれながらに空を飛べるのと同じように、それはごく当たり前に持つ本能であった。女王として立派になろう、と。
そして、住み処の近くに人間が迷い込んだ時、群れを率いる者として当然排除しようとした。
だが、その人間は、自らの命の危機よりも、目の前のハーピーに強い興味を持つ、おかしな人間だった。何を言っているのか分からなくとも、襲い掛かろうとした魔物に対し笑みを向けたのだから、奇っ怪な人間だと思うのが当然だろう。
敵意ではなく好奇心を向けられた時、虚を突かれてしまい、八つ裂きにする絶好の機会を見失ってしまった。
結局、面倒になり追い返したのだけれど、それが良くなかったのか。人間は、その後、またも現れた。相も変わらず、笑いながら。
何度も、追い払った。翼を打ち付け、足蹴にして、何度も何度も追い払った。それなのに、生傷だらけになりながらも、人間は懲りずにやって来る。一体何がそいつをそこまで駆り立てているというのか。ここまでくると、もう呆れしか思い浮かばない。
相変わらず何を言っているのか分からなかったし、身振り手振りの動作も意味不明だった。けれど、意思疎通を図ろうとしている事は……何十回と追い返す内に、さすがに理解出来た。
この人間は、馬鹿じゃあないのか。
嘲笑いながらも、足繁く通う人間を八つ裂きにする事は出来ず、奇っ怪な行動に何年も付き合ってしまった。
望んだわけではないが、その間に人間の言葉を理解するだけでなく話せるようにもなり、互いの感情なども伝える事が可能になった。
その頃になってようやく、その人間の目的が分かった。学者志望だというその男は、天敵である魔物の生態を調べ、その関係に別の可能性が無いか探しに来たのだという。
馬鹿正直に、夢見がちな到底叶うはずもない願望を、天敵であるはずの私に!
ここまで来るといっそ滑稽の極みであったが、それを確かに、面白く感じていたのだ。
――ならば試そうか。本当に、新しい可能性とやらが見つかるのかどうか。
やがて、その学者とまぐわい、その腹に命を宿した。
出会ってから何度目かになる、穏やかな春の日であった。
その後も、学者は変わらず、むしろ以前に増して積極的に森へ通い、秘密裏に会いに来た。
しかし、終わりは、呆気なく訪れた。
学者は、命を落とした。
不慮の事故に遭ってしまい、そのまま、亡くなってしまったのだ。
捨て置くにも忍びなく、学者の遺体を村の近くにまで運んだが、その姿を見られた際に勘違いされ、以降は“凶鳥”として恐れられるようになった。
学者が命を落とした後、様々な人間が住み処にしている森へとやって来た。村人だけではない、魔物を殺す事を生業とする冒険者などもその中にいた。
このままでは危ない、もっと遠い場所へ移らなければ――。
そうして住み処を、山岳の頂上付近にまで移し、大きくなった群れと、腹の中の命を守った。
四つの卵を産み、四羽の雛が生まれたのは――それからしばらく経ってからであった。
「――そうなんだ」
私の口からようやくこぼれたのは、そんな言葉だった。
「私の知らないところで、お母様にも、たくさんの事があったんだね」
人間と、長い間、交流して。
でも、その人間から、追われるようになって。
大変だった、なんて言葉では、きっと表せない。表しては、いけないだろう。そんな風に穏やかな微笑みを浮かべるようになるまで――どれくらい、お母様はたくさんの感情と向き合ってきたのだろう。
「……ふふ、色々あったのは、お前もだろう。私の知らぬところで、たくさんの事を経験した。灰色の頃より、ずっと良い表情をしている」
「そう、かな。でも、お母様がたくさん教えてくれたから、そのおかげだよ」
「いいや――未来を切り開いたのは、二の娘自身の力だ」
私を包む赤い翼が、力を増した。
「とても立派だよ。私は……そうはなれなかったからね」
長い睫毛が、影を落とす。微かな憂いの浮かぶ横顔を、私はじっと見つめた。
「お母様も……変わりたかった?」
今の自分ではなく、もっと別の自分に。
私が、灰色の羽根ではなく、大人の羽根を求めたように。グレンやセリーナたちのために大きくなりたいと願った、あの時の私のように。
その瞬間、お母様の凛とした赤い瞳が、ハッと見開いた。「そう、なのかもな」ぎこちなく笑みを乗せた唇から、戸惑うような声が落ちた。
「変わりたかった、のかもしれない。だが、今となっては、もはや知る由もない事。振り返っても、仕方のない事だ。私は群れの女王、守るべきは人間との過去ではなく、仲間達の未来なのだ」
「うん……」
「私はね、ここで群れと暮らす事に、一切の不満はない。女王として生まれ、群れと共に生き、新たな女王となるべく旅立つ娘達を見送り――そして、最期は一羽で死ぬ」
私の母がそうだったように、私も同じ道を歩むのだ。
お母様の声に、疑いも、不満も無かった。
「――けれど、それは私の生き方。お前は、もう違う。私の辿った道でも、私が示せる道ではなく、お前が願う道を突き進め」
弾かれたように、顔を上げる。
私を見つめるお母様のかんばせには、優艶とした微笑みが浮かんでいる。眩しいくらいに力強く、堂々とした潔さに溢れるその美貌に、私は見惚れた。
「私のもとではなく、あの冒険者のもとで、お前はきっと多くのものを見つけたのだろう。これからも迷わず、私の知らない事を知り、大きく立派におなり。二の娘、私はお前がとても誇らしいよ」
胸の奥から込み上げてくる感情を、ぐっと堪える。それでも、まなじりはどうしようもなく熱く染まり、夜明け前の風景が滲んでしまう。
「……う、ん。ありがとう、お母様」
ぎゅっと身を寄せた私を、お母様の翼が優しく撫でていった。
やがて、水平線の彼方が、白く輝く。
仄青い世界に差し込んだ朝陽が、夜明けを告げているのだ。
(お別れは、もう少し――)
灰色の羽根は、もう捨てた。大人の証になった純白の羽根になって、身体もぐっと大きくなった。もう守られるだけの雛なんかじゃない。
――でも、でも。
今だけ、もう少しだけ、あったかい翼に包まれていても、良いよね――。
「そういえば、二の娘。あの冒険者……何といったか。茶色の髪と瞳をした、若い男の」
「グレン?」
「ああ、そうだ、たぶんその男だ。そいつが言っていたが、二の娘ではなくリアと呼ばれているらしいな」
草原の町に連れて来られてから、すっかり私に定着した呼び名。
昼間は雑草と変わらない凡庸な佇まいをしているが、月夜になると純白の清楚な花弁を咲かせるという、月光花セルネリアから取った名前だ。
「うん! 人間はそれぞれ名前っていうものを付けて、呼び合うの。グレンたちの仲間になれて、嬉しい!」
「嬉しい、か。そうか、“嬉しい”か」
お母様は楽しそうに微笑んでいたが、不意に、その整ったかんばせへ静けさを浮かべた。
「……なあ、二の娘。人間と共に暮らすお前なら、分かるだろうか」
「なあに?」
「……例えば、それまでの暮らしを捨て、自分の在るべき場所を離れ、別のものへ変わってしまうのも厭わなくなる――そんな想いを、何と呼ぶのか」
私は、少しの間、考え込む。それから、真っ直ぐとお母様を見つめ、笑いながら答えた。
「きっと“好き”じゃないかなあ」
「好き……」
「私は、グレンが好き。セリーナも好き。ダーナも好きで、ギルドのみんなも、町の人も好き! みんな、とっても大切!」
お母様は微かに瞳を見開かせると、そうか、と小さく囁いた。何度も、噛み締めるように、頷きながら。
「とても大切で、とても好きだった。そうか、私は、あの頃ずうっと、そう想っていたのか……」
「お母様?」
「ありがとう、二の娘」
お母様は、両腕の翼で、私を抱きしめる。大きな翼に頭ごと包まれ、お母様の顔が見えなくなってしまった。
「あの時、置き去りにするしかなかった想いの正体を、ようやく、ようやく知った。ありがとう……――」
安堵に満ちた微笑みと、涙をこぼさないよう堪える儚さが、矛盾しているけれどお母様の囁く声から漂っていた。
私は何も言わず、お母様の大きな翼に包まれ、静かに瞼を下ろす。
その感情はお母様だけのもので、私はきっと触れてはいけないのだ。




