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2018.08.04 更新:2/2
――北の森から発生したと思しき、黒い魔物を発見し、討伐した。
グレンと冒険者たちが急ぎ持ち帰ったその報せは、ギルドだけでなく町中にも広まった。和やかな空気は瞬く間に緊張でひりつき、至る所で囁かれる声には強い不安感が含まれるようになった。
報せを受けたギルドは、すぐさま所属する調査員をグレンたちの案内のもと向かわせ、事態の把握に急いだ。そして、ギルドに帰還した彼らは、重々しく告げた。
件の魔物は、毒の魔力に侵された“害獣”であると確信した。北の森の何処かで、毒の魔力が発生している、と――。
賑やかな笑い声が絶えなかったギルドを、圧し掛かるような重い緊張が支配している。グレンやセリーナ、ダーナはもちろん、いつも声を掛けてくれる冒険者も、気に掛けて構ってくれるギルド職員も、誰もがその表情を苦く歪めている。
こんな空気は、ここにやって来てから初めてだ。大変な事が起きているのだと、さすがの私でも理解できる。
不安に駆られ、グレンの足を灰色の翼で挟む。彼は顔を下げると、私の頭に手のひらを撫でるように置いた。大丈夫だと言ってくれているのだと思うが……私の中の恐れは増すばかりだ。
「けど、毒の魔力が発生してるにしても、規模とか度合いとかが分からねえと対策のしようもないな」
「森に向かわせた索敵と観測に特化した調査員と冒険者は、じきに戻ってくると思いますが……準備と心構えだけは、先にしていないといけませんね」
これから何が起きるのか、ギルド内に居るひとは皆すでに見越しているように、各自で装備の点検をしている。グレンも装備を入念に確認しているし、セリーナも慌ただしく同じギルド職員と話し合いを繰り返している。
さすがに邪魔になるだろうと、ホールの隅へ移動した時、ダーナが傍らへやって来た。
「リアちゃん、大丈夫?」
「ルウ……」
ダーナはたおやかな微笑を浮かべ、そっと私を抱き上げた。宙に腰掛けた彼女の膝に、私の身体がちょこんと乗せられる。目線が高く持ち上がり、緊張に包まれるギルドのホールの風景が私の目にも十二分に広がった。
「毒の魔力が発生したのよ、この町の北に広がっている大きな森でね。たぶん、リアちゃんが通ってやって来た場所だわ」
「ルウ?」
「前、寝物語にお話した事、覚えてるかしら」
世界を巡る魔力は、多くの動植物の力となり、営みを支える大切な要素である。
しかし、何処かでその流れを塞き止められた魔力は濁ってしまい、やがては猛毒の性質に変化し、自然界を蝕み――人も、獣も、魔物も関係なく呑み込んでしまう。
そして、猛毒の魔力に取り込まれたものは“害獣”と呼ばれる危険な存在となり、世界を荒す。
毒の魔力が尽き果てるまで。あるいは、全て浄化されるまで――。
もちろん、覚えている。強大な力を持つ緑の高位精霊であるダーナが、そもそも人間たちの中で暮らしているのは、その毒の魔力と害獣の危険を遠ざけるためであった、という事も。
「それでね、北にあるその大きな森は、昔からよく害獣が発生してきたの。あそこは精霊が居ないから、もともとそうなりやすい環境なんだわ」
この辺り一帯は、人も魔物も過ごしやすい長閑な丘陵地帯だが――魔力溜まりの発生確率が格段に高く、害獣も多数産み落とされてきた。
大昔から、精霊を寄せ付けない北の森が、その要因とされてきた。
世界を満たす魔力が、全て生き物の力になるとは限らない。永久に濁らず清らかなままで在り続けるなんて事は、残念ながらけしてない。
誰のせいでもなく、いつか必ず起こり得る自然界の脅威を、受け入れて立ち向かうだけなのだ。この土地を生きた遠い昔の人々がそうであったように、これから先もそうなのである。
「――ただ、ここ数十年は何も起きなかったから、気になるわね。毒の魔力は、歳月の分だけ強くなる。もしそうだったら、その矢面に立たなければならないのは……」
その時、ホール中に「戻ってきたぞ!」という言葉が、大音声で響き渡った。
冒険者たちの目が、一斉に入り口へと向かう。私とダーナも話すのを中断し顔を向けた。
北の森を調べに向かった冒険者とギルド職員が、息を切らしながらホールへ踏み入れる。汗水を滴らせる彼らの顔には、疲れだけではない険しさが色濃くあるように思えた。
「毒の魔力の発生源は突き止めた。やはり、北の森で間違いない。だが……」
躊躇するように、彼は僅かに声を噤んだ。
「場所までは、突き止められなかった」
「どういう事だよ」
「……入るまでもなく、森中に漂っていた。何処にあるとか、どれほどの規模とか、もうそういう次元じゃない。どんな強力な害獣が産み落とされても、おかしくはないぞ」
「……浄化は? 今から向かわせれば、もしかしたら」
「いや、間に合わない。それよりも産み落とされる方が早いだろう。早く準備をしないと、押し寄せるぞ」
――毒の魔力に汚染された、あるいは、産み落とされた害獣が。
空気が一瞬静まり返った、その直後、ざわつきが波紋のように広がる。表情を歪める冒険者たちの姿が、最悪な事態になろうとしている事を表しているように見えた。
「――静まれ!!」
放たれた低い声が、狼狽に満ちた空気を一喝した。
冒険者たちの前に、壮年の男性が進み出る。誰かが「ギルド長」と囁き、眼差しの全てがその人物に向かった。
「状況は分かった。危険な状況にある森に、よく調べに行ってくれたな。まずはよく休んでくれ」
偵察に出た冒険者たちの肩を叩き労うと、すぐに身体を向き直らせた。ホールに居る全ての者たちを見渡し、少しの呼吸を挟んだ後――大きく、息を吸い込んだ。
「ギルド統括者の権限により、現時刻をもって害獣の緊急討伐命令を出す! 全ての依頼発注は停止、全冒険者と全職員は迎撃準備に入れ!」
空気が、変わった。それまでの危うげなざわめきが消え去り、居合わせた人の全ての面持ちが鋭く引き締まった。
「場所は北の森。知っての通り、ダーナ殿の守護が届かぬあの森は、昔から毒の魔力が発生しやすく、また害獣の被害に何度も遭遇してきた。ここ数十年、害獣の確認はされてこなかったのは確かだが、だからどうした。我らのやる事は変わらん。何が何でもこの町を、住民たちを守り抜き、害獣を討伐。その後、魔力溜まりを浄化する。
――全員、気合いを入れろ。一匹たりとも、産み落とされる害獣を、この町に近付けるな!」
鼓舞するような宣言に、冒険者たちは腕を上げ、あるいは硬く拳を握り、戦意を表す。私にまで、その熱狂が伝わってくるほどだ。
訪れた危機を退けるべく戦う――ハーピーたちにも、避けられぬ闘争はあった。これはつまり、そういう事なのだろう。
けれど私は、奮い立つ彼らを見下ろしながら、言い表せない不安を噛み締めていた。勇ましい姿ではあるが、何故だろう、その面持ちはただ戦うのではない、別のものを覚悟したような重みを感じてならなかった。
そしてその中には――グレンの姿もあるのだ。
◆◇◆
「ル! ルウー!」
慌ただしく駆け回る冒険者やギルド職員の間をすり抜け、グレンのもとへ向かう。
彼は私の姿を認めると「どうした」なんて暢気に笑う。どうしたじゃない、それを聞きたいのはむしろ私の方だ。
「ル、ル!」
「ごめんな、今は構ってやれねえんだ。俺も、すぐに外へ行かないと」
「ルゥゥー!!」
肩を掴まれ抑えられたが、構わずにぐいぐいと前にのめる。グレンは僅かな驚きを浮かべ、私を見下ろした。
私だって、そこまで馬鹿じゃない。草原で見たあの真っ黒な魔物と、彼を含めた冒険者たちはこれから戦おうとしているのだろう。
私が言いたいのは、そこじゃない。そんな事じゃない。
いつ、戻ってくるの? ちゃんと、戻ってくるんでしょ?
ルウルウと、言葉には到底なりえない鳴き声で、何度も問いかける。彼は困ったように笑うと、ゆっくり口を開いた。
「なんだ、心配してくれてるのか」
「ビャアッ!」
もう、そんな風に笑って誤魔化さないでよ! 思わず怒った声が飛び出したが、彼の笑みは変わらなかった。
「……魔物の輪から外れて、生き物の中にも入れない、害獣を止めてこなきゃならなくなった。冒険者っていう、戦える奴の宿命だよな。こればっかりは仕方ねえや」
私も、と告げようとした瞬間、グレンは私を唐突に抱き上げた。激しく身動ぎする私をものともせず、彼はずんずんと進み、受付カウンターへ向かう。忙しそうに動き回るセリーナを呼ぶと、彼は私をセリーナの腕に移動させた。
「お前は、セリーナとダーナたちが居るここで、大人しくしていろよ」
「ル?!」
「ああ、それと……」
不意に、グレンの両目が、私の首を見つめた。正しくは、首に着けられたチョーカーである。嫌な予感がして、翼で首元を隠してみたが、あっさりと退けられてしまう。
グレンは無言のまま、私の首筋に指を伸ばすと――チョーカーを取り外してしまった。
彼が装着している、揃いの腕輪へ居場所を伝えるという、特別なチョーカーが。
「これは……外しておこうな。セリーナ、お前が預かっていてくれ」
「グレンさん……」
「リアを頼むな」
セリーナの凜々しい青い瞳が、悲しげに揺れる。それがどういう意味を持つのか、彼女はもう理解しているようだった。
私の胸に巣くう不安が、さらに深まる。心臓が、ドッドッと、激しく音を立てていた。
「ルウ! ルウ!」
「――リア」
がしりと、彼の手が私の肩を掴む。その力があまりにも強くて、私はさらに恐怖した。
「お前の事は、セリーナに任せてある。ダーナにもだ。この討伐戦が終わったら……騒動が収まったら、すぐに、外の世界に帰れるからな」
何を言ってるの。外の世界なんて、いきなり。
「大丈夫、空だって、すぐに飛べるさ。俺がいなくても、ちゃんと、身体に気を付けるんだぞ」
止めてよ、何を言ってるの。
私が飛ぶとこ、見せてあげるから。
私の羽が何色になるか、気にしてたじゃない。
だから、ねえ、そんな――これっきりで、戻ってこないみたいな、言い方。
「ビャア! ビャアァァ!」
「――あのな、リア」
みっともないふくれっ面をしているだろう私を、彼の手が撫でる。いつもよりも、ずっと優しく、灰色の髪を梳いた。
「俺たちの事を信用してくれて、ありがとう」
「ビャ……」
「あと、天敵の人間を知りたいと思ってくれて、ありがとう」
それと――。
「誰も気にも留めない、ありふれたつまんねえ身の上話に泣いてくれて……ありがとな」
癇癪を起こしたような鳴き声が、ぴたりと、止まってしまう。目の前で笑うグレンには、私が何を言おうと揺るがない、決然とした覚悟がはっきりと浮かんでいた。
「さて、行ってくるか。リア――元気でな」
それは、何処かで見た事のある顔だった。
ああ、そうだ。あれは、まだ群れにいた頃。深い傷を負い、まともに飛べなくなってしまって、それでもなお外敵に立ち向かい守ろうとする――壮絶な覚悟を決めた、仲間の顔と同じなのだ。
追いすがり伸ばした灰色の翼を、グレンは優しく避ける。けして目を合わす事なく、彼は私に背中を向けてしまった。喉を傷めるまで、行かないでと、何度も叫んだのに――。




