7.レオンハルトの戸惑い
エレノアへの申し込みは、果たして正解だったのだろうか。
ランズボトム邸から自宅へ向かう馬車の中で、レオンハルトはこめかみを押さえた。
結婚は人生の墓場とはよく言ったものだ。
だが、貴族の嫡男としての責任は果たさなければならない。次男に生まれていればどんなに良かっただろう。仕事だけに打ち込み、生涯独身でも何も問題はなかった。
レオンハルトの父は母に対して誠実だった。愛はなかったかもしれないが、不貞を働いた様子はどこにもない。婚外子でも見つかってくれないか、と随分前に調査したことがある。結果分かったのは、トランデシル伯爵家の直系男子は己しかいないということ。どうあっても、結婚の義務から逃れることは出来そうにないということだった。
申し込んでしまったものは仕方ない。
レオンハルトは気を取り直し、足を組み替えた。
エレノアは賢い娘だ。話が通じそうなところは、特筆すべき美点だと思っていいだろう。結婚生活に突入する前に、しっかりとした取り決めを交わせるのなら、願ったり叶ったりではないか。
従順な女を好む男なら、生意気すぎると顔をしかめるかもしれないが、レオンハルトが求めているのは理性ある伴侶であって、意思のない人形ではない。
そうだ。これでいい。
彼女が美しすぎることや、ユーモアに満ちた勤勉な女性であることは、この際頭の外に追いやるべきだ。
私は父と同じ轍は踏まない。
レオンハルトはようやく心の平穏を取り戻した。
プロポーズから次の訪問まで間を空けるのは失礼に当たる。彼は自宅に戻ってすぐ、次の訪問伺いの手紙を書いた。そして三日後。レオンハルトはエレノアと正式な婚約を交わした。
「娘が貴公でいいと言うのなら、私に異存はない」
どう見ても異議のありそうなランズボトム公爵から、持参金などが記された書類を渡される。
エレノアの持参金は莫大だった。金貨だけでなく、王都近くにある領地の一部もそれに含まれている。あくまでそれはエレノアの財産だ。子がないまま彼女が離縁されるか没するかすれば、土地の所有権はそのままランズボトム家へと戻る。
一人娘をどれほど大事にしているかひと目で分かる記載に、レオンハルトは言い知れぬ気持ちになった。自分は間違ったことをしているのではないか。一瞬よぎった不安を無理やりぬぐい去る。
「私が彼女を虐待することはありません。妻として尊重することを剣にかけて誓います」
「貴公の誓いに興味はない。あれが酷い目にあえば、私にはすぐ分かる。たとえダルシーザで暮らしていようと、だ」
持参金には、従者や侍女も含まれている。
エレノアの背後にひっそりと控えていた若い男を思い出し、レオンハルトは口角を引き上げた。
三大公爵家に許された特権の一つに、『密偵』の存在がある。ランズボトム家にも優秀な『犬』がいる筈だ。気配を完璧に消すことが出来る従者。あの中性的な青年がおそらく義父の耳になるのだろう。
護衛役にしては細すぎると思ったが、見かけ通りではないのかもしれない。彼らの力は、戦場や一騎打ちで発揮される類のものではない。どこにでも入り込み、親切な隣人の顔をして標的を懐柔する。殺人や傷害は王家との約定により禁じられているが、正当防衛や身内の不始末に手を汚すことは黙認されているという。
「心に留めておきます」
うっすらと笑んだレオンハルトを見て、ランズボトム公は苦虫を噛み潰したような顔になった。
その後引き合わされたエレノアは、始終落ち着いた態度でレオンハルトの要望に相槌を打った。
嫡男が欲しいこと。産めない場合は、レオンハルトが外で子を作ること。婚外子を引き取り、エレノアが実子として養育すること。子が生まれればすみやかに愛人契約を破棄するので、エレノアの立場が脅かされる恐れはないこと。
エレノアの持参金は好きに使っていいこと。入用のものがあればレオンハルトが準備すること。どうしても外せない社交以外は、エレノアは自由に過ごして良いこと。
条件を事務的に述べていくレオンハルトに驚く様子もなく、エレノアは真面目な顔つきで頷き、時々質問を挟んだ。その質問も非常に実務的で、感情的なところは一切なかった。
「後継の養育を果たし、伯爵夫人にふさわしい振る舞いを守れば、その他は好きにして良い、ということですのね? トランデシル様が必要以上に干渉してくることはない、と」
「ああ、そういうことだ。莫大な費用がかかるものでなければ、貴女は私の許可なしに何でも欲しいものを購入出来る。そしてこれが一番重要なのだが――」
レオンハルトは冷淡な眼差しで、値踏みするようにエレノアを見た。
「私が貴女を愛することはない。尊敬や友情はもしかしたら抱けるかもしれないが、物語や詩にあるような馬鹿げた幻想を抱くことはお勧めしない」
エレノアは予想していたとでも言いたげに、おっとりと儀礼的な微笑みを浮かべた。
前に見たあの悪戯っぽい笑みではないことに、レオンハルトは不快感を覚える。誰かのとってつけた愛想笑いが気に障ったのは、これが初めてだ。
「それを聞いて安心しました。努力で改善出来るものと、出来ないものがございますものね」
エレノアは完璧な淑女の笑みで、レオンハルトを刺した。
自分から言い出したことなのに、同じく無理だと暗に告げられ、腹の底がむずむず蠢く。
思い切り泣かせてやったらどんなに気がすくだろう。大粒の涙を流しながら蹲るエレノアを想像し、レオンハルトは溜飲を下げた。実際にはそうなったら困る。ヒステリックに泣き喚く女は、レオンハルトの最も嫌悪する対象だった。
エレノアの要望は、植物の研究を続けさせること。あれこれ指示したり干渉したりしないこと。エレノアに対し、見下げるような言動を取らないことの三つだった。
「具体的にどんな言動か聞いてもいいか? 知らずに貴女を傷つけるのは、私も避けたい」
レオンハルトは警戒を高め、質問した。
いちいち揚げ足を取られ、責められては敵わない。
今のところ、エレノアに対し感心はしても不足を感じたことはなかった。本意ではないことで、勘違いされるのは面倒だ。
「……そうですわね。たとえば――」
エレノアは長い睫毛を伏せ、艶やかな唇をゆっくり開いた。明らかに言いにくそうだ。
「『そんなことにうつつを抜かしているから、行き遅れるのだ』とか『いくら屋敷の中とはいえ、みっともない服装をするんじゃない』とかかしら。土いじりをする時、私は動きやすさを重視した簡素な服を着ます。もちろん、お客様がいらっしゃれば着替えて応対しますわ。……あとは、資料を読むのに時間がかかります。すぐに飲み込めないことが多いのです。悪筆ではないつもりですが、飾り文字にセンスがないそうです。相手を楽しませる話術にも自信がありません。私の話はつまらないそうです。あとは……」
彼女の表情が次第に歪んでいく。
どんどん小さくなっていく声に、たまらずレオンハルトは口を挟んだ。
「分かった、もういい」
エレノアは震える手を握り締め、殊更にっこりと微笑んだ。まるで気力を奮い立たせるような精一杯の虚勢に、レオンハルトは怒りを覚えた。
誰かが彼女の欠点をあげつらってきたのだ。それもおそらく幼少期から長い間。
グレアム王の結婚式の日のことを思い出す。
彼女はピンと背筋を伸ばしていた。王妃になれなかったことを微塵も恥じていないように見えた。それでも何も感じなかった筈はないのだと、この時レオンハルトはようやく思い知った。
エレノアは少しづつ諦めてきたのだ。
完璧な公爵令嬢を演じながら、彼女は自分の欠損を心の中で指折り数えていた。
「そんなことなら簡単だ。貴女の要望を飲もう」
「簡単、ですか?」
エレノアは驚きに目を見開いた。
レオンハルトは視線を逸らし、言い訳がましく補足した。
「植物の研究には、知識も根気もいる。貴女の志は陛下から伺った。その……なんだ。悪くないと思う。いつになるか分からないが、痩せた土地でも麦が育つようになれば餓死者が減る」
「……はい」
エレノアは訝しげな表情のまま、こくりと頷く。
「動きやすい格好をすることも別段悪いとは思えない。婚期が遅れたのは貴女の過失ではなく、父君のせいだし、戦争のせいだ。何もなければ貴女が次期王妃だった」
「あの……こんな事を言うと父に叱られてしまいますが、私は王妃になりたかったわけではありません。陛下の隣に立つのがリセアネ様で良かったと思っています」
エレノアに視線を戻すと、彼女は心細げな光を瞳の奥で揺らしながら答えた。
それが正直な気持ちなのだろう。リセアネ王妃には苦手意識が消えないが、確かに彼女は強くしたたかだ。サリアーデという大国を背後につけてもいる。同盟がより強固になったことを思えば、最善の道だったと認めざるを得ない。
彼女がグレアムを慕っていたわけではないと知り、レオンハルトは奇妙な安堵を覚えた。
「資料をじっくり読むのは良いことだし、あとは……何だったか」
エレノアの言葉を思い出そうと考え込んだレオンハルトを見て、彼女は堪えきれないように破顔した。
無邪気な笑みが、取り澄ました美貌を一気に幼くする。
「私の戯言全てに、擁護意見を述べて下さるおつもりですか?」
華やいだ声に、レオンハルトも釣られて微笑みそうになった。
慌てて表情を引き締め、眉をあげる。
「まさか。ただ、主観をはっきりさせただけだ」
「主観を、はっきり、させる」
エレノアは繰り返し、くつくつと笑った。
よく笑う娘だ。抗議しようかと考え、まあ笑うくらいどうということはない、と思い直す。泣き喚くよりは幾分マシだろう。これくらいなら我慢出来る。
レオンハルトはため息を噛み殺し、エレノアが落ち着くのを待った。