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6.従者グレタ

 レオンハルトを見送った後、エレノアの護衛役であるグレタは庭へ戻った。

 機嫌が良い時の主人が好んで訪れるいつもの温室に、やはりエレノアはいた。

 おろしたての豪奢なドレスを纏っているにも関わらず、しゃがみこんで鉢の様子を見ている。裾はすでに土まみれだ。更には膨らんだスカート部分が邪魔らしく、たっぷりとしたシルク生地を片側にまとめ寄せ無造作に結んでいる。そのせいでちらりと覗いた足首がひどく艶かしい。エレノアは完全に無防備な状態だった。

 グレタは音もなく温室に滑り込み、彼女の背後に立った。


「お客様は、つつがなくお帰りになられました」

「ありがとう」


 特に驚いた風もなくエレノアは答え、膝においていた手袋をグレタに渡した。


「こんな絹の手袋じゃ土に枯葉を混ぜられないわ。その辺に軍手はない?」


 王立研究所を辞めてからもエレノアは独自に研究を重ねている。

 痩せた黒土でも、麦や芋など民のお腹を満たす植物が育てられないものか。それがエレノアの最大の関心事だった。同じ土を鉢に入れ、それぞれ育成条件を変えて同じ種を植えてみたり、違った種類の掛け合わせを試してみたり。すぐに結果が出ることもあれば、なかなか上手くいかないこともある。品種改良ともなれば年単位の時間がかかる。エレノアにはそれが面白くて堪らない。

 不実な人間とは違い、植物は正直だ。人を騙すことも欺くことも、傷つけることもない。ただそこにあり、有益をもたらしてくれる。ちっぽけな草にさえ確かな役割がある。エレノアにとって庭や温室は、地上の楽園だった。


「どうぞ。メモが必要ならお手伝い致しますが」

「そうね。枯葉と水の分量、時間、日の差し具合を今から言うわ。書き留めておいてくれる?」

「畏まりました」


 軍手をはめたエレノアがきびきびと口にする数字を、グレタは温室に置いてある記録帳へつけていった。羽ペンの先が潰れかけている。インクも補充しておかねば。

 主人の気がつかない部分を補佐するのが自分の役目だ。

 ある程度の作業をこなし、エレノアはようやく立ち上がってグレタに向き直った。額にはうっすら汗をかいている。グレタは汚れた軍手を受け取る代わりに、真っ白なハンカチを差し出した。水筒にはレモネードを作ってきている。


「そろそろ休憩しませんか、お嬢様」


 水筒を掲げて見せると、エレノアは花開くような眩い笑みを浮かべた。


「いつもありがとう、グレタ。……ところでその気持ち悪い敬語、いつまで続けるの?」

「なんだ、気づいてたのか」

「そこまでぼんやりじゃないわよ」

「土いじりしてる時のお嬢は、人が違ってるからなぁ」


 グレタも混じりけのない笑みを返し、エレノアと肩を並べて温室を出る。少し離れたところにある東屋へ向かい、そこで二人は喉を潤した。

 

 グレタは、ランズボトム家に雇われている密偵だ。正確には、密偵シークの養い子。

 下町の路地裏に捨てられていた孤児を、シークは拾って後継者として育てた。結婚をしない彼らは、そうして世代を繋ぐのだ。

 ランズボトム家には二人の子供がいる。長男ジェラルドの為に男児を、そして長女エレノアの為に女児を、それぞれシークは用意した。普段従者の格好をしているが、グレタはれっきとした女だ。

 エレノアと最初に引き合わされたのは、グレタがシークに引き取られてから10年後のこと。

 自分の誕生日を知らないグレタの年を決めたのはエレノアで、名前をくれたのもエレノアだった。

 それまでシークからも義兄からも「おい」としか呼ばれなかったグレタは、エレノアに出会って初めて『人』になった気がした。

 彼女らは一目で互いを気に入った。グレタというのは、古代フェンドル語で「花」という意味だ。後になってそれを知ったグレタは、エレノアの自分を呼ぶ声がますます好きになった。


「で? ほんとにあのいけ好かない貴公子様と結婚するつもり?」

「ええ。彼は王国の盾と呼ばれてる軍人よ。少なくとも、約束を破ったりはしない方だと思うの。きちんと取り決めに従い、予想した通りの実績をあげること。彼が妻に望んでいるのは、おそらくそんなところだわ。そういう方なら、信頼できると思うのよ」


 エレノアは形のいい顎に指をあて、思案げに答えた。


「私の提案を呑んで下さるのなら、その後の生活にさほどの不安を抱かなくて済む相手じゃないかしら。しかも、彼はダルシーザの宗主。復興の為に全力を尽くしているという話を陛下や王妃様からも聞いたことがあるわ。ダルシーザはフェンドルよりもうんと厳しい土地みたい。研究を進めたい私と彼の利害は一致している。……そうは思わない?」


 あくまで理詰めで話を進めていく主人を、グレタは割り切れない思いで見つめた。

 出会ったばかりの少女の頃、エレノアはまだこうではなかった。両親の不仲に胸を痛め、いつか自分が結婚する時はお互いを心から慈しむ夫婦になりたい、と語ってくれたこともある。

 

『子供が産まれたらね。旦那様と二人でうんと可愛がるの』

 

 はにかみ気味に浮かべられた柔らかな笑みを、グレタは今でも覚えている。

 大人になるにつれ、エレノアは変わっていった。

 瞳に宿っていた希望は薄れ、代わりに諦めと達観が彩るようになった。凛と上げられた美しい顔から、日に日に表情が消えていく。

 どれほど努力を重ねても、彼女の父であるランズボトム公爵は決して娘を褒めようとはしなかった。

 

『出来て当たり前だ。お前はランズボトム家の娘なのだから』

 

 突き放すように言われ身を縮めるエレノアを、グレタは遠目に見ることしか出来なかった。エレノアが失敗すれば、母である公爵夫人が叱られた。

 

『お前がそんな風だから!』

 

 妻への叱責は、わざとエレノアの目前で行われた。多感な少女には、どれほどの罰だっただろう。

 だからグレタは、今でもランズボトム公爵が嫌いだ。決して口にしたことはないが、早くエレノアが父から離れ、この家を出られればいいのにと思ってきた。

 王に選ばれなかったのは幸いだ。ランズボトム公の過剰な期待に、死ぬまで応えなくてはならなくなるエレノアなど見たくない。冷え切ったエレノアの心を癒してくれる優しい男性が、いつか彼女を救ってくれるのではないか。グレタは希望を捨てられずにいた。

 グレタが心に描いていた救いの騎士は、間違っても『氷の猛将』なんかじゃない。あの男はどう見ても、ランズボトム公の亜種だ。

 あれほど心無い結婚申し込み(プロポーズ)があるだろうか。思わず失笑してしまったくらいだ。


 エレノアの言葉に反論したい気持ちは山々だったが、このままでは彼女は修道院へ去ってしまう。

 エレノアに請われれば、グレタは家を抜け出す手伝いさえするだろう。彼女の命はグレタにとって絶対だった。エレノアはグレタを『私の大切な親友』だという。グレタの常識で、それは有り得ない。彼女が死ねと命じれば死ぬ。二人きりの時の気安い口調も、エレノアが望むから。グレタはそんな風に育てられてきた。

 だが献身した娘への特別扱いを許さない教会は、従者であるグレタを共に受け入れてはくれないだろう。彼女を一人にすることも、彼女のかつての夢を潰えさせることも、グレタには我慢できなかった。

 今はあの冷血人間を頼るしかないのだと思うと、忌々しくてならない。


「お嬢の望むままに。どんな道を選ぼうと、私は最後までお嬢の傍にいる」

「……ダルシーザにいけば、グレタもシークの呪いから解放されるかもしれないわね」


 エレノアは謎めいた台詞を口にし、するりとグレタの腕に自分の腕を絡めた。


「私たちだって、そろそろ籠から出てもいいはずよ。自分の思うままに生きる為に、ある程度の代償を払うのは当たり前だわ」

「お嬢の言うことは難しすぎて、私には分からないよ」


 グレタは途方に暮れた。

 ナイフも弓も剣も、人を害する術なら嫌という程知っている。非力な女にも出来ることはあると養父は教えてくれた。

 だが、肝心のことは何も知らない。ランズボトム公を殺したって、トランデシル伯を殺したって、エレノアはきっと幸せにはならない。

 主人の将来を憂うグレタを、シークはいつも叱った。

 『分を越えた真似はみっともない。主人の道具であることに誇りを持て』と。

 誇りは持っている。

 彼女がどんな決断を下そうと、エレノアが『花』と呼ぶ自分は、これからも彼女を微笑ませる為だけに全力を尽くす。


 

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