一日目(一)
私は暗い海底へ沈んでいた。何も見えず、前も後ろもわからない。本当に前も後ろもないほど、ここには何もないのかもしれない。息もできなかった。苦しみながら、身体を動かすこともできず、ただより暗い底の方へと沈んでいく。
何も見えないことが怖かった。息ができないことが怖かった。この苦しみの先に待つものが、この海流の音に包まれる孤独が、私には怖かった。
恐怖で満たされていた私の身体の中から、不意に何かがせり上がってきた――
私は咳き込み、横になって思い切り水を吐き出した。
「よかった」
もう一度地面に背をつけて荒い呼吸と鼓動を整えながら、私はおもむろに重い瞼を開いた。かすむ視界の向こう側から、浅黒い顔の少年が私を安堵した様子で見つめていた。
「レン……ジュ」
「もう少し休んでいて、イサナ」
彼はそう言うと私の視界から外れ、代わりに天まで上るような高いヤシの木が映った。垣間見える空はやや雲がかかっているが、まだ日中だった。
頭が痛くて、記憶もおぼろげだった。濡れて重くなった身体を起こすのもだるい。
しばらくぼーっとしていると、不意に私の脳裏に悪夢のような記憶が呼び起こされた。黒い雲からもたらされた暴風雨の中、どこからか流されてきた流木に掴まり、荒れ狂う波にもまれて、私は助けを求めるどころか呼吸をすることさえままならなかった。そしてそれらの記憶と連結するように、先ほどまで見ていた本物の悪夢が今一度私に襲い掛かろうとした。
もう起きなきゃ!
私は悪夢を追いやるように、両肘をついて身体を起こした。目の前には、岩の断崖が遥か高くまでそびえ、断崖の上には濃緑の木々が生い茂っていた。岩の絶壁には、ちょうど私の目の前で大きめの池くらいの水溜まりが接しており、その水底に近い部分に、水に没した大きな暗い洞穴が穿たれていた。
一体ここはどこなのだろう。そういえば、さっきから背後で虫の羽音や鳥の泣き声が聞こえる。
頭が重く、まだ立ち上がることのできなかった私は、腰だけ曲げて背後を振り返った。
私は自分の目を疑った。
そこは、熱帯の極彩色の植物たちが鬱蒼と生い茂る密林だった。熱帯の島へ旅行に来たのだから熱帯の植物を見ることは不思議ではないが、乗っていた船が転覆して流されたのなら、なぜどこかの島の砂浜でないのか。
眼前の光景に圧倒され、目を奪われていたせいか、私は視界の隅で、懸命に誰かに救命措置を施しているレンジュの姿にしばらくの間気付かなかった。
「レンジュ……?」
チェックのシャツにベージュのズボンをはいたレンジュ。その下から、オレンジのTシャツと黄土色の短パンが覗いていた――私と同じ流木に掴まっていたはずのマヅチだった。
「マヅチ!?」
私は無我夢中でマヅチに駆け寄ろうとした。しかし、疲労と海水を含んだ衣服で重くなった身体はうまく動かず、すぐに足がもつれてつまずいた。
私はマヅチを見つめて叫んだ。
「マヅチ、死なないで‼ 起きて」
私を、一人にしないで……
その時、心臓マッサージをするレンジュの手を押しのけるようにしてマヅチが咳き込んだ。彼はそのまま横になって水を吐き出した。
私は安堵の吐息をついた。
「レンジュ」
振り返った彼は、汗とも海水ともつかぬ水を額から流していた。おそらく、マヅチに救命措置を行う前は、私にも同じことをしていたのだろう。
「ありがとう。レンジュがいなかったら、マヅチも私も今頃……」
彼はすがすがしく笑った。
「友達を助けるのは当たり前だよ」
レンジュはマヅチに顔を戻した。
「大丈夫、マヅチ?」
「ああ……もう大丈夫だ。サンキューな」
レンジュの手を借りて身体を起こした彼は、ふと何かを思い出したようにポケットに手を入れた。険しい顔になり、反対の手でもう一方のポケットを探る。
「どうかしたの?」
私は周囲に首を振るマヅチに尋ねた。
「レンジュ、イサナ、この辺で何か見なかったか?」
「何かって?」
私は尋ね返した。マヅチの様子はどことなくおかしいように見えた。まだ夢と現実の境目にいるのかもしれない。
「あ、いや……携帯が、ポケットに入っていたんだ」
「携帯?」
私は周囲を見渡したが、それらしきものはどこにもなかった。
「俺も見てないな。海流で流されたんだろう。それに、ここはおそらく本島から外れたどこかの島だろうから、携帯は圏外だと思うよ」
「そうか……」
陰りを見せたのはほんの一瞬のことで、マヅチはすぐに表情を一変させた。
「それより、すげぇな、ここ。ジャングルかよ」
私たちは改めて眼前に広がる密林に目を向けた。
多種多様の植物がないまぜになり、それでいて一糸乱れぬ統率がとれている緑の楽園に、私たちはただただ意識を圧倒されるばかりだった。この自然が生んだ独特の奇妙な一体感は、きっとどれだけ優秀な国の軍隊にも真似できないだろう。
「とりあえず、服を乾かさなきゃいけないから、俺が火を起こすためのものを集めてくるよ」
レンジュが甲斐甲斐しく言った。今日の彼はいつも以上に頼りがいがあった。彼が日本とこの国のハーフだからだろうか。
「それなら俺たちも手伝うよ」
マヅチは気前よく言ったが、言葉の裏には確かに疲弊の色が滲み出ていた。
レンジュもそれを察したように、首を振った。
「二人はさっきまで心肺停止状態だったんだ。まだ動かない方がいいよ」
「でもそれならお前だって俺たちを……」
「マヅチ。俺はこの国で生まれ育ったんだ」
心なしかレンジュの語気が強くなった気がした。
「君たちよりも体力はあるし、父さんの手伝いで観光ガイドをしたこともあるから、このあたりの植生にも詳しい。この国で遭難した以上、ここでは俺の指示に従ってもらうよ。猛毒をもった植物も多いんだから、君たちに勝手にうろうろされたら困る」
決してレンジュの言葉に怒気は含まれてなどいなかったが、私は二人が言い合いになるのではと心配になった。日本では、私たち三人の中ではいつもマヅチが中心だった。もしマヅチがレンジュの言う通りにすることを快く思わなかったらと思うと、私は気が気でなかった。
だが、それは杞憂に終わった。
マヅチは笑って返した。
「そっか、それもそうだな。じゃ、頼らせてもらうわ」
そうだった。マヅチはいつだって喧嘩を起こす方ではなく、喧嘩を止める側の人間だった。それも、双方の言い分をちゃんと聞いて合理的に解決する、私からすれば恐ろしいほど人の気持ちを理解できる人間だった。なぜそんなマヅチが、いつも私なんかの傍にいてくれたのか、学校でも毎日不思議に思っていたのを思い出した。
レンジュが密林の奥へ分け入っていくと、私たちは目の前の水辺で衣服の海水を絞り、顔や手足についた土を洗い流した。
私は水際でしゃがみ込み、暗い洞穴を水面下に隠す青い海中を見つめた。小規模の群れを作った小魚が、岸辺の私に興味深げに近寄ってくる。何の魚かはわからなかったが、気付くと無心になって魚たちの動きを目で追っていた。
「おー、魚いたんだな。海に通じてるのか……?」
マヅチは感心しながら私の隣にしゃがんだ。
「ねえ、マヅチ。私たち、助かるかな」
心の中に溜まっていた不安が急に言葉になって出てきた。
「助からなかった時のこと考えたって仕方ないだろ。こういう時こそ、気を楽にするのが肝心なのさ」
マヅチは小魚の群れに小石を投げ、驚いて逃げていくのを微笑ましげに眺めていた。
「俺たちはツアーでこの島に遊びに来た旅行者。今は自由時間で、俺たちは島の内部を散策している。そして海に通じるこの水辺で、一緒に魚を眺めている。今の状況、別にそういうシチュエーションだったとしてもおかしくないだろ?」
「うん」
私は申し訳程度に頷いた。
「でもさ、マヅチは両親のこと、心配じゃないの?」
私たち三人は、マヅチの両親を保護者としてこの地へ旅行に来ていた。私の母親は仕事の都合で同伴できなかったが、長い付き合いであるマヅチの両親を信頼して私を送り出してくれた。それに、この国のことをよく知っているレンジュも大きな存在だった。私たちの旅行は、安全なはずだった。
だが、予報にない嵐で私たちの乗っていた小型の観覧船は転覆し、乗客は全員荒波の中に放り出された――もちろんマヅチの両親も。
「心配だよ」
彼は呟いた。
「でも、今は俺の両親の安否を確かめる術はない。だから、とりあえず俺は自分が生き延びることだけを考える。ちゃんと生きて帰って、両親と無事再開できたら喜ぶし、死んでいたなら思いっきり泣く。その時のためにも、俺は今を生き抜く」
どうしてそこまで強い意志をもっていられるのか、私には不思議だった。そして、羨ましかった。
私には、心の底から生き延びたいと思える理由があるだろうか。
しゃがんだまま膝を抱え、私は水面に小石を投げた。