9.結婚式前夜
二人の婚約から結婚式まで、ひと月もなかった。
公爵家の姫を娶るのに無礼と言っても過言ではないほどの強引な段取りを、レオンハルトは一方的に決めてしまった。ランズボトム家側から異議を唱えられるのではないかと危惧したが、当のレオンハルトが拍子抜けするほど順調に準備は進んでいく。
彼らの早すぎる挙式に文句をつけたのは、王妃一人だ。
王夫妻が式に招かれることはない。誰より身分の高い両陛下が参列すれば、主役は神父の待つ壇上にのぼることすら出来なくなる。臣下の一人を贔屓するわけにもいかないから、リセアネがエレノアの晴れ姿を見ることは許されなかった。
「こんなことってある? 初めてのダンスを踊ってから半月で式を挙げるなんて。それも式が終わったらすぐにダルシーザに立つなんて!」
柳眉を逆立て不満を訴えるリセアネを、グレアムは苦笑と共に抱きしめた。
「レオンハルトはダルシーザに責任がある。そう長いこと任地を離れるわけにはいかないと、リセも分かっているだろう?」
「ええ、もちろん。一人でさっさと帰ればいいのよ。エレノアは春に改めて迎えにくればいいわ。そうすれば、その間に色々準備も出来るし。これじゃ、まるで人攫いじゃない」
リセアネはグレアムの広い背中に手を回し、しがみつくように抱きしめ返した。
「ひと時も離れていたくないという風には見えなかったわ。……レオンハルトは、ティアが好きだった。エレノアを傷つけるんじゃないかと、心配で堪らないの」
初めて耳にした腹心の過去に、グレアムは盛大に驚いた。
「ティアって、まさかパトリシア妃か?」
旧ファインツゲルトの最後の皇女。今はサリアーデの王太子妃となっている女性の懐かしい名前に目を見開き、グレアムはゆるく首を振った。
「彼女とクロード殿下が相思相愛だったことは、当時から明らかだった。レオンハルトが相手のある女性に想いを寄せるなんて、想像がつかない」
「ティアの祖国帰還に付き添っていたのは、私よ? レオンハルトもずっと一緒だった。彼は明らかにティアに惹かれていたわ。私には終始事務的な態度だったけれど、ティアが傍にいる時は頬が緩んでいたし、声が甘かった。レオンハルトの視線はいつでも彼女を追っていた。兄様がダルシーザまで彼女を迎えに来た時の彼の瞳を、グレアムも見たら分かったのに」
女嫌いを公言しているレオンハルトが、敵国の皇女に失恋。しかも、あの男が甘い声に熱い視線、だと?
レオンハルトとは長い付き合いだが、彼が特定の女性に入れ込んだことは一度もないと知っている。グレアムはどうにも飲み込めず、曖昧な相槌を打つしかなかった。
「貴方が驚くのも当然よ。ティアだって気づいてなかった。もしかしたら、レオンハルト自身も。でもそういう恋って、後を引く気がするの。エレノアは、父君があんな風でしょう? 結局ランズボトム公は奥方に本音を言えなかっただけという情けなさだったけれど、エレノアの過去の痛みが精算されたわけじゃない」
リセアネは、訳知り顔で一人ごちた。
グレアムはますます困惑し、黙り込んだ。妻が何を言っているのかさっぱり分からない。
「まあ、いいわ。エレノアには頼もしい味方が付いていることだし、彼がエレノアを守ってくれることを祈るしかないわね」
エレノアに影のように付き従っているランズボトム家の密偵を思い出し、グレアムはようやく「そうだな」と口を挟むことが出来た。
やきもきしているリセアネのことだ。来年にはダルシーザ視察を言い出すに違いない。日程の調整を頭に入れておいた方が良さそうだ。
己の胸元に頬を寄せる若い妃を、グレアムは愛しげに見下ろした。リセアネは情が深い。親しい友人の結婚を目前に控え、ナーバスになっているのだろう。
過敏になっているのは、リセアネだけではなかった。
表立って不満を口にしないだけで、アシュトン・ランズボトムも十分な苛立ちを内に秘めていた。
猫の仔を貰うような気軽さで、いけ好かない男が娘を攫っていく。
エレノアが産まれた時、アシュトンは一人、自室で歓喜の声をあげた。娘は花のように愛らしく、眩しかった。なんという美人な子だろう。糸目でしわくちゃの新生児を前に、アシュトンは決意した。将来の王妃は、この子しかいない。当時王子だったグレアムの隣にふさわしい貴婦人になるよう、自ら教育に当たろう。
どれほど困難な課題を出しても、エレノアは毎回きちんと達成した。あまりに何でもできるので、アシュトンは不安になった程だ。手放しに褒めれば、いい気になるのではないか。謙虚さのない娘になっては困る。アシュトンはわざと険しい顔をつくり、厳しく接することにした。しょげて俯く娘のいじらしさに、幾度自制心を試されたか分からない。
娘の少女時代を思い返しながら、トルソーに飾られた花嫁衣裳を眺める。
数年前から準備してきた、豪奢なドレスだ。金糸と銀糸の縫い取りは名のある刺繍職人に発注したし、あちこちに散りばめられた宝石は外国からこれぞというものを取り寄せた。このドレス一枚の対価で、平民なら数年何もせずに暮らせるだろう。
少々変わった趣味こそあるが、エレノアは素晴らしい女性に育った。生意気な物言いは自分に対してだけだし、気骨がある証拠だ。ミュリエルそっくりの優美な外見といい、賢さといい、洗練された物腰といい、あれほどまでに完璧な令嬢はこの国にいないとアシュトンは信じている。
だからこそ、その辺の有象無象にくれてやるつもりはなかった。
娘の護衛であるグレタに言い渡した密命はたった一つ。『男を近づけるな』だ。
その甲斐あって、エレノアは長らく社交界の高嶺の花だった。
レオンハルトなら、まあいいだろう。アシュトンは妥協した。
彼は三大公爵家の嫡男を差し置き、次期宰相と囁かれる王国の盾だ。剣の腕も政治手腕も、及第点。ダルシーザの統治期間が終われば、侯爵位を授与されるのは間違いない。見た目もそこそこだし、貴婦人方からの人気は絶大なことも知っている。
「まだそんな顔をしていらっしゃるの?」
部屋へ入ってきたランズボトム公爵夫人は、華やかな笑みを浮かべながらアシュトンの隣に立った。
彼にならって花嫁衣裳を見つめるミュリエルの瞳は、穏やかに澄んでいる。
「……明日挙式なんて、早すぎる」
「エレノアはもう、二十七ですのよ? トランデシル伯は申し分のない貴公子です。ようやく娘も肩身の狭い思いをせずに済むと思うと、嬉しくて」
「肩身が狭い? 何を馬鹿げたことを」
アシュトンは眉をひそめ、妻を見下ろした。
年を重ねてなお魅力にあふれた容貌に、不満の色が浮かぶ。見栄っ張りの夫がこんな子供じみた表情を向けるのは自分に対してだけなのだと、ミリュエルが気づいたのは最近のことだ。
一歩横にずれ、アシュトンの左腕にそっと頭を預ける。
彼は驚いたように身動ぎしたが、やがて遠慮がちに彼女の肩を抱いた。
「普段はとても敏い方ですのに、エレノアのことになると途端に盲目になってしまわれるのね」
「そんなことはない」
「世間ではそれを、親馬鹿と呼ぶそうですわ」
ミュリエルが更にからかうと、アシュトンはむっすり黙り込んだ。
それでも彼女の肩を抱く手は優しく、彼の方から離そうとはしない。不器用な方だ。ミュリエルは改めて夫が可哀想になった。
エレノアは、そんな彼によく似ている。言いたいことは全て胸に秘め、安易に外に出すことを良しとしない。見栄っ張りで、努力家で。
エレノアが密かに父を慕っていることをミュリエルは知っていた。どれほど憎まれ口を叩こうが、エレノアは父を見捨てきれない。絡まってしまった親子関係が、一旦離れることで上手く解けるといいのに。
ミリュエルは思い切って口を開いた。
「明日はどうか、エレノアを称えてあげて下さい。誰より自慢の娘だと、貴方が褒めてあげて」
「そんな当たり前のこと、私が言わずともエレノアは分かっている」
アシュトンはなぜか自信たっぷりだった。
ミリュエルは遠い目になった。