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2018.06.17 更新:1/1
その日、私は新しい発見と遭遇した。
連日、たくさんの冒険者たちが出入りし、依頼を受けたりあるいはその報告をしたりと賑わっているギルドだが――そこになんと、小さな人間の子どもたちがやって来たのだ。
「こんにちは! 薬草集めの依頼を終えてきました!」
「お願いします!」
「はい、お疲れ様です。こちらにどうぞ」
柔らかい微笑みを浮かべるセリーナに導かれ、子どもたちは受付カウンターの片隅へと移動してゆく。その小さな後ろ姿を、私はまじまじと目で追いかけた。
ギルドで過ごすようになって、どれほどだろう。もう何日も経過しているところだが、この建物の中で人間の子どもを見るのは初めてだ。
背格好は、私とそう変わらない。頭の位置は、セリーナのしなやかな腰の高さと同じか、あるいは少し高い程度の身の丈で、手足も小さく全体的にあどけない雰囲気だ。ただ、私たちハーピーは、雛の間は誰しも同じ灰色だが、人間の子どもはそれぞれ髪色や肌の色が異なっている。幼いうちからはっきりと色の違いが現れるようで、不思議に感じた。
「リア、何を見てるんだ?」
「ル、ル!」
背面に立ったグレンに、子どもたちを翼で示す。彼はああと頷き、私に言った。
「あの子達は、孤児院の子どもだ。たまにお使いの依頼を受けて、小遣い稼ぎをしているんだ」
こじいん? こづかい? 初めて耳にする単語に、首を傾げる。
「孤児院っていうのは、色んな理由で一人きりになった子どもが集まる場所だ。町と、町に構えるギルドは、ここの孤児院を気に掛けていてな、お手伝いの依頼っていう名目で支援してるんだ」
ちょっとした小遣い稼ぎと、子ども達の社会勉強にもなる。グレンはそう言ったけれど、私が気になったのは、色んな理由で一人きりになった子どもというところだった。
人間は、こんなにたくさん集まり、町という大掛かりな巣を作っているのに、子どもを一人きりにするのか――。
私たちの感覚で言うと、世話がまだ必要な段階の灰色の雛を、親鳥が放り投げるという事だろう。私の場合は仕方ないとしても……雛をひとりぼっちにさせるなんて、何か差し迫った理由でもあるのか。こんなに大きな住み処なら、たくさん子どもがいたって、何の不都合もないだろうに。
『人間と魔物たちの感覚は、ずいぶん違うからな。大切な子孫を、軽々と投げ捨てられるらしい』
『人間の子も、時に自ら逃げ出すと言う。つくづく妙な生き物だな、人間とは』
そんな風に呟いたのは、ホールの片隅で寛ぐ魔物たち――人間と繋がり彼らの中で暮らしているもの――だった。もちろんグレンたちに、その言葉は聞こえていないが。
「兄ちゃん!」
「グレンのお兄ちゃん、こんにちは!」
私が考え込んでいるうちに、カウンターに居た子どもたちが、グレンのもとへと駆け寄ってきた。知り合いだったらしく、彼の足下に集まると一様に無邪気に笑う。
「おう、薬草集めの仕事をしてきたのか。危険な事はなかったか」
「うん。緑の精霊様が守ってる森だし、いつも探しに行ってる場所だから大丈夫」
「そうか、良かった。でも注意すんだぞ、何があるか分からないんだからな」
「それでもしも気になる事があったらすぐに連絡、でしょ? 大丈夫だよ、ちゃんと覚えてるから」
「兄ちゃんからいっつも耳にタコが出来るかってくらい言われてるもんなあ」
すると子どもたちの目が、唐突に私へ向いた。
「兄ちゃんの後ろに居るのって、みんなが言ってる、ハーピーの子ども?」
「ん、ああ、リアって言って……リア、俺の足の後ろに張り付いてないで、顔くらい見せてやれよ」
ぎくりと、肩を揺らす。
そんな風に言われたって、今までは大きな人間ばかりだったから、逆にドキドキするんだもの。
「リア? その子の名前?」
「ああ、そうだ。みんなでそう呼んでる。ほら、リア」
太い足の裏側へ反射的に隠れる私に、グレンは膝を揺らして促してくる。仕方なくおずおずと顔を出すと、子どもたちの視線が真正面から真っ直ぐと突き刺さった。目の前に並ぶいくつもの大きな瞳は、興味津々といった風情を浮かべ、無邪気に輝いている。
「わあ、お人形さんみたい……!」
「絵本に出てくる、天使みたい」
てんし? 首を傾げると、子どもたち――とくに女の子が、両側の頬に手のひらを当て「かわいい」と歓声を上げた。男の子たちは面白そうに見つめてくるが、中には困ったように視線をさまよわせる子もいた。
「罪な女だな~リア」
「ルウ……?」
「お喋りできないの?」
「ああ。でも、俺達の言葉は話せないけど、理解はしてるんだ。だから、仲良くしてやってくれよ」
子どもたちは揃って、元気良く「はあい!」と返事をした。
「あッ孤児院に戻らないと! お昼ごはんになっちゃう」
「兄ちゃん、また遊びに来てくれよな!」
子どもたちはそう言うと、手を振りながら走り去って行った。彼らの賑やかな後ろ姿を、ギルドに居た人々は微笑ましそうに見送っている。
「グレンさんは子ども達と仲が良いですね」
「まあ、孤児院には支援品とかよく持って行くしな。最近は顔を出してなかったし……今度また行ってみるよ」
セリーナへ告げるグレンに顔を向ける。今度また行くというのは、その孤児院という場所の事か。
さっきの子たちも、いるのかな。それなら、私も行く! 新しいところ!
グレンの足の裏側から飛び出し、彼の前ですかさず跳ねる。
「なんだ、リアも行きたいのか」
「ル!」
「あら、良いんじゃないですか? 最近は翼の具合も良いと、先生もおっしゃっていましたし。良い遊び相手になるかもしれませんよ」
グレンは少し考えながら、私の前にしゃがんだ。
「うーん、そうだなあ……あそこはけっこう広いし、気分転換になるかな。じゃあ明日、行ってみるか!」
「ルッ!」
◆◇◆
――翌日の昼過ぎ、グレンに連れられて、孤児院なる場所に向かった。
始めは人通りが多く賑やかであったが、進んでゆくにつれて次第にその喧騒は離れてゆき、静けさに包まれる。行き交う人間も多くなく、彼らの住処にもこんな風に静かな場所があるのかと、私は一人驚いていた。
「孤児院はな、町外れにあるんだ。もうちょっとで見えてくるぞ」
グレンの言葉通りに、やがて背の高い塀に囲まれた、大きな建物が見えてきた。身を置いているギルドと比べると、立派な佇まいではあるが、派手さはなく質素で素朴な外観のように思う。そして……子どもたちの幼い笑い声が、塀の向こうから聞こえてきた。
門の前に到着し、グレンはその向こうへ呼びかける。
「おーい、こんにちはー! 誰かいるかー!」
しばらくすると、門の向こうから、子どもたちが駆け寄ってきた。
「あ、グレンじゃん!」
「今日も何か持ってきてくれたのか?」
「開口一番にそれかよ、まったく。院長先生を呼んでくれるか」
「はあーい!」
子どもたちは走り去ると、女性の手を引きながら戻ってきた。グレンやセリーナよりもずっと年上の、穏やかな雰囲気の人だった。その人はグレンを認めると、目元や口元にしわを浮かべ、優しい笑顔を浮かべた。
「グレンさん、お久しぶりですね。よくいらっしゃいました」
「用事が詰まっていたもので、すみません。代わりと言ってはなんですが、手土産を持ってきました」
「まあ! いつもありがとうございます。さあさあ、どうぞ中へ」
「あ、それで、院長先生。実は今日、連れがいて」
グレンと、女性の視線が、私に注いだ。
「ギルドで保護してるハーピーの雛です。何か悪さとかはしませんし、俺がきちんと見てます。だから、こいつも一緒に良いですか」
「あら、とっても綺麗な、可愛い女の子ね。昨日、薬草集めのお仕事をしてきた子達が言っていたのは、この子の事ね」
「知ってましたか」
「帰ってくるなり『天使みたいな子がいた!』って大はしゃぎだったんだもの。もちろん歓迎するわ」
優しい笑顔が向けられ、私はほっとしながら挨拶を返す。
「ここには子ども達がたくさんいるから、少し賑やかだけど、びっくりしないでね。みんな根は良い子だから」
「ルッ!」
昨日の子たちくらいの子どもがたくさん居るんだ。でも大丈夫、私にだって三の妹と四の妹が居るんだもの。
――なんて思ったけど、孤児院という場所は、未知の世界であった。
「ハーピーの雛? すっげえ、灰色のふわふわだ!」
「かわいい~お人形さんみたい!」
「だから言ったじゃない! 天使っぽいって!」
く、口を開ける暇すら、与えてくれない……!
大きな建物――孤児院の横にある広く平らな庭には、現在、二十名ほどの人間の子どもが集まっている。私は彼らに囲まれて、身動きも取れず固まっていた。
上は十五歳、下は危なっかしい足取りの子どもまでと揃い、たいへん賑やかな様相だった。興味津々で、好奇心に溢れ、魔物の事をまったく怖がらずに居る。逆に私の方が気圧されているくらいだ。大人たちとはまた違う恐怖を感じる。
「こーら、お前ら! 魔物の雛だけど、初めて来た奴には優しくするんだろ? ちょっといったん落ち着きな」
苦笑いを浮かべながら、グレンが間を取り持つ。集まっていた子どもたちは、不満そうな声を漏らしながらも、少し距離を取ってくれた。それでも、そのたくさんの瞳は、好奇心で輝いている。
そわそわする彼らへ、グレンが私の事を話してくれた。翼を怪我してギルドで保護している事、だいぶ治ってきているけど翼を気遣わなければならない事、そして――“契約”していない純粋な魔物であるという事を。
子ども達は、それを熱心に聴き、頷いたり、返事をしたりしていた。好奇心に溢れる瞳は変わらずキラキラと輝いており、尻込みした様子はまったくない。
「リアってお名前は、ハーピーちゃんが言ったの?」
「いんや、便宜上、俺がつけた。こいつを見つけた場所が、セルネリアの群集の上だったから」
「あたし知ってる! 月が出てる夜にだけ咲く、真っ白なお花の名前でしょ?」
「かわいい!」
途中、質問が入ったりするとすぐに脱線するので、グレンは可笑しそうに笑っていた。
……なんだろう、ちょっとだけ、懐かしい。群れに居た他の灰色の雛も、三羽の姉妹たちも、こんな感じでいっつも賑やかだった。
「少しの間、リアと仲良くしてやってくれな」
「はあーい!!」
子どもたちは元気良く返事をし、そして再び私を囲んだ。
「リアちゃん、あっちで遊ぼう!」
「ル、ルゥ……」
グレンに振り返ると、彼は行っておいでと笑った。少し緊張しながらも、人間の子どもたちに誘われるまま、彼らの後ろに着いていった。
しかし最初は戸惑ったものの、人間の子どもと群れの雛があまり変わらない存在だと知ると、あっという間に緊張は解けてしまった。日向でお絵かきという遊びを教えてもらったり、絵本というものを見せてもらったりした。その中でも一番楽しいのは、追いかけっこという、地べたの上で走り回る遊びだった。
どうやらみんな、翼を使わないハーピーはのろまと思っているようだが――私を甘く見てもらっては困る。
「はっや! 速すぎだろ!」
「うそでしょ、リアちゃん、はやッ?!」
「ちょ、ま……! 足はっえええ!!」
「ルゥウウウウウーーーー!」
ハーピーは、翼だけじゃなくて、足だって使えるんだもの! これくらいラクショーよ!
先頭をきって駆け抜ける私を、子どもたちが捕まえようと追いかけてくる。すばしっこく動き回り、疲れるまで逃げ続け、最後は体力が尽き全員で地面へ倒れ込んだ。もみくちゃになりながら土の上に寝転がり、青空を仰いで――何だか妙に可笑しくて、みんなで声を上げて笑った。
気付いたら私は、時間を忘れるくらいに、彼らとの遊びを楽しんでいた。
「さあさあ、みんな、おやつの用意が出来ましたよ」
庭へやって来た院長先生の言葉に、子どもたちがわっと歓声を上げた。しかし、全力で遊んでいたため、幼い子どもたちのほとんどが土埃で汚れている。もちろん、その中には私も含まれているが。
「でもおやつの前に、まずは水浴びをして綺麗になりましょうね」
水浴び! する!
飛び跳ねて反応する私に、グレンと院長先生はクスクスと笑う。
「年上の子は、年下の子の面倒を見てあげてね。みんなで汚れを綺麗に落とすのよ」
「はあい! リアちゃん、こっち!」
「ル!」
「じゃあ、男はこっち側だな」
女の子たちに押されながら、建物の側に設置されている井戸に向かう。そこから水を汲み上げると、順番に手足を洗い、汚れてしまった顔などは濡らした布で拭い、身なりを綺麗に整えてゆく。
「こんなに近くでハーピーを見るのは初めて。不思議だね、上半身は人間なのに、下半身と腕は鳥さんだもの」
「見て、お耳のところに、灰色の羽根が生えてる」
「ルッルッ」
不思議そうに私の外見を見つめながら、羽根に水を掛けて、土埃を落としてくれた。
ギルドではいつもあったかい水だけど、やっぱり冷たい方が私には馴染み深い。久しぶりに全身を水で洗い、清々しい気持ちになる。それが嬉しくて、ついそのまま走り出し、井戸の反対側に居るグレンのもとへ伝えに行った。
彼は、小さな男の子たちの手伝いをしていたようだが、私を見るなり勢いよく口から空気を拭き出す。周りにいた他の子も同様だった。
「リア、綺麗になって嬉しいのは分かったから、ちゃんと拭いて服を着ろ。素っ裸のまま来るな」
「ル?」
もともとハーピーは、服なんてもの着ないから、平気。
と思っていたら、後ろから女の子たちが慌ててやって来た。
「わあー! リアちゃん!」
「お洋服を着ないとだめだよ。こっちにおいで」
「グレンお兄ちゃんのエッチ!」
「止めろ、誤解を招くような事は言うな!」
そうして私は女の子たちに引きずり戻され、服を着せられ頭を拭かれたが、その間「女の子なんだから裸んぼじゃだめなんだよ」と延々と言われる羽目になった。
「みんな、綺麗になったわね。さあさあ、おやつのリィゴのパイよ」
水浴びが終わる頃を見計らったように、院長先生から切り分けたおやつが全員に配られた。私のところにも一切れ置かれたので、わざわざ用意してくれたようだ。嬉しい。
「今日のおやつは、グレンさんが持ってきてくれたのよ。みんな、グレンさんへ言う事は何だったかしら」
その謎かけに、子どもたちは一斉に大きな声で「ありがとう」とグレンへ告げた。それに押される形で、私も子どもたちに混じり鳴き声でそう告げると、彼はごつごつした顔を緩める。その面持ちは、冒険者である事を忘れてしまいそうになるほど、快活で明るかった。
「いいから、遠慮なく食えよ」
その言葉に頷いた子どもたちは、勢いよく口に運び、美味しそうに食べ始めた。
パイ、と言ったか。初めて聞く言葉だが、果たして……。子どもたちの横顔を窺いながら、私も足で掴んで口に運ぶ。サクサクとした口当たりと、蜜に包まれた果物の甘さと柔らかさは、未知の味わいだが……嫌いじゃない。むしろ、一瞬で好きになった。
「美味いか、リア。お前の好きなリィゴの実が入ってるんだぞ」
「ルゥ!」
「はは、気に入ったか。ほら、持っててやるから食べな」
グレンの手から差し出されるパイにかぶり付き、もぐもぐと味わう。
美味しい。人間って、こんな事も出来ちゃうんだから、やっぱり不思議だ。
顔の両脇から生えた羽根と、お尻から伸びる尾羽が、パタパタと自然に揺れてしまう。
「ンン~」
「ご機嫌だな。あーあー、パイ生地がポロポロ落ちてる」
「ルウ?」
「わたしが綺麗にしてあげる!」
横から女の子たちの手が伸び、こぼれたパイ生地の破片を摘まんでゆく。そのうち、私が食べさせてあげるとまで言い始め、グレンに代わっておやつを口元に運んでくれた。
小さな手からパイを食べる私を見て、グレンは不意に笑うと。
「ここじゃあ、リアが一番、ちっちゃい子みたいだな」
――私が、いちばん、ちっちゃい!!
二羽の妹を持つ姉であるのに、なんたる事。あまりの衝撃に、口からパイがぽろりと落ちてしまった。女王の二番目の娘として、二のお姉様として、せめてそれ以上ぽろぽろこぼさないよう、慎重に食べたのは言うまでもない。
「またね、リアちゃん」
「また遊ぼうね」
「今度は追いかけっこ、オレが勝つからな」
孤児院の正門のところに、子どもたちと院長先生が見送りに集まってくれている。
名残惜しそうに声を掛けてくれる子どもたちに、私も少し寂しい気持ちを感じながら、頷きを返した。
子どもたちはこれから、いったん遊ぶのを中断し、夕食の支度や洗濯物を片付ける仕事などを済ませるらしい。気付けば青空は夕暮れの色に染まっており、きりが良いとグレンと私もギルドへ戻る事になった。もう少し居たい気分にさせられたが、ダーナとセリーナも待っているので、今日はここいらでお別れだ。
「院長先生、突然お邪魔したのに、ありがとうございました」
「いいえ、とんでもない。またいつでもいらして下さい。リアちゃんもね」
「ル!」
まなじりにしわを浮かべ微笑んだ彼女は、優しげな雰囲気に満ちていた。しかし、私と、人間の子どもたちを見つめるその瞳には……何故だか深い静けさが湛えられているように見えた。
「契約に縛られない魔物だけど、リアちゃんが子どもたちと遊ぶ風景は、普段見ているものと変わらなかった。全ての魔物が、私達の天敵として悪ではないのだと……改めて、感じさせられました」
「院長先生」
「むしろ人間の方が……魔物よりもずっと、恐ろしい存在なのかもしれないですね」
彼女のひっそりと呟かれた言葉に、グレンの表情が、一瞬だが僅かに強張った。
「あのね、リアちゃん。今日みんなでしたお絵かき、リアちゃんにも一枚あげる」
絵を描いた紙を、女の子が差し出す――その瞬間、ヒュウッと風が横切った。
不意の強さに、紙は女の子の指から抜けだし、風に飛ばされ宙高くに舞い上がってしまった。あっと声をこぼし、追いかけるように天へ伸ばされた小さな指。それを片隅で見ながら、私は反射的に地面を蹴っていた。
灰色の小さな翼を羽ばたかせ、地面から飛び立つ。風に煽られる絵を、しっかりと足の爪で挟むと、子どもたちの前にゆっくりと着地する。
「わあ! リアちゃんすごい!」
「天使みたい!」
子どもたちは両手を叩き、楽しそうにはしゃいだ。その反応に私も悪い気はせず、ちょっとだけ、誇らしくなった。
――翼、動いた。
飛ぶというより、大きく飛び跳ねただけのようなものだが、それでも翼は確かに羽ばたいた。しばらく使っていなかったから、多少ぎこちなく鈍っているが、あの焼けるような痛みはまったくなかった。
「すごい反射神経だな、リア」
「ルウ」
「さ、せっかくもらった絵が飛ばないように、鞄に入れておこうな」
グレンは私の足から紙を受け取ると、丁寧に丸めて鞄へ入れ、背中に背負った。
「じゃ、そろそろ行こうか」
「ル!」
グレンの隣に並び、何度も振り返って孤児院へ翼を振る。門の前に佇む子どもたちも、ずっと手を振ってくれた。
野で生きる魔物と、人間の子ども。天敵同士、相容れぬとされてきたが、親しくなろうと思えばいくらでもなれるのだと――そんな事を教えてくれる、楽しい充足感に満ちた時間であった。
◆◇◆
「楽しかったか、リア」
「ルッ!」
私は迷わず頷いた。とても楽しくて、懐かしい気分にもなった。お母様が率いる群れでの生活も、あんな風に賑やかであったから。
翼を激しく揺らして言えば、グレンはにこやかに笑う。良かったなと告げる彼の声は、穏やかだった。
「お前は魔物だけど、無邪気で、明るくて、すぐに空気を和ませる。すごいな、リアは。……院長先生の言うように、いつだって怖いのは、人間の方なのかもしれねえな」
いつになく静かな笑みと声音に、私は思わず彼を見上げる。
「……さっきの、孤児院っていう場所はな。色んな理由で、一人きりになった子ども達が集まるんだ」
「ルウ」
「理由は……色々ある。両親が流行病で死んでしまったり、魔物に襲われて故郷をなくしたり――血の繋がった家族から酷い目に遭い、逃げたからだったり」
鳴き声が、喉の奥へと消える。魔物に襲われ故郷をなくした、というところも衝撃的だが、それよりも、血の繋がった身内から酷い目に遭い逃げ出したというところに、驚かずにはいられなかった。
血の繋がった身内って、お母様やお姉様、妹たちの事でしょう?
大切な人たちからそんな事されるなんて、あるはずがないし、私は絶対にしない。ハーピーに限らず、どの魔物だって、子どもを大切にするはずだ。
なのに、人間たちは、自らの子を酷い目に遭わせるというのか。
茫然とする私を、知ってか知らずか、グレンの言葉は独り言のように淡々と続いてゆく。
「俺は、あの子たちの気持ちが、たぶんそこらの大人よりも分かる」
グレンは口元に薄い笑みを浮かべ、呟いた。
俺も孤児院に拾われて育った一人なんだ、と。
「親は死んで、親戚に引き取られたんだが、そいつが酷いろくでなしでな。しょっちゅうぶん殴られてたわ。血反吐を吐いても、痛いと泣き叫んでも、止めてくれなかった。俺はお荷物でしかなかったんだろうな。最後は病気になって、呆気なく野垂れ死んだ。ここいらは治安が良いからそんな話は聞かないが、このご時世、珍しい話じゃない。憎んではいたけど……いい反面教師にもなってくれたよ」
あいつのようには、決してならない。
あいつのように、簡単に幼子へ手を振り上げる、冷酷で薄情な奴には決してならない。
そして、そういう気に喰わない奴らを片っ端から殴り倒せるくらいに、強くなってやる。
今思えば青臭いその決意は、あのどん底から己を奮い立たせ、這い上がり先に進む活力となった――そう告げた彼の横顔には、これまで見てきた朗らかで快活な表情は一切無かった。
この世界の全てを焦がすような激情が、瞳に、空気に、全身に、はっきりと滲んでいた。
それは私が初めて目にするグレンの姿で――あるいはそれが、彼の本当の姿でもあったのかもしれない。横から照らす夕暮れの赤い光も相まって、グレンという人間の存在が、鮮烈に両の眼へ焼き付いた。
「身体はもとから丈夫だったし、拾われた孤児院に居た先生や、周りの大人たちにも運良く恵まれて、おかげで今は冒険者としてしっかりやっていけてる」
だけど、まあ。
グレンは一呼吸を置き、私を見下ろした。
「……人間ってやつは、たぶん魔物よりも、ずっと化け物なのかもしれねえな」
その面にある形ばかりのいつもの笑顔は、酷く痛々しく見え、私は心臓が潰れるかと思った。
親から離れてたという意味では、グレンも私も、同じ立場だろう。しかしはっきりとそうでないと理解するのは……私は家族や仲間からたくさんの愛情を貰えて、グレンは貰えるはずの愛情をまったく与えられなかったという事を、気付いてしまったからだ。
――人間は、なんて寂しい生き物なのか。
賢くて、知恵があって、自らよりも遙かに巨大な敵にも立ち向かう勇気があるのに――同じ住処にたくさんの仲間が居ながら、誰とも家族ではないなんて。愛情を分け合うはずの家族から、酷い扱いを受け、恨むなんて――。
「ルゥゥゥ……ッ」
そんなのあんまりだぁ……。
ぼろぼろと涙が溢れ、灰色の髪と羽毛を湿らす。グレンはぎょっと目を剥くと、私の前に慌ててしゃがんだ。
「うお! どうした、何で急に泣く?!」
「ルゥ、ルゥゥゥ……ッ」
「泣くな泣くな、俺がまたセリーナやダーナさん達に怒られるだろ」
彼は自身の身体を探ると、不格好に折られたハンカチーフを取り出し、私の顔に押し当てる。
「良いんだよ、もう過ぎた事だし。気にするほどのか弱い心も、今はねえしな」
グレンは笑いながら、おもむろに私の足を抱えて持ち上げる。そして肩に乗せると、そのまま苦も無く歩き始めた。
夕暮れの光に照らされる彼の頭を見つめながら、私は、彼の事を何も知らなかった事を唐突に思い知る。あの夜、命からがら森を抜け出して力尽きたあの夜、魔物を拾い傷の手当てをしようとした物好きな彼は、今思い返しても本当に馬鹿だと思う。わざわざ面倒ごとを抱え込んで、お人好しも大概で――愚かなくらい、優しい人間。
だけど、その裏側にあったものは、知らなかった。知ろうとはしなかったが、知らないままでいたら、私の方が愚かだったのだろう。
人間は、お母様の言う通りに怖くて、恐ろしい存在かもしれない。いや、きっと、そうなのだろう。けれど、種族の垣根を躊躇なく超え、魔物にも優しくあろうとするのは……そんな複雑で、歪な環境で生きている彼らだからこそ、なのかもしれない。
そして私は、そんな彼らに、救われている。
今の私には、それがとても大切な事のように思えてならなかった――。
「そういやリア、お前、さっき空を飛べたな」
こぼれた涙が止まり、落ち着いてきた頃、グレンがそう切り出した。
そういえば、そうだね。飛べたというか、跳ねたという雰囲気ではあったが。
「小さい雛でも、やっぱハーピーは飛んでいる方が絵になる」
「ルウ?」
「そうだよ。お前が大人になって、羽も大きくなったら、もっと綺麗に飛ぶんだろうなあ」
夢見るように、グレンは呟く。彼には申し訳ないけれど、残念ながらそれは訪れない未来である。
雛を示す灰色の羽毛が抜ける日は、私には来ないのだ。
群れを率いる女王の雛でありながら、灰色を脱ぎ捨てられなかった半端物……だから私は、住処を離れる事に躊躇しなかった。
次の女王は、姉妹の誰かが立派に引き継ぐ。鳶色、金色、桃色の、あの美しい翼を羽ばたかせて。恨んではない、むしろ感謝しているし、誇らしく思う。
――でも。
――大人になったら、どうなっていたのか。
グレンがそんな風に思い描くせいで、私まで捨てたはずの夢を見てしまう。もしも灰色を脱ぎ捨て、私だけの色彩で染まるのなら。私は、一体どんな姿になっていたのだろうか。お母様や一の姉様、三の妹や四の妹にも負けない色かもしれない。そして願わくは、グレンが驚くような綺麗な色に染まりたい。
来るはずのない未来を、夢想してしまうほどに、私はどうやらグレンに引っ張られてしまっているようだ。
ねえ、グレンはどんな色がいい? 私は――。
「……見られたら、良いのにな」
ぽつりと、か細い声がこぼれ落ちた。夕暮れに染まる町並みに、溶けて消えてしまいそうな、そんな響きだった。
「お前の羽根の色が変わる頃、俺は……お前の側には居ないだろうしな」
何を言ってるのかと、口をついて出てきそうになった時、私も唐突に思い出した。
「――痛めた翼、もうずいぶん良くなってきたな。もう、痛くも何ともないんだろ」
――ああ、そうか……。
もう、すぐそこなのだ。彼と交わした、私が心に決めた、“約束”の終わりが。
「しばらく使ってないから、ずいぶん鈍っちまっただろうな。今度、町の外で飛ぶ練習をしないとな」
「ルウ……」
肩の上に座る私を、グレンは見上げた。暮れる色に染まったそのゴツゴツした横顔は、寂しそうに微笑んでいる。そして私も、きっと同じような表情をしているのだろうと、遠く思った。
――傷ついた翼が、治るまで。
一番始めに、彼と交わした約束。その終わりは、すぐにそこにまで近付いていたのだ。
どうして、忘れるのだろう。どうして、思い出してしまうのだろう。
いつの間にか私は、この天敵たちの住処での暮らしを楽しんでいた。あの頃にあったはずの敵意を、恐怖を忘れ、ここが居場所のように思ってしまっていたのだ。
「――もう少しで、町の外に帰れるからな」
グレンが呟いたその言葉は、私を温かい夢の中から、引きずり出した。
中盤を過ぎ、終盤へ差し掛かっているところでしょうか。
執筆作業は続いていますので、ゆっくりとお付き合い下さると幸いです。




