七日目(一)
この島で生活を始めてから一週間が経過した。それでも私たちは、各々が別行動することを避け、ほとんどの時間を三人で一緒に過ごした。三人でいる時間は島に来た最初の頃よりも長くなっている気がした。
それは、二人が私を一人にする時間を極力減らすよう陰で徒党を組んでいるようにも思えた。そんな素振りはおくびにも出さなかったが、二人は確かに日中の活動する間、絶えず私を監視し、束縛していた――まるで私が独りになった時を見計らって、この上もなく罰当たりなことをするのを未然に防ごうとするかのように。
「ここだな」
レンジュが立ち止まり、マヅチは小脇に抱える枝を一本、地面に突き立てた。
「ここからこっちの方向へ進めばマンゴーの木がある。そっちの草藪を抜けていくとライムの木。次はどっちに行く?」
「どうする、イサナ?」
マヅチが私を振り向いた。
「うーん、どっちでもいいかな。二人の好きな方で」
私が微笑んで返すと、そっか、と彼も小さく笑った。
「よし、じゃあマンゴーの方にしようぜ。最近食ってねえしな」
私たちは歩みを再開した。
私たちは、この密林に目印を立てて回っていた。今まで島の地理を把握しているのはレンジュだけだったため、枝を立てる位置や立て方、枝の長さなどで道を示し、行きたいところへ行くための、危険のない最短ルートを整備していた。
これは完遂するのに途方もない時間がかかり、私たちはすでに数日間続けているが、未だその目処は立っていなかった。
より快適に過ごせるだろうと最初に提案したのはレンジュで、すぐにマヅチが賛成した。だが、おそらくこれは二人の画策の一部だろう。そもそもこんなことにさしたる意味などなく、島をあらかた探索し終えた私たちが暇を潰すための、単なる娯楽活動に過ぎない。
夜、私たちは夕餉を済ませると、火にほど近いそれぞれの寝床で就寝した。
しんと静まり返り、やがて二人の穏やかないびきが聞こえてくる頃になっても、私はなかなか寝付けなかった。最近は瞼を閉じて一時間か二時間――正確な時間を計る術はないが、おそらくそのくらいだろう――経っても意識がはっきりしていることが多かった。
原因はいつも同じ。頭の中で何かがさざめきを立て、私を不安にさせて眠れなくさせる。私はまたあの場所へ行くことにした。
物音を立てないように拠点を離れ、木間を埋め尽くす不気味な黙の中へ、そっと足を踏み入れる。直立不動でしばらく暗中に目を凝らしていると、焚火の明かりに縮んでいた瞳孔が、少しずつ夜本来の暗さに慣れて拡げられていく。
昼と夜とでは、この世界は全くの別物に変わる。
木々は無数の黒い目で私を見つめ、風は意地悪く私の頬をなぞる。下生えの草は私を驚かそうと、私の足元に出てきて足首に指を這わせる。
でも、私は怖くなかった。見知った場所が夜に染まって様変わりし、言いようのない不気味さを醸しても、私の心の中に巣食う形をもたない怪物に比べれば、身を縮こまらせるほどのことではない。
昼と夜とでは、この世界は全くの別物に変わる。都会も田舎も、海も森も、そして、人も。
夜になると、私の心の中の怪物は私により近づき、よく喋るようになる。だから、私はこの美しい夜の黙の中に出ていって、怪物と対話しなければならない。昼の間は逃げおおせても、夜は決して怪物からは逃れられないのだ。
私はグロリオサの咲く道を通り、ランブータンの樹木が周囲に立つ、倒木のある空き地へ出た。
まるで舞台の照明のように、月が空き地の倒木を照らしていた。私は静謐な光の中へ歩いていき、倒木に腰掛けた。
眩しいくらいに綺麗な月だった。そこから視線を下ろすと、木々が私を見つめたまま何かを待つように沈黙していた。
私は、目を閉じた。すると、私の中で何かが波立った。揺りかごのように揺れながら、少しずつそれは波としての高さを増していき、やがて、私を呑み込むほどの大波となって私に押し寄せた。
怪物が、私に語りかけているのだ。
〈ねえ、幸せって何だろう?〉
何でそんなこと私に訊くの。
〈それは君が幸せを欲しているからだよ。ねえ、幸せって何?〉
そんなのわからないよ。
〈じゃあ君にとっての楽しいことは?〉
わからない……
〈そうだよね。勉強することも遊ぶことも楽しくない、人と話すことも楽しくない。何もかもがつまらない。何にも興味が湧かない。今日だって、君は二人と話すことも、二人の後についていくことも楽しくなかった。億劫にすら感じていた。君は何が楽しいことなのかわからない。君は、「楽しい」と感じることができない〉
うん。
〈それなのに、どうして君は生きているの?〉
わからない。
〈生きる意味って何?〉
そんなのない。
〈そう。人間に生きる意味なんてない。学校に行って勉強して友達作って、就職して仕事してお金貯めて、結婚して子供作って家族で旅行に行って、最後は必ず死ぬ……で、それが何? どんな人生を送ろうと、そこに意味なんてないんだ〉
うん。
〈でも、周りの人はいつも楽しそうだったよね。君と違って意味もないバカバカしいことに夢中になって、つまらないことに笑って、誰も生きる意味なんて考えてない〉
うん。
〈それでもいざ大人に訊いてみれば、「生きる意味なんて誰にもわからない」だとか「生きていればそのうち見つかる」だとか「そんなに難しいことを考える必要はない」だとか、どいつもこいつも中身のない空っぽの答えばかりだ! 君が欲しかったのはそんな答えじゃなかった!〉
私はただ、誰かに一緒に考えて欲しかっただけ。一人で考えるのは、寂しくて、悲しくて、つらかったから。
〈そんな君のことを、父親は気味悪がった。次第にそれは畏怖に変わった。そして父親は、母親と一緒にまだ幼い君を化け物でも見るような目でぶつようになった〉
私は、こんな世界で生きていたくなくなった。
〈だからなおさら生きる意味を考えるようになった。生きなければならない理由を探した〉
でも、考えても考えても、意味なんてなかった。私は死ぬことしか考えられなくなって……それで……それで、私は…………
〈死のうとした〉
でも、できなかった。
〈世間じゃよく言われるよね。生きたくても生きられない人がいるのに、自分勝手な都合で命を捨てるな、って。親が悲しむとか、世間に迷惑をかけるとか。だけど君には悲しんでほしい家族なんていなかったし、世間に迷惑をかけちゃいけない理由もわからなかった。知りたいことはただ一つ〉
私は、何のために生きているのか。
〈彼らはわかってなかった! 生きたくても生きられない人がいるのと同じように、死にたくても死ねない人がいることを! 君は生きる意味がなければ生きていけなかった、生きていたいと思えなかった。君にとってこの世界はそういう場所だった。でも、君の周りの人たちは誰もわかってくれなかった。君の心を。誰も君の気持ちを理解してくれなかった、理解しようともしてくれなかった〉
だから、みんな無視した。
〈そう、君は他の人とは違うから。考え方は人そのもの、君は他の人と考えることが全く異質だった。人は自分と異質なものを遠ざける。だからみんな君を遠ざけたし、君自身みんなを拒絶した。君は独りになった〉
独りは寂しい、寂しいのは苦しい……
〈生きる気力なんてない、生きていたくもない、でも、死ぬこともできない。ねえ、君は何のためにこの世に生まれてきたの? 何がしたいの? 君は一体何を求めているの?〉
私は……もうこんなこと考えたくない。あなたと一緒にいたくない。ただ、みんなと同じように、普通に生きたいよ……
〈そう……残念だけど、その願いは叶わないよ。だってここには最初から君しかいないんだから。この声も、この声が発する言葉も、全て君自身の内に存在するものなんだからね〉
そう、わかっている。私の中に怪物なんていない。最初から、みんなと違う私自身が怪物なのだから。
見上げると、そこにはもう月はなく、私の座る倒木には影が落ちていた。いつの間にか照明はスイッチを切られ、私の一人舞台は幕を下ろしていた。