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2018.09.20 更新:2/2
そういえば、グレンと出会ったのは、ちょうどこんな時だった。
追い立てられるように暗い森を逃げ惑い、抜け出したその先に広がった、月夜の蒼い草原。ボロボロになった身体には、それはあまりにも美しくて、最初で最期の冒険が出来たと思ったのだ。
でも、まだ、終わってない。私の“冒険”は、終わっていなかった。
今度は、私が見つける番だよ――グレン。
久しく飛んでいなかったせいで、翼は少々ぎこちなかったけれど、町を離れる頃には以前の感覚を取り戻した。
しかし、嬉しいという感覚は、あまりない。早く行かなければと、逸る思いが増すだけだ。
(グレンのところに連れていって。お願い!)
首に着けてもらったチョーカーの形をした魔道具は、淡い光を灯し、細い光の筋となって行き先を示している。私には使い方なんて分からないから、先ほど、ダーナが何かしら仕込んでくれたのだろう。
月明かりが照らす夜の闇の中を、光の筋を道標にして進む。やがて遠くに、いくつもの灯りを見つけた。それに、絶えず空気を震わす、争い合う騒音も夜風から伝わる。誰かの叫び声と、咆哮とも慟哭とも取れない鳴き声もだ。
私が向かう場所は、きっと恐ろしい光景が広がっているだろう。ここからでも、分かるのだ。黒く汚れた魔物に感じた、あの近付いてはならない本能的な恐怖が、先ほどから全身に響いている。セリーナたちが言う“さいがいきゅう”というのがどういう存在か分からないが、きっとこの先にいるのは……あの魔物と比べられない、おぞましい存在に違いない。
翼を羽ばたかせながら、全身が震える。近付いてはならない、逃げなくてはならないと、訴えている。でもそんな場所にグレンがいると思うと――翼を止める事は出来なかった。
グレンに拾われたあの日以来、久しくやって来た森にほど近い、草原の真上へ辿り着いた。
空を飛びながら、私は、言葉を失う。
篝火に照らされる眼下では、大勢の冒険者が行き交い、慌ただしく駆け回っているだけでなく、至るところに怪我を負った人が横たわっている。風に乗って届くこの錆びた臭いは、彼らから流れ出る命の臭いなのか。
(グレンは、どこ)
首のチョーカーは、この下を示してはいない。目の前を、真っ直ぐと伸びている。
グレンはまだ、戦って――。
その時、不気味な咆哮が、辺り一面に響き渡った。
獣の鳴き声でも、鳥の囀りでもない、音程の異なる音色をいくつも重ね合わせたような、耳障りな音だった。
かつて耳にした事のないそれに、全身が竦み上がる。思わず顔を上げ、篝火の遙か先へと眼差しを向ける。
(……なに、あれ)
月明かりに照らされ、浮かび上がるその輪郭は、最初、大樹だと思った。大きな大きな、立派な大樹だと。
けれど、違う。
動いているのだ――自ら。
森を形作るどの木々よりも太く巨大な、大地に聳え立つ巨木。太い幹と幾重に伸びる枝葉は、悠久を生きた古木のよう。しかし、今が夜だとしても、あまりにも黒い。月明かりを受けてもなお、その輪郭は夥しい黒色で染め上げられていた。
その上、枯れ果てた茂みを蠢かし、幾重にも張り巡らした根で大地を抉りながら、あろう事か自走しているのだ。
夜空に真っ直ぐと伸びる太い幹に、赤い瞳が浮かんでいる。ギョロギョロとしきりに蠢くそれは、足元に群がる小さな生き物を嘲笑うように歪んだ。
あれが、魔物たちも飲み込んで壊すという、毒の魔力の害獣。
大きい。あまりにも、大きすぎる。あれほど大きいと、お母様でも立ち向かえるかどうか分からない。あんなものと、人間たちは戦おうとしているのか――。
そこまで考えた時、ハッと意識を戻した。
(グレン!)
巨大な大樹の姿をした害獣の足元に――探していた、彼が居た。
自らよりも遥かに巨大な大樹に立ち向かい、果敢にも長剣を振るっている。蠢く根を少しずつ切り崩し、行く手を阻もうとしているが、しかし圧倒的に彼の方が不利だ。ギルドを出発した時にはあれほどたくさんいた冒険者が、今は半数しか戦っていない。それに、グレン自身もかなり消耗し、身なりだってボロボロだ。半ば気力のみで立ち向かっているという事は、私でも理解出来た。
私は、あの時、諦めた。もう十分だと、倒れ伏した。
けれど、グレンはまだ諦めていない。
人間の町を、守るため。私との約束も、守るため――。
その時、大樹の根が、ゆっくりと持ち上がった。夜空高くに掲げられるのを見て、私は反射的に急降下し、グレンのもとへと向かっていた。
それとほぼ同時に、太い根が鞭のようにしなり、グレンの頭上から振り下ろされた。
大気が重く唸り声を上げ、地面ごと叩き割ろうと彼を狙う。その長大な影で圧し潰されてしまう直前に――真横から彼の身体に突進し、間一髪でその場から飛び退いた。
横から突き飛ばすような形になってしまったが、振り下ろされた根は空振り、誰もいない大地を叩き割った。
しかしグレンを助ける事には成功したものの、私の勢いが良すぎたせいで上手く止まれず、草原の上を一緒になって転げ回ってしまった。
「ぐぼァッ?! い、つつ……ッ何が……」
「ルウッ!」
ふらつきながら身体を起こしたグレンは、頭を懸命に振っている。大丈夫かと覗き込むと、しきりに瞬きを繰り返していた両目が、ゆっくりと私を認める。その途端、彼の目はカッと大きく瞠目し、傷だらけの顔に驚愕を張り付けた。
「リア?! 何でここにいる?!」
「ルッルウ……」
「馬鹿野郎、どうして来た!!」
初めて聞いた、グレンの怒号。その大音声に、身体が飛び跳ねる。
今まで彼は、朗らかに笑う事が多かった。怒っている姿を見たのは、うっかり裏路地に迷い込んでしまった私が悪い冒険者に捕まりそうになった時くらいだろう。あの時もとても怒っていたけれど……今の彼は、それ以上だ。
思わぬ声を浴びせられ怯んでしまったが、キッと瞳を鋭くし、グレンを睨み返す。こっちは心配して来たんだ、そんな風に大きな声を出さなくても良いじゃないか。
「ッ! やば……!」
グレンはハッと表情を変え、私を両腕で抱き込んだ。
――その直後、視界の片隅でしなった大樹の根が、私たちをなぎ払った。
真横から打ち据えられ、グレンの身体はその場から大きく吹き飛ばされる。草原の上を、何度も跳ね、上下の感覚など分からなくなるくらいに激しく転がってゆく。
それでも、グレンはけして私の身体を離さず、守るように腕の中に抱きかかえていた。
そのおかげで、私に怪我らしい怪我は無かったが――その分、グレンの身体は痛めつけられてしまった。彼の身体は、既にもう戦い続けてボロボロだというのに。
「ルッ! ルウ! ルゥー!!」
転がっていた身体が止まると同時に、慌てて彼の腕から抜け出す。横向きになった彼の身体をぐいっと押し、仰向けに直すと、大きな肩を翼で揺する。
「ゴホッゴホッ……何で、お前が、ここにいるんだ……」
顰めた両目が、私の首筋を見上げる。そこにあるチョーカーに気付くと、自身の腕輪を見つめ、小さく声をこぼした。
「あー……セリーナが、着けやがったか。預けた意味がないな、これじゃあ……」
違うよ。セリーナは一生懸命、止めてくれたよ。私が、自分の意思を押し通しただけ。
「違うって? まあ、来ちまったもんは同じだしな……」
呻きながら、グレンは上体を起こす。その動作はいつになく緩慢で、相当無理をしているという事は嫌でも分かった。彼を支えようと翼を伸ばすと、その瞬間、大きな手のひらが私の肩を勢いよく掴む。
「……リア、お前は、早くここから逃げろ」
「ルッ?!」
「何を思って来たか分かんねえけど、あれを見ろ」
グレンの目が、害獣を示した。
悠久の時代を生きたような古い大樹の姿を宿した、巨大な害獣。夥しい黒色に染まったそれは、幾つもの長大な根を蠢かせ、必死に止めようとする冒険者たちを嘲笑っている。
「数十年分の、溜まりに溜まった毒の魔力から産み落とされたあれは、食い止めるだけで今は手一杯。討伐するにゃ、道具も戦力も足りてない。道具は、これから来るとして……戦力の方は……」
グレンは肩を落とし、力なく笑った。そのらしくない弱々しさに、私の胸が苦しいくらい締め付けられる。
「増援が来るまで、持つかどうかも分からない。もっとも……それしかねえんだけどな」
「ルッ! ルウッ!」
だったら逃げよう、グレンも。
灰色の翼で彼の腕を挟み、ぐいぐいと引っ張る。しかし、グレンはまったく動かず、首を振る。
「俺は行けないよ。あいつらを見捨てるほど薄情じゃないし、それに……身体張るって決めたんだ。最期まで、貫かないと」
「ルッ! ルゥウッ!」
「お前は逃げろ。聞き分けるんだ、リア」
「ウウ……ッビャア!」
嫌! グレンの言う事なんか絶対に聞かない! 私は、ケイヤクジュウじゃないもん!
ぶんぶんと、灰色の髪を振り乱し、首を何度も振る。絶対に離れまいと、彼の腕にしがみつく。
グレンは小さく舌打ちをすると、再び声を荒げた。
「わがまま言うな! お前がここに来て、何が出来るって言うんだ!」
ぐっと声を飲み込み、押し黙る。
……グレンの、言う通りなのだ。何の準備もせず勢いのまま来た私に、出来る事なんか本当は一つもない。最初から、何処にもないのだ。
それでも、やってみなきゃ、わからない事だってあるだろう。
私がそう反論しようとすると、グレンは。
「――少しでも、天敵の人間の事を想ってくれるなら、逃げてくれ」
腕を持ち上げ、私の頭を胸に抱え込む。
「最初の約束を、守らせてくれ。俺みたいな、半端もんの冒険者にだって、少しは良い格好させてくれよ」
死地と化した草原に、老いた大樹の狂える咆哮が響き渡る。
生き物でもない、魔物でもない、営みの中から大きく外れたものが、狂気を振りまきながら嗤っている。
役立たずで、何の力も持たない、挙げ句の果てが成長する時期がきても大人になれない、いつまで経っても落ちこぼれな灰色の雛鳥。
戦いの中心で、思う事ではないかもしれないが――私を拾ったのが、いや、助けてくれたのが、グレンであってつくづく良かった。
それでも、私がここにいるのは、守られるためではない。
守って欲しくて、ずっと、天敵の住処にいたわけではない。
グレンの腕から、そっと抜け出す。逃げてくれと懇願する彼の瞳を見上げながら、唇を開く。
「ル、ウ、ウー……ゥ、ウリュ……ッ」
「リア……?」
お願い、今くらい、一度で良いから成功して。
「ウ、ゥ……ッウレン!」
喉と舌を、もごもごと必死に動かし、彼らの“言葉”を紡ぐ。
「ゥゥ、オ、オン、オンギャ、エシ!」
――グレン、恩返し
言えたのは、たったそれだけ。それっぽっちの言葉を話すのさえ、灰色の雛では難しいらしい。
上手く喋れたかどうか、かなり怪しいが――目の前のグレンの表情を見る限り、どうやら、理解してもらえたようだ。
グレンのごつごつした顔が、泣き出しそうに、くしゃくしゃに歪んでいる。溢れるような感情は、きっと、悲しみではない。
何とか伝えようとして、でも惨敗していた人間の言葉。一度として通じなかったものを、この瞬間ようやく交わせて、私は大満足だった。
「リア……ッ」
グレンの大きな手のひらが、ゆっくりと伸ばされる。広げられたそこにコツリと頭を押しつけてから、ぐっと身体を伸ばし、土埃で汚れた彼の額に唇を押し当てる。
驚いた面持ちを浮かべるグレンに微笑んだ後、腕をすり抜け、側を離れる。灰色の小さな翼を広げ、夜空に再び飛び立った。
「リア――!!」
グレンの叫びは、あっという間に小さく遠ざかった。
戦う冒険者たちの頭上を通り過ぎ、古い大樹の姿を宿した害獣のもとへ向かう。
人間から見ても遙かに巨大なのに、小さな私からすれば、その存在感は途方も無い。私のような灰色の雛が、太刀打ち出来るはずがない。
けれど、不思議と、怖くもなかった。逃げなければならないと本能的に怯えていた身体から、いつの間にか震えが消えていた。本当は、逃げ出した方がずっと良いし、そもそも魔物の私に、天敵の人間を気遣う道理なんか何処にもない。立ち向かう事の方が、多くの魔物が思うように、間違っているのだろう。
だとしても――私には、逃げ出す事が出来なかった。
役立たずの雛であっても、何かの時間稼ぎや、ちょっとくらいは囮になれるはずだ。かつて群れの仲間や自慢の家族が、そうして群れを守っていたように、私だって何か一つくらい役に立てる事があるはず。彼らの役に、立たなければ。
(――今まで、こんなに強く、望んだ事はなかった)
叶う事はないのだと、とうの昔に諦めた願いが、私の中で激しく疼いた。
鳶色の、勇ましい一の姉様。
金色の、目映い三の妹。
薄桃色の、朗らかで可愛い四の妹。
そして、紅色の羽根を持つ、偉大な女王――この世界で一番尊敬するお母様。
私も、貴女たちの家族なら、同じ力を。
大切な住処と群れを守る“女王”の力を、私にも――!