8.進む準備
エレノアは不思議だった。
社交界の中でも、とっつきにくさで言えば群を抜いているトランデシル伯爵だというのに、何故か彼の前では息がしやすい。
鋭い剣技と巧みな戦術で前線を制し、敵であれば女子供にも容赦しないと評判の『氷の猛将』殿。
人の評判は当てにならないものだ。女嫌いで有名な彼だが、きちんとエレノアを話に耳を傾けてくれた。鼻で笑ったりせず、真面目な顔で「要求を飲む」と言ってくれた。
自分が殿方を夢中にさせる類の女ではないことを、エレノアは重々承知している。みっともないほどの容姿ではないが、愛らしさには欠けているし、上手に甘えることも出来ない。
「貴女を愛せない」というレオンハルトの牽制には「そうだろうな」と思っただけだ。むしろ先に教えてくれた彼を誠実だと感じた。
あれほど美しく才ある貴公子が、エレノアを愛するわけがない。数多の魅力的な令嬢を差し置いて自分を選んだ理由は、家名とある種の義務感だろう。
陛下の右腕と謳われるほど、グレアム王と固い信頼関係にあるレオンハルトだ。売れ残ってしまったかつての候補者に対する王の意を汲んだのかもしれない。――父もそうして母を娶った。
エレノアの胸を、得体のしれない痛みが走る。
玄関先まで見送りに出たエレノアは、馬車へ乗り込もうとするレオンハルトの背中に思わず声を掛けていた。
「あの――」
引き締まった背中が動きを止め、おもむろにこちらを振り返る。
振り返った拍子に長めの前髪がはらりと流れ、怜悧な黒い瞳にかかる。煩わしげにそれを指で払いのけ、レオンハルトはエレノアを見下ろした。何気ない一連の仕草にも上品な色気がある。
エレノアは我に返り、口を噤んだ。自分は何を言おうとしていたのだろう。
「言い忘れたことでも?」
声をかけた癖に黙り込んだエレノアを見て、レオンハルトは平板な声で問いかける。
「いえ、なんでもありません。失礼しました。どうか、お気をつけてお帰り下さい」
エレノアは気位の高い公爵令嬢の仮面をかぶり直し、よそ行きの笑みを浮かべて軽く膝を折った。
レオンハルトは頷いたが、その場を動こうとはしない。
怪訝に思いながら彼を見上げると、苛立ちを含んだ黒い瞳とかち合った。
「……明日、両陛下にお目にかかる約束をしています。貴女も行きますか?」
「それは、どういう」
「報告と結婚の許可を頂きに。本来なら十分な婚約期間を置いて式を挙げるべきところですが、私には時間がない。厳冬を迎える前にダルシーザに帰るつもりです。もちろん、貴女を連れて」
勝手に春頃の挙式だろうと見積もっていたエレノアはあっけに取られたが、すぐに賛同した。
家を出られるのなら、早い方がいい。
「分かりました。ご一緒してもいいのなら、私も挨拶に参りたいと思います」
「では、そのように。明日またお迎えにあがります」
淡々と告げ、今度こそレオンハルトは馬車へ乗り込んで行った。
背後に控えていたグレタの気配が戻る。明らかにグレタは怒っていた。無口なグレタの感情の変化を、エレノアは肌で感じ取ることが出来る。口に出しては何も言わないだろう。心優しい彼女はいつもそうだ。
「明日はどうするの?」
他の侍女らが下がったのを見計らい、自室へ戻りながらエレノアは小声で尋ねる。
少し離れた後ろから、静かな声が返ってきた。
「もちろん付いていくよ」
「王宮勤めのメイド姿を久しぶりに見られるのね」
「話しかけてくるなよ、お嬢」
「分かってるわ」
行儀見習いという名目で、エレノアは一時期王宮に上がっていたことがある。傍妃として招かれたわけではないから、使用人を連れていくことは出来なかった。一体どんな手を使ったのか、エレノアの部屋付きのメイドとして紹介されたのはグレタだった。引き合わされた時は、流石のエレノアも素っ頓狂な声を上げそうになり、グレタに目顔で注意されたものだ。
「私をエスコートして下さるのは、あのトランデシル様なのだから、何かあってもグレタは暇だと思うけど」
グレタの気持ちをほぐそうと、エレノアはおどけて言ってみた。部屋の前でくるりと振り返ってみれば、彼女の忠実な従者は泣きそうな顔になっていた。
「今度はあんな奴に支配されるのか」
「されないわ。対等な取り決めを交わしたの。彼は良い人よ」
「良い人? あれは全くお嬢を愛してない」
グレタの頑なな返答に、エレノアは微笑まずにいられなかった。
狭い世界で生きてきたグレタには、どこか夢見がちなところがある。愛なんて何の役にも立たない。父は若い頃からずっと、皇太后様だけを愛してきた。そのせいで、母もエレノアも苦しんだ。
夫婦同士が惹かれ愛し合うなんて、選ばれたごく少数の人の上にだけ訪れる奇跡なのだ。
「彼は女嫌いなんだもの。誰のことも愛していない。それで充分じゃない」
そうだ、少なくともレオンハルトは父とは違う。叶わない恋を後生大事に胸に秘め、得られなかった愛しい人の面影をエレノアに求めることはない。
もしそうなったら生き地獄だ。婚約者に浮ついた噂がないことを、エレノアは深く感謝していた。
「どうだか。調べてみないと分からないぞ」
「……絶対に調べないで、グレタ。お願い」
知らなければ存在しないのと同じだが、知ってしまえば元へは戻れない。
エレノアの表情が強ばる。グレタは悄然と肩を落とした。
翌日。先触れの知らせた時間通りに、レオンハルトはやって来た。
エレノアは婚約者の完璧なエスコートに身を委ね、城へと向かった。王城の正門をくぐり抜け、立派な紋章入りの馬車から石畳の上へ降り立つ。
巡回中の近衛騎士らが彼らに目を止めた。その視線に好奇の色を感じ、エレノアは背筋を伸ばした。
「もっとこちらへ」
何事かを囁き合う騎士達の眼差しから守るように、レオンハルトはエレノアを引き寄せた。
腰に回された手はあくまで優しく、だが有無を言わせない力強さを帯びている。
寄り添った彼の身体の硬さに、彼女は慄いた。深窓の令嬢であるエレノアは、男性に免疫がない。例外はジェラルドだが、これほど近い距離で接したことは大人になってからは一度もなかった。
ところが緊張に固まったのはエレノアだけで、レオンハルトは平然としている。
女嫌いという評判とはかけ離れた手馴れた様子に、エレノアは戸惑った。
「トランデシル様には、もしかして姉妹がおありですの?」
よく考えてみれば、夫となる人のことを何も知らない。エレノアは思い切って尋ねてみた。身近に異性がいたのなら、扱いに慣れていても可笑しくない。
「いや。残念なことに前伯爵の子は私一人だ」
「そう、ですか」
レオンハルトは謁見の間の前まで来ると、エレノアから手を離した。
赤く染まった彼女の頬にようやく気づいたようで、途端に秀麗な顔が顰められる。
「貴女が誰のものか知らせる為にやっただけだ。勘違いするな」
「……仰ってる意味がよく分からないのですが」
確かにエレノアはレオンハルトの婚約者だ。彼女が誰のものか、結婚式を挙げればすぐに周知となる。つい今しがた、彼女を抱き寄せたこととどう関係があるのか分からない。
「分からないのならいい。貴女に崇拝者がいなかった理由はそれだな」
容赦のない一言に、エレノアは唇を噛んだ。
「私を見下げることは仰らない約束ですわ」
レオンハルトは深々とため息をつき、髪をかきあげた。
「言ってない。今のはそうじゃない」
エレノアは更に追求しようとして、止めた。レオンハルトが困りきっているのが分かったからだ。
彼はおそろしく口下手なのだ。エレノアは心の中に書き留めた。
謁見の間に通されて程なく。グレアム王とリセアネ王妃が連れ立ってやって来た。
レオンハルトが儀礼的な挨拶と報告を済ませると、リセアネは生き生きと瞳を輝かせ、彼らを昼食に誘った。
「せっかくの朗報なのだもの。もっと詳しく聞きたいわ」
「いえ、ですが――」
一度は固辞しようとしたレオンハルトだったが、グレアムの「そう言うな。私も聞きたい」という口添えには折れるしかなかった。
最初からそのつもりだったのだろう。案内された晩餐室のテーブルには、すでに四人分の食器が並べられている。
給仕服を着たメイドの中によく知った顔を見つけ、エレノアは頬を緩めた。
エプロンドレス姿のグレタは、すっかり他のメイドに溶け込んでいた。従者姿も似合っているが、付け髪を結い上げた女性らしい格好の方がグレタの清楚な顔立ちをより引き立てる。
ダルシーザに行ったら、髪を伸ばすよう助言してみよう。エレノアは機嫌よく席についた。
エレノアがこうして王夫妻と食卓を囲むのは初めてではなかった。王城で暮らしていた頃、何度も招かれたものだ。リセアネは賑やかな食事を好んだ。
『陛下とニ人きりだと、私ばかりが喋る羽目になるのだもの』
愛らしく唇を尖らせる王妃を、グレアムは愛しげに見つめ反論する。
『違うだろう。リセが私に口を挟ませないのだろう?』
深い信頼関係に結ばれた二人のじゃれ合いを見るのは楽しかった。部外者であるエレノアの胸に羨望がなかったとは言わないが、それより仲睦まじい夫婦を見られる喜びの方が優った。世の中捨てたものじゃないと思えた。
そんなわけでエレノアは落ち着いて料理を味わうことが出来たが、レオンハルトは食欲が湧かないらしい。なかなか減らない皿の中身に、リセアネは小首を傾げた。
「口に合わなかったかしら? レオンハルトはどんなものが好きなの?」
「そんなことはありません。美味しいですよ」
リセアネの声に弾かれるように、レオンハルトはフォークを動かし始める。彼の優雅な物腰は崩れなかったが、エレノアは何だか可笑しくなった。
彼はリセアネ様が苦手なのだ。心のメモ書きに、また一つ項目を付け加える。
「それで、エレノアを見初めたきっかけは? レオンハルトの花嫁探しが急に始まったのは何故?」
リセアネは遠慮なく聞きたいことを聞いていく。
グレアムも身を乗り出して、レオンハルトの返答を待っていた。
「誰よりも美しかったからです」
レオンハルトは渋々答えた。心からそうは思っていないと誰にでも分かる言い方だった。リセアネの瞳が物騒に光る。
「それに……年がきたからです」
エレノアは危うく噴き出しそうになった。自分が彼に言った台詞と同じだったからだ。
笑いを噛み殺す為、ナプキンで口元を抑えた婚約者を、恨めしそうにレオンハルトが見る。
二人は視線を合わせ、どちらからともなく微笑んだ。レオンハルトのそれは、正確には唇の端を歪めた、といった感じだったが、エレノアには充分だった。
私たちはおそらく同じやり取りを思い出している。
エレノアはたったそれだけで、胸を圧迫する程の幸福感を覚えた。
父に制限された人付き合いの中、彼女が心置きなく友人と呼べたのはグレタだけだった。
リセアネのことは敬愛しているが、彼女はあまりにも身分が高すぎる。フェンドルの王妃になる前も、大国サリアーデの王女だった方だ。友と呼ぶのは不敬に当たる気がした。
「ふぅん。いつの間に仲良くなったのかしら」
リセアネは不満を隠そうともせず、目の前の子羊のソテーにナイフを突き立てた。
「そう寂しがるな。仲睦まじいのはいいことだろう?」
グレアムは妻を宥め、それからレオンハルトをしみじみと眺めた。
「それにしても、お前が結婚とはな」
「私にも義務がありますので」
「ああ、それは分かる」
グレアムはレオンハルトの置かれている状況に理解を示した後、表情を改めた。
「エレノア嬢は賢く、申し分のない女性だ。不幸にするなよ」
「分かっています。それにもう、嫌というほどランズボトム公から釘を刺されました」
リセアネは「当たり前よ」と声を上げ、ナイフをテーブルに戻した。
「言っておくけれど、私もエレノアの味方よ。レオンハルトにどんな事情があるにせよ、選んだからには腹を括って欲しいわね。過去は過去として、けじめをつけたと思っていいのよね?」
リセアネの意味深な言葉に、エレノアは不安をかき立てられた。
今のはどういう意味なのだろう。
「私にけじめをつけるほどの過去はありませんよ」
レオンハルトはリセアネをまっすぐに見つめ返し、それからエレノアに視線を移した。
動揺に気づかれる前に、慌てて平然とした表情を繕う。
素知らぬ顔で茶器に手を伸ばしたエレノアを、レオンハルトはいつまでも見つめていた。