十日目(二)
〈楽園、だってさ。物で溢れた現代しか知らない子供が、いきなり何もない孤島に取り残されて、笑って生きる? ハッ、笑えない冗談だよ〉
冗談なんかじゃないよ。だってマヅチがそう言ったんだから。
〈彼は君を守るために嘘をついているだけだよ。だって、考えてもみなよ。食べ物は毎日果実。ベッドは葉っぱ。狭い島内には樹木が鬱陶しいくらいに生えているだけ。おまけに危険な猛毒植物たちの宝庫ときた。安全で享楽に満ちた外の世界を知っている君たちには、こんな孤島で幸せに生きるなんて不可能なんだよ〉
ねえ、あなたは私なんでしょ? だったらどうして私を傷つけようとするの?
〈前にも言ったはずだよ。これは君自身。この声もこの言葉も、君が生み出し、発しているんだよ。つまり、君を傷つけようとしているのは、他ならない君自身。わざわざ訊かなくてもわかっているでしょう? 君は自分という存在を心の底から拒んでいるんだよ〉
だったらあなただってわかってるでしょ! どうしようもないの! 私は……こんな私なんて大嫌い。一生かけたって好きになんてなれない。だから――
〈だから大嫌いな自分を殺そうとした。猛毒をもつあの花を美しく感じたのは、君の中の自分を殺したいと願う理性。その理性はもう随分前から君の中に生じていた。なぜ君は自分を拒絶し、殺そうとまですると思う? 生まれてこの方、君は一度だって自分のことを愛したことがないからだよ〉
自分の愛し方なんてわからないよ。だって、私は誰からも愛されなかったんだから。
〈人は愛なしには幸福でいられない。人に愛されたことのない君は、自分を愛することも、誰かを愛することもできない。そんな君には故国の実家だって、学校だって、もちろんこの島だって、みんな同じ、モノクロの世界以外には映らない〉
もしお父さんが私を愛してくれていたら、もしお母さんが私を理解してくれていたら……もし、誰かが私の心を理解しようとしてくれていたら……少しは違った生き方ができたのかな。
〈どうだろうね。君の本質は環境に起因して生まれたわけじゃないから、あんまり変わらなかったかもしれない。でも、少なくとも、白と黒と、もう一色くらいは見えたんじゃないかな〉
紺碧の絵の具を塗りたくった天蓋からは、未だ青白い照明が一条、舞台上の私を照らしている。私の独壇場は、まだ終幕を迎えてはいないはずだった。だが、舞台を取り囲むようにして見世物を楽しんでいた観客たちが、その同じような無情な顔を見合わせて頻りにどよめいていた。
私は顔を上げて、舞台上に上がってきた闖入者の方を見た。
マヅチは観客たちのどよめきをよそに、そこにただ呆然と立ち尽くしていた。彼は目を見開いていた。やがて、一歩、また一歩と確かめるような足取りで近づいてくる。そして、私に走り寄ろうとした。
私は立ち上がった。
「来ないで‼」
マヅチはピタリと足を止めた。
この悲しみは、私の悲しみ。だから、他人を巻き込んじゃいけなかったのに。
「ねえ、マヅチ。どうしていつも私のところに来るの? マヅチが私を何度勇気づけたって、私は必ずまた悲しくなるのに。マヅチやレンジュが何度私の手を引いてくれても、私は必ずまた蹲っちゃうのに」
この苦痛は、私そのもの。私しか感じないし、きっと私以外の人には苦痛ですらない。
「私はもう立ち上がりたくないの。二人が助け起こしてくれるたびに、二人が治してくれた私の心にまた新しい孔が開くの。きっと、私の心は最初からそういう作りになってるの。独りで勝手に崩れていくように」
マヅチは言葉に窮するように口をつぐんでいた。
私を見つめる彼の瞳には、私が初めて目にする感情が映っていた。でも、私にはその瞳に湛えられた感情が何なのか、わかっていた。私を理解することができない悲しみ――私を理解することができないことを理解してしまった、哀しみ。
私は拒絶の眼差しを向けて言った。
「もう、私なんか助けなくていいから、マヅチは自分のために生きて」
「イサナは……俺のこと、嫌いなのか?」
震えるマヅチの声は少しずつか細くなっていった。
「うん、嫌いだよ」
私のために嘘をつくところも。私の前では絶対に弱音を吐かないところも。私がつらくなると必ず傍に来て慰めてくれるところも。マヅチのそういうところが、全部嫌い。
「そっか……」
悲しそうな顔を見せたのは束の間だった。マヅチはすぐにまた私の嫌いな笑顔の仮面をつけた。
「じゃあ、イサナには悪いなぁ。ちょっとキモいかもしれないけど、俺はイサナが好きだから、イサナが何と言おうとイサナの近くにいさせてもらうよ」
どうして……
私の中で何かがこみ上げてきた。
「どうしてそうなるのッ!?」
私は島中にこだまするような声で叫んでいた。この島に来て少しずつ緩んでいた心の蓋が、ついに弾け飛んだかのようだった。もう、自分でも止められない。涙も、心から溢れる言葉も。
「言ったでしょ‼ 私はマヅチに助けられるたびに傷つくの‼ 昼間、マヅチが私を助けなければ、私は二度と傷つかないで済んだかもしれなかったのに……ようやく、この世から解放されていたかもしれないのに」
どうして助けたの。おかげで、私はまた今夜も孤独の苦痛を、あの胸にぽっかりと孔の開いたような痛みを味わうことになった。
「私は物心ついた時から、幸福とは何なのか、生きる意味とは何なのか、ずっとそんなことばかり考えてきたの。私は誰とも違ったの。両親とも、クラスのみんなとも。だから誰にも理解してもらえなかった」
私は、もしかしたらマヅチだけは私を理解してくれているのかもしれない、って思っていたんだよ。だから私が落ち込んだ時に、私の欲しい言葉で慰めてくれるんだって。
でも、やっぱり私はマヅチとも違った。
あぁ、また来たよ。痛い、苦しい……いつになってもこの痛みには慣れない。この辺りが――胸の奥が、ジンジンする。身体の真ん中を貫くように、縦に痛みが走る。胸が痛むとか、胸が裂けるとか、過去に作られたそういう言葉は、きっとこの痛みから来ているんだろうな。
私は痛みにまた涙を流した。
「ねえ、人ってどうして生きてるの? こんなに無意味なのに……ねえ、どうしてマヅチは、私にこんな無意味な人生を断ち切らせてくれなかったのッ!?」
マヅチが私の命の責任をもってくれるの?
……あなたと私は、違うんだよ。
マヅチがどんなに優しくたって、私の気持ちは理解できないんだよ!
私は心の叫びと共に息を大きく吸い込んだ。
「マヅチはこの島を楽園だと思い込めても、私には最初からこんな島、どう足掻いたって『地獄』にしか見えないよッ‼」
全身の力が抜けて、私はまた倒木の上に尻餅をついた。涙が涸れ尽きた、そう感じた。
木々の――観客たちの拍手喝采がこだましていた。
「嘘を、つくなよ」
耳に届いたその言葉に、私は虚を衝かれた気分だった。
……嘘?
「イサナはストレスや夜の気、その他のあらゆる負のエネルギーのせいで思考が著しくマイナスに陥っているだけだ」
何を言っているのかわからなかった。また、私のための嘘?
「過去をよく思い出せ、イサナ」
「嫌……思い出したい過去なんてない」
過去にあるものなんて、私を苦しめた記憶ばかりだ。
私は耳を両手で覆った。
だが、マヅチは依然として険しい声音で言葉を発し続けた。
「そうじゃない。目を閉じて、この島に来た最初の頃をよく思い出せ。俺はイサナが笑うところを何度も見た。最近の偽りの笑顔じゃない、俺の大好きな、イサナの素の笑顔だ」
私が笑った? そんなことあるわけない。だって、私はとっくに笑い方なんて忘れているんだから。
私は目を閉じ、記憶の糸を手繰り寄せた。そして――
――見ない方がいいって言ったじゃん。
見つけた。奇怪な植物に対するマヅチの面白おかしいリアクションに、わずかだが、確かに私は笑った。この島で私が笑っている時の記憶の片鱗を、私は少しずつ見つけていった。まるで自分ではない別の誰かの記憶を見ているようだった。
私は、笑っていた……?
これが「楽しむ」ということなのだろうか。記憶がたった少しの時間ですぐに割れて欠片になるほど、地味で些細なものだったが、「楽しい」という感情は元来そういうものを言ったのではないだろうか。
「最初から地獄にしか見えなかった? それは今のイサナの心の中で刹那的に湧いた思いだ。その気持ちが正しくないとは言えないかもしれない。でも、それと正反対の気持ちも、イサナの中にはあるはずだ。今はそれをちょっと見失っているだけで」
マヅチは私の方へと歩み寄ってきた。
私は、もう彼を拒むことができなかった。
「……悪かった」
マヅチは私の前にしゃがみ、私を抱きしめた。
また平然とこんなことをする。
彼の体温も、優しさも、私には温かすぎた。でも、不安や恐怖でいっぱいだった私の心には、まるで自ら求めるようにどんどんその温もりが染み込んでいった。
「昼間、イサナは前を向けていたから大丈夫だって、気を抜いていた。守るって言ったのに、守れていなかった。ごめん」
私は自分の気持ちを整理するのに精いっぱいで、彼への言葉を紡ぐことができなかった。
「だから、今度こそイサナの思いを、全て話してくれないか? 理解できるかどうかはわからない。ただ、俺も一緒に、イサナの考えていることを考えたい」
私は彼の腕の中で震えながら、頷いた。