おとぎ話の始まり(8)
2019.03.18 更新:1/1
囁くように紡がれた歌声が、ひっそりと鳴り止んだ。
身を寄せ合って横たわるリアとセリーナ、そして三羽のハーピーからは、微かな寝息が聞こえる。女王の歌を子守唄にし、眠ったのだろう。
人間が紡ぐ歌の類いとは異なるが、不思議と心穏やかになる、美しい鳴き声であった。甲高くはなく、けれど夜鳥のように低くもなく。夜風のように、せせらぎのように、優しく心を包む。それはきっと、戦いの中では聞く事の出来ない声に違いない。
人里にはあまり姿を見せないハーピーの、それもさらに珍しい群れの女王の歌とは。貴重な調べを聴きながら眠れるなんて贅沢だな、とグレンは思った。焚き火と見張りの番をする他の冒険者も、聞き惚れている。
女王はしばし、ひとかたまりになって眠るリアたちを大きな真紅の翼で撫でると、おもむろに立ち上がった。そして、くるりと振り返るなり、真っ直ぐとグレンを見据える。
「そこの冒険者、付き合え。縄張りの偵察に向かう」
「あ、女王、それなら私達も……」
冒険者の一人が腰を持ち上げると、女王は素早く制した。
「いや、大人数では騒がしい。夜を領分とする他の連中を、刺激したくはない。そこの冒険者がいれば事足りる」
「いや、だけど、二人だけは危ないんじゃ」
「平気だ」
グレンは横に置いてあった長剣と角灯を取り、腰を持ち上げる。他の冒険者は皆、大丈夫なのかと一抹の不安を面持ちに浮かべている。夜間の恐ろしさは、グレンもよく理解するが――。
「女王がいるし、大事にはならないだろ。行ってくる。あ、見張りとか頼むな」
「それは構わねえけどよ……」
「気を付けなよ」
グレンは、ひらりと手のひらを揺らし、女王へと視線を向けた。彼女は顎をしゃくり、豪奢な赤い髪を翻し暗闇へと向かう。
着いて来い、という事だろう。
グレンはしっかりと剣を携えると、女王の背に追従し、野営地を離れた。
瞬く間に焚き火の明かりは遠のき、行く手は深い暗闇で包まれる。小さな角灯では足元が頼りないものの、じきに目の方が慣れる。
「女王、何処まで行くんだ?」
女王は、何も答えない。豪奢な赤い髪を流した背は、けして振り返らない。沈黙ばかりが間を埋めたが、グレンは気に留めず、足を動かし続ける。
野営地は、とっくにもう遠く離れている。女王の言う縄張りとやらが何処にあるのかは不明だが、森の深部へと進んでいる事だけは明確だった。
――まあ、そうだろうな。
縄張り偵察とは、方便。女王の真意は、恐らく……――。
行く先を覆っていた木々と暗闇が、グレンの視界からサアッと消える。
涼やかな夜風が吹き抜けると共に、藍色の夜空が目の前に広がっていた。
銀砂のような細かな星を散りばめた空には、見事な満月。淡く白い光を注ぐ静謐な夜の世界に、荒事に身を置くグレンでさえ、たまらず吐息を漏らした。
出来れば、自然界が作り上げた夜景に見惚れていたいところだが――悲しいかな、そうもいかない。
「――さて、他の奴らに聞こえないところにまで来たな」
野営地を遠く離れた、狩り場の深部へと導いた女王の背へ告げる。
「話し声も――戦闘音も、きっと届かない」
それまで一度も振り返らなかった女王が、この時ようやく、グレンに振り返った。
星屑と銀色の月が輝く、圧巻の夜空を背にし、女王は微笑んでいた。
人ならざる美貌に相応しい、艶やかで、たおやかで、そして――魔物の本性を露わにした、実に獰猛な笑みだった。
リアを含めたどのハーピーよりも人間の言葉を流暢に操った女王は、これまで友好的かつ優雅な物腰で応じてくれたが、それはグレンに対してではないと、何処かで察知していた。
グッと吊り上がった唇から覗く、鋭い牙。そこに乗せられたのは、憤怒か、嫌悪か。なんにせよこれが女王の真意であり――人間が恐れてきた、ハーピー本来の姿である。
リアと出会う前に根強く存在していた、妖鳥の魔物が、そっくりそのまま目の前に在る。
リアも、本来だったら、こうなっていたのだろう。
そしてそれを捻じ曲げたのは――間違いなく俺だな。
「冒険者、お前にはまだ聞きたい事があるのだろう。だが、私にも、問い質さねばならない事がある」
どのハーピーよりも大きな翼が広げられた。女王はその場を跳躍すると高く飛び上がり、グレンの頭上目掛けて足指の爪をかざし襲い掛かった。
月明かりを遮る輪郭は、大型の猛禽の輪郭。影の中に浮かぶ双眸は、赤く浮かび上がっていた。
グレンはすぐさま、鞘に収めたままの長剣を水平に掲げ、女王の爪を受け止める。
(ぐ……ッ! よ、容赦ねえな……!)
全身に圧し掛かった重みと衝撃は、予想外だった。
見た目はどれほど美しくとも、やはり魔物だ。まして、目の前にいる真紅の鳥は、群れを統べる頭目。赤い羽毛に包まれた両脚は、人間くらい容易く引き千切るだろう膂力に溢れている。
下手したら、本気で殺される。
グレンは歯を食いしばり、潰されないよう全身で踏ん張った。
「――何が、目的だ」
女王が、不意にそう呟いた。
「何が……ッ?! ッぐ!?」
ズン、と双肩に掛かる重みが増した。
「二の娘を人間の町へ連れて行き、傷を癒したのは何故だ。回復したにもかかわらず、未だ傍らに置く理由は何だ。魔物を縛り付ける“契約”を使わず、一体何を企んでいる」
「何も、企んじゃいない……!」
「ほう、ならば、これから何をさせようとしている? 何をするつもりで、人間のもとに置く? よりにもよって冒険者などという、貪欲な血狂い共が、何故!!」
美しい唇から放たれる殺気立った怒声に、グレンは一瞬動揺してしまった。
それを見透かしたように、女王は蔑みに満ちた歪んだ笑みを口元に乗せた。
「二の娘は確かに救われた。だが、それとこれとは、また別の話。私の娘に、何をするつもりだ。手懐けて、あの子の羽根を毟り取るつもりか。それとも、あの子の肉を切り分けるのか」
「そんな事、絶対に誰もしない!」
「――人間とは、そういう生き物ではないか」
激しい倦厭に満ちた声が、突如、抑揚のない声へと変わった。
「私達がどう言葉を尽くそうと、掟を外れて心を砕こうと、最後は結局――何の意味も、無いではないか」
感情を押し殺した、平らで冷淡な声音。けれどその節々から、目の前でそれを見たような、生々しさが滲んでいる。
視界に映ってしまった女王の面持ちに、グレンはハッと息を飲む。
躊躇いから生まれた隙を、女王はけして見逃さず、両足を渾身の力で突き出した。
姿勢を崩したグレンは、背中から地面に倒れる。起き上がる猶予も与えず、すかさず女王はその身体に覆い被さった。
両腕をそれぞれ地面に縫い付ける鳥の爪は、強固に身動ぎを奪う。けれど、そんな状況も忘れ、グレンは呆然と見上げていた。
そこにあった女王の面持ちに、目が、離せなかった。
「――群れから離れようと、私のもとから巣立とうと、二の娘は可愛い我が子。二番目に殻を破り、可愛らしい鳴き声を上げた、大切な雛だ」
あの子にどうか、酷い事はしないでおくれ。
“ハーピー”の血肉が欲しいというのならば、私を切り刻んで構わないから――。
豊かな睫毛が影を落とす赤い瞳に、涙が溢れる。それは頬を滑り、顎へと伝い、やがて仰向けに倒れるグレンへとこぼれた。
それまであった群れの女王たる毅然とした勇ましさは、今はない。グレンの前に居るのは、我が子を想う母親の儚い姿だった。
遠い昔に家族を失い、引き取られた先の親戚には邪見にされ、まともな暮らしなど出来なかった幼少期は今も覚えている。
けれど、両親の姿は、もう思い出せない。孤児院の院長は親として慕っていても、まして血の繋がった母親なんてものは――。
俺の母親も、こんな風に泣いてくれた事は、あったのだろうか。
そんな他愛ない疑問は、今更知ったところでどうしようもないし、興味もない。
グレンに、血の繋がった身内を語る事は出来ないが、この真紅の女王はけして冷酷ではない。少なくとも、リアを群れから遠ざけたのは悪意があったからではないのだと、ようやく真に理解した。
そして彼女にとって、人間とは、冒険者とは――恐ろしい天敵である、という事も。
「……女王。俺は、リアに……二の娘に求めているようなものは、何もない」
「それを、信じると思うか。魔物達の身体を削り、生み出した装備を身につけるお前の言葉を」
その通りだ。信用しろなどと、軽々しく言える道理はない。
女王が疑っていたように、グレンもまた彼女を疑い続けていたのだ。
信用して貰えるよう尽くさなければならないのは――グレンの方である。
「俺は、何か誇れる地位があるわけじゃない。魔物を殺した事だって、何回もある」
「……」
「信用は、そう簡単にはしてもらえないだろうな。だけど、それでも」
女王の濡れた赤い瞳を逸らさず、真っ直ぐと見上げる。
「あんたに誓う。あんたの大切な二の娘を、傷つけたりしない。傷つけるものを、近寄らせたりしない。絶対に」
「口先だけならば、容易いだろう」
「もし俺がそれを違えた時は、あんたが俺を殺せばいい」
猜疑に満ちたかんばせが、ぴくりと動く。
「リアにも、とっくにそう言ってある。まあ、正直死にたくはないから、そうならないよう頑張るよ」
女王は、何も言わなかった。黙したまま、じっと、グレンを見下ろす。その瞳に、僅かな恐怖と虚偽が無いか、探るように。じっとりと汗が滲むのを、グレンは自覚した。
再び、静寂が辺りに舞い降りる。夜風が過ぎ去り、グレンと女王を、静かに撫でていく。
どれほどそうしていたのか分からないが――沈黙を守っていた女王が、ゆっくりと動き出した。
縫い付けられていたグレンの両腕の上から、鋭い爪の生えた足を退かし、その拘束を解いた。
「……魔物の目を見て、そんな風に話す人間は、お前で二番目だ」
だから二の娘は特にお前へ懐いているのか、と女王は寂しそうに微笑んだ。
「いつまでも灰色の可愛い雛は、私達のもとではなく、お前達のもとで成鳥の証であるあの白い羽根を手に入れた。もう私の庇護など必要なく、立派にやっている。私では叶わなかった、人間達の住み処に受け入れられて。嬉しい反面、寂しいものだな……」
――ああ、やっぱり。
グレンの中に、確信がそっと落ちた。
「……女王、あんたは」
「ん?」
「……人間の言葉を、どうやって覚えた。いや――誰から教わったんだ」
グレンは、敢えて問いかけていた。
「あんたの口調は、そこらの村人のもんじゃない。そんな小難しい言葉を使うなんて、教えた人間はよっぽど語彙と学識のあるやつなんだろうな」
「……」
「女王。あんた、もしかして……――」
「少し気を抜き過ぎではないかな、人間」
言いかけた言葉を遮ると、女王はおもむろにグレンの腹部へ腰を下ろした。
羽毛に覆われた両脚がグレンの脇を挟み、尾羽が優雅に広げられる。唐突にもたらされる女の柔らかさと、羽毛の温もりに、グレンはぎょっとなった。だが、女王はそれを意にも介さず、艶やかに声を奏でる。
「人の言葉を扱おうと、私は魔物。そこに僅かな疑いなどない。危機感を持て、私は二の娘とは違い躊躇いなくお前の喉笛を噛み切るぞ。それとも――かどわかされ、身も精も生きたまま貪られるのが望みか」
先ほどまでの儚さが嘘のように、実に女王らしい、艶のある笑みを浮かべる。
ゆっくりと上体が倒れ、女王の肢体がグレンへとしな垂れる。押し付けられた豊満な二つの膨らみは、防具などのおかげで感触こそ曖昧ではあるけれど、重みや温もりなどはぴったりと折り重なる女王から嫌でも伝わってくる。
下半身は鳥だが、上半身が美女だという事を、こんなに恨めしく思った事はない。
迫り来る女王の、凄まじく妖しい迫力から逃れるべく、グレンは彼女の両肩をぐっと掴み、力の限り押し退けた。
「止してくれ。あんたの顔は、心臓に悪いんだ」
「おや? 人間の雄は、私達の顔をよく好むと記憶しているが」
女王は、にんまりと唇を吊り上げながら、さも理解できないといった風に首を傾ける。
恐らくこの女王は、自身の美貌を理解し、またそれが人間の男性に特効があるとよく知っている。まったく、余計にタチが悪い。
内心で悪態をついたが、グレンの心臓は情けなく飛び跳ねていた。
リアも、いつかこうなるのだろうか。今はまだ十五歳程度の少女の幼い顔付きだが、成長しもっと大きくなったら、この女王のように……。
嫌だなあ……あの純真無垢なままでいて欲しい……。
グレンは溜め息をこぼし、項垂れた。それを面白そうに見つめる女王は、ふと、声の調子を変えて呟いた。
「……なるほど。お前は、私の知る冒険者とは、随分と違うらしい。お前にだったら……二の娘を預けていても、良いのかもしれないな」
独り言のように告げられた言葉に、グレンは一瞬反応が遅れた。数拍遅れで、勢いよく顔を起こし、女王へと視線を向ける。
女王は形の良い眉と唇を、面白く無さそうに曲げ、つんと顔を背けていた。
それが不意にリアを想起させ、グレンの口元がふっと緩む。じとりと女王にねめつけられたため、すぐにその表情を隠したけれど。
やがて、女王はその場から立ち上がり、グレンを見下ろした。
銀砂のような星と、美しい満月を背にした佇まいは、群れの長である毅然とした迫力を放っていたが――静けさに染まったその面持ちは、リアにとても似ていると、ふと気付いた。
リアがもっと大人になれば――きっと女王のように、美しさに凄みが出るのだろうな。
今はまだ、知らない事が多く、好奇心が強い天真爛漫な少女そのものだが、きっといつか女王の娘の風格も出るのだろう――。
「……冒険者、最後に、一つだけ聞かせろ」
「何だ」
「何故、二の娘を、リアと呼ぶ」
その問いかけに、グレンは照れ隠しに笑いながら、ありのままに答えた。
「それは……その、あいつと初めて会った場所が、セルネリアっていう花が咲いてるとこだったんだ」
「セルネリア……」
「月夜にだけ咲く白い花でさ、その名前をもじって」
女王は、長い睫毛をそっと下げ、瞑目した。
そうか、と小さく囁いた声は、夜風の中へと薄れていく。懐かしむように、あるいは、切なさを思い出すように――。
◆◇◆
グレンが野営地に戻った時、リア達は変わらず、深く眠っていた。寝る間際まで緊張していたセリーナは、鳶色や金色、桃色、純白の羽根に埋没しながらも、なかなかぐっすりと眠っているようだった。
大丈夫だったかと案じてくれていた仲間に礼を言い、彼らと番を交代した。絶やさないよう枯れ木を投げ入れる焚き火の明かりを、グレンはじっと見つめる。
女王は、共に戻らなかった。
グレンを野営地に導くと、再び暗闇の中へ消えてしまったのだ。
――山岳の麓には、小さな農村が存在している。
その村と懇意にしていた名も知らぬ学者が、数年前、真紅のハーピーに喰われ亡くなった。
それ以降、ハーピーは“凶鳥”と呼ばれ、恐れられるようになった。
本当にそうなのかと、女王に尋ねる事は出来なかった。
(だけど本当は、そうじゃないとしたら……――)
流暢な言葉を学者から教えられ、最後はその学者を貪り喰った、“凶鳥”である女王。
切なそうに瞼を伏せた彼女の横顔が、グレンの脳裏に焼き付いている。




