明日へと続く道(後編)
エレノア懐妊の吉報はあっという間に城中を駆け巡った。
モンテサント夫人はレオンハルトに命じられ、早速乳母を探し始めた。ゲルト人でもフェンドル人でも構わない、人柄の良い女性なら、と宗主夫妻が口を揃えて言ったので、城住みの補佐官の中に身重の身内を持つ者がいないか聞いて回ることにする。
結果、ダニエル・クリストフの従姉妹が選ばれた。アデラ・コーンウェルの夫はフェンドル人で、監察警備隊に勤めている。殆ど家にいない夫の留守を守り、ハージェスの借家で一人暮らしている従姉妹を、ダニエルは何かと気にかけていた。
「城に召し上げて頂けるのなら、こんなに有難いことはありません。アデラは親戚の私が言うのもなんですが、気立てがよく優しい娘です」
喜ぶダニエルに、執務室に居合わせた面々も顔をほころばせる。
「コーンウェル夫人のご両親は、ペイゼル地区にいらっしゃるの? 城へも是非遊びに来て頂きたいわ。お孫さんが見たいでしょうし」
ダニエルの父親が領主を務めている地区の名をあげ、エレノアが微笑む。
彼女は、最近宗主の執務机の脇に設けられた一人掛けソファーに座っている。エレノアが気軽に訪れられるように、とレオンハルトが運び込ませたのだ。
ゆったりと広いそのソファーにエレノアが収まると、宗主の機嫌は目に見えて良くなる。エレノアはそこで、産まれてくる子供の靴下や帽子を編んだり、研究論文を読んだりした。
「いいえ。アデラの両親は、彼女が十五の時に処刑されました。重税を払えない領民を裏で支援していたことが、親皇帝派に知られ、密告されたのです。目障りな羽虫め、と皇帝は笑って、それで――」
「ごめんなさい。迂闊に聞くのではなかったわ」
エレノアは心を込めて謝罪した。腹の底が怒りで煮え立つ。羽虫ですって? よくもそんなことが。
きつく拳を握り締めるエレノアに気づいたレオンハルトは素早く手を伸ばし、彼女の手をほどかせた。
ダニエルは曇らせた顔を明るくし、勢いよく首を振った。
「いいえ、こんな話はごろごろしてるんです。エレノア様は気にしないで下さい。優しい叔父でした。父とも仲が良かったので、父がアデラを引き取りました。ペイゼル地区に赴任してきたコーンウェルと知り合ってあっという間に恋仲になって、一昨年ハージェスへ来たんです。父も案じていたので、きっと喜ぶと思います。早速知らせます」
「ああ、それがいい」
レオンハルトは言って、エレノアを見遣った。
「コーンウェル夫人が傍にいれば、何かと相談し合えるだろう。良かったな」
「はい」
レオンハルトが乳母探しを急がせたのは、初めての妊娠で神経質になっているエレノアの負担を減らす目的もあった。夫の親身な気遣いに、エレノアは瞳を潤ませた。
小さな旅行鞄を一つ下げて城へやってきたアデラは、初めてエレノアに引き合わされた時、震えていた。
身分の高い者の残酷さは、嫌というほど身に染みている。従兄弟も、手紙で打診を知らせた夫も、良い話だと手放しで喜んでいたが、本当のところはどうなのだろう。不安と恐怖で足が竦む。
「初めまして、奥方様。アデラ・コーンウェルと申します」
膝をつかんばかりに頭を下げたアデラは、次の瞬間、ふわりと優しい温もりに包まれた。
エレノアが同じようにかがみ込み、彼女の両手を取っていたのだ。
「初めまして、コーンウェル夫人。私はエレノア・トランデシルです。急な頼みだったのに、こうして来て下さって本当に嬉しいわ」
開けっぴろげな笑顔は、心からの歓迎に満ちている。
ぽかんと固まったアデラはその後、エレノア直々によく整えられた広い一室に案内され、更に度肝を抜かれた。
「こちらを使って頂けたらと思うの。足りないものがあったら、遠慮なく仰ってね」
「いえ、あの、このような立派な部屋を頂くわけには――」
アデラは必死に言い募った。
「何か誤解があるのかもしれません。私の父は次男で爵位持ちではありませんでしたし、罪人として処刑」
されたのです、と最後まで言うことは出来なかった。
エレノアが燃えるような瞳でアデラを見据えたからだ。彼女は激しく怒っていた。とっさに身を竦めたアデラは、直後耳を疑った。
「本当に素晴らしいご両親だと思います。そんなご両親に育てられたコーンウェル夫人を粗末に扱ったら、私にもきっと罰が当たるわ」
思ってもみない言葉に、アデラは打たれた。しばらくしてようやく何を言われたか理解し、アデラは短く息を吐く。彼女の喉を熱い塊が塞いだ。
悲しくて胸が張り裂けそうだった当時、手のひらを返すように周囲から人がいなくなった。絶望にかられ思い詰めたアデラを伯父が迎えにきてくれなかったら、彼女は死を選んでいただろう。伯父や亡くなった伯母、ダニエル、そして夫のおかげでこうして人並みの幸せを得ることが出来た今も、アデラは権力者の暴力に怯え続けていた。そんなアデラに、エレノアは寄り添おうとしてくれている。
「もったいない、お言葉です」
アデラは、ようようそれだけを口にした。すぐには信じられない。期待すればするだけ、違った時の絶望は深いと知っているアデラは、降って湧いた幸運を前にしても動くことが出来ない。
エレノアは痛ましげに瞳を細め、「貴女たちをそんな風に歪めた者が、憎くてたまらないわ」と吐き捨てた。そして、すぐに傍付きの従者に窘められる。二度見せずにはいられない、不思議な魅力を備えた美青年だ。
「奥方様。コーンウェル夫人が困っていますよ」
高めの柔らかな声で従者が言うと、エレノアは深呼吸を繰り返した。
「ごめんなさい。なんでも妊娠のせいにしてはいけないけれど、最近すぐに感情が高ぶってしまって。自制心が行方不明なの。コーンウェル夫人は、そういうことはなくて?」
アデラの方が週数は進んでいる。
長いこと立たせていてはいけない、とエレノアはアデラを長椅子に座らせ、自分も隣に腰掛けた。
「アデラ、で結構でございます。奥方様」
「ありがとう、アデラ」
大輪の薔薇を思わせるエレノアの笑顔に、アデラはぼんやり見蕩れた。
そしてひと月も経たないうちに、アデラはすっかりエレノアの虜になった。アデラの新しい主人は情け深く、そして愛したがりだった。アデラが恐る恐る心を開いていく度、エレノアは無邪気に喜んだ。
それからは、お互いの不安を打ち明け合い、きっと大丈夫だと励まし合った。
エレノア付きのメイド達も、ゲルト民のアデラをその血で隔てず、同志として熱烈に歓迎した。くだんの従者が女性だと知った時、アデラは興奮した手紙を夫に送った。楽しげな日々がありありと浮かぶ妻からの手紙に、コーンウェルも幸せを噛み締めた。
アデラが予定日通りに男児を出産したそのひと月後、エレノアは女児を産み落とした。
若いアデラと違い、エレノアの出産にはひどく時間がかかった。
青ざめたレオンハルトは産屋となったエレノアの寝室の隣から、動こうとしなかった。
きつく握り合わせた両の拳を額に押し当て、祈る。神よ、どうか妻を連れていかないでくれ。
あらかじめ医師には、母体を優先するよう伝えてあった。どんなにエレノアが懇願しようと、いざという時は子を切り捨てる覚悟で、レオンハルトはその日を迎えた。
もちろん両方無事であって欲しい。だが、天秤にかければどうしてもエレノアに傾く。レオンハルトにとってエレノアは、すでに生きる理由だった。彼女がいるから陽は昇るし、彼女がいるから一日を満たされた気持ちで終えることが出来るのだ。
錯乱したレオンハルトが壮大なポエムを胸の中で綴り始め、その数が百を超えようという段になって、ようやく寝室の扉が開く。
「女のお子様でした」
「エレノアと子は、無事か!?」
レオンハルトは疲れきった様子の産婆の両肩を揺さぶった。
「はい。奥方様もお子様も、大事ありません。もちろん安静にはして頂きますが――」
最後まで聞かないうちに寝室に駆け込もうとしたレオンハルトを、グレタが必死に止める。
「宗主! お待ちください。後産が済んでおりません。部屋を清めるまで、いましばらくお待ちを!」
開いた扉の向こうから、猫の仔のような鳴き声が聞こえる。
我が子が泣いているのだ、と遅れて気づき、レオンハルトはとっさに片手で目元を覆った。
「……二人共、無事なのだな、グレタ」
何度でも確認せずにはいられない。
長いお産に立ち会ったグレタもまたくたくただったが、レオンハルトの気持ちは痛いほど分かった。優しい声で、辛抱強く繰り返す。
「はい、大層お疲れではいらっしゃいますが、大事ありません。お子様もふっくらと健やかで、大変可愛らしくいらっしゃいます」
「……そうか」
そうか、と繰り返しながら、レオンハルトはソファーに戻った。腰を下ろし、背もたれに全身を預ける。油断すると泣いてしまいそうだ。レオンハルトは襲ってくる強い感傷と懸命に戦った。
ようやくエレノアと我が子に会えたレオンハルトは、感激のあまり、すぐに言葉が出せなかった。
大量の汗をかいたのだろう。清められた後のエレノアの髪は濡れ、ほつれている。寝台の隣に置かれた揺りかごには、糸目の赤ん坊が難しげな顔をして眠っていた。小さい。それにすぐに死んでしまいそうな程、弱々しい。新生児を初めて見たレオンハルトは衝撃を受けると共に、激しい庇護欲にかられた。
エレノアが産んでくれた、我が子だ。私の、子供だ。溢れんばかりの愛しさで、息が出来ない。
新しいシーツの上にぐったりと横たわったエレノアは、無言で立ち尽くす夫を見上げ、弱々しく微笑んだ。
「ごめんなさい」
レオンハルトは耳を疑った。
激しい痛みに叫び続けたせいか、エレノアの声はひび割れている。
「男の子ではなかったわ」
「それがなんだ」
レオンハルトはきつい口調になるのを止められなかった。
出産を終えたばかりのエレノアにこんなことを言わせる状況全てが許せない。妊娠が分かってからというもの、レオンハルトは何度もエレノアに言った。男でも女でも構わない。無事に生まれてくれたらそれでいい、と。だが、エレノアが感じる無言の圧力を完全に取り除くことは出来なかったらしい。己の無力さが情けない。
「可愛い子だ。この子で良かった」
レオンハルトはきっぱりと断言する。
「男でなかったことを理由に、貴女や娘を責める者がいたら、私はその者を殺す」
真っ先に殺されるのは、自分の父だろう、とエレノアは思った。それとも僅差でお義父様かしら。
それからゆっくりと手を伸ばす。
レオンハルトは両膝をつき、彼女の右手を両手で包んだ。
「……ありがとう、レオン」
エレノアのはにかみを含んだ声に、レオンハルトの敷いた鉄壁の防御網は容易く突破された。
陽が落ちきってしまうまで庭で一人、剣を振り回していた少年時代。冷え切った屋敷に戻るのが嫌で泣いたのが、最後だ。惨めさと共に涙を拭ったあの日以来、レオンハルトは泣くのをやめた。誰かに愛情を期待することも、エレノアに出会うまでは止めていた。
エレノアはこの日レオンハルトが泣いてくれたことを、後になって何度も思い出しては、幸せに浸った。
エレノアの産んだ娘に、レオンハルトはジョセフィーナと名付けた。
ジョセフィーナ、通称ジョゼは生まれた時から、幸運な子供だった。
両親だけではなく、乳母やメイド達、それにもちろんグレタ。モンテサント夫人にダニエル達。大勢の人の愛情を浴びるように受けて育つのだ。愛情は、甘やかしと同義ではない。エレノアはそう自戒しながらも、赤ん坊のうちは手放しで可愛がっていいのではないかと思ってしまう。
アデラの産んだ子も、同じように愛されて育った。マルクと名付けられたその男児を、レオンハルトでさえ何かと気遣い、覗きに来る。
二人の赤ん坊のおかげで、城はますます賑やかになった。
そして半年後。
ころころと丸くなり、少しの間なら座っていられるようになったジョセフィーナを見に、ランズボトム公爵夫妻がやってきた。
同じように知らせを出したのだが、レオンハルトの父は「男児が生まれたら見に行きます」という手紙を寄越しただけだ。義父の命を守るため、エレノアはその返事をすぐに燃やしてしまった。
五年ぶりに会った父は、エレノアの記憶の中の父と変わらなかった。皺は少し増えただろうか。だがその皺すら魅力に変え、相変わらずの美丈夫っぷりを保っている。
アシュトンはマナー通りの挨拶をレオンハルトと交わし、客室におさまった。
ミリュエルとは頻繁に文通しているが、アシュトンとはすっかり疎遠になっている。エレノアは気まずい思いを抱えたまま、娘を連れに戻った。
五年という歳月は、エレノアの苦い過去を思い出に変えている。厳格で見栄っ張りで、いつもエレノアに辛く当たった父への恨みも風化してしまった。レオンハルトとの幸せな日々が、これまでの人生を軽やかに踏み越えていく。彼女の世界の中心は、父ではなくなっていた。
出迎えの時、エレノアはジョゼを連れていなかった。
季節は晩秋を迎えている。冷たい外気に生後半年の赤ん坊を長時間触れさせるわけにはいかない。だがそれは表向きの理由で、本当は父のがっかりした表情をみたくなかったから。
父もレオンハルトの父と同じく、男児を期待していた筈だ。手紙で女児だったと知らせてはある。だが、それを聞いて父がどんな反応を見せたのか、エレノアは知らない。
『貴女のお父様も大層喜んでいるわ』そう、ミリュエルもリセアネも伝えてくれた。彼女達はエレノアを気遣っているに違いない。あの父が素直に喜ぶところなど、エレノアには想像も出来なかった。
アデラに抱かれ、機嫌よく木の玩具をしゃぶっていた娘は、迎えに来たエレノアを見ると満面の笑みを浮かべ喜んだ。
「行ってくるわ。健闘を祈っていて、アデラ」
「きっと大丈夫ですわ、奥様。万が一酷いことを言われたら、よく効く呪いをお教えします」
アデラはジョゼと一緒に行きたがってむずかるマルクを抱え上げ、ゆらゆらと揺らしながらそんなことを言った。
「まじない?」
「ええ。モンテサント夫人に教わったのです。なんでも、呪うお相手の方が男性であれば、頭の毛が全て抜けてしまうのですって」
エレノアは思わず噴き出した。母が笑ったので、ジョゼも一緒にきゃっきゃと声を立てて笑う。
「そんなことになれば、父はきっとすぐに鬘をこしらえるわ」
「公爵様ですもの、素晴らしい出来栄えの鬘を手に入れることでしょう。奥方様も安心して呪えますね」
「もう、アデラったら。これ以上笑わせないで」
くすくす笑いながら、エレノアはジョゼと共に客室へ向かった。
ふくふくとした孫娘を前に、ミリュエルは大はしゃぎだった。
「なんてかわいらしいんでしょう! ねえ、あなた!」
ミュリエルが興奮した様子で夫に同意を求める。反射的に、エレノアは身構えた。何を言われても傷つくまい、と心を固く閉じる。
ところがアシュトンは、感極まったように何度も口を開け閉めし始めた。
父の動転したところを、エレノアは初めて見た。
「黙っていないで、あなたも何とか仰って。ほうら、ジョゼちゃん、おじいちゃまですよ~」
業を煮やしたミリュエルが、エレノアから受け取ったジョセフィーヌを、無理やりアシュトンに押し付ける。
父は慌てて両腕を広げ、宝物を扱うように恭しい手つきで、赤ん坊を受け取った。それからゆっくりと自分の方を向かせる。
ジョゼは祖父をきょとん、と見上げ、「あー、あー」と意味のない言葉を発した。六ヶ月の赤ん坊がよく口にする喃語だ。
「……この子は、天才だな」
アシュトンは小さな声で、感動したように呟いた。
エレノアは内心盛大に驚きながら、「女の子でしたの」と念を押してみた。
「見れば分かる。こんなに愛らしく美しい赤ん坊が男であるはずがない」
アシュトンは自信たっぷりに言い放った。
エレノアは脱力し、ソファーの肘掛に思わずもたれかかってしまった。だがすぐにハッと気づき、背筋を伸ばす。客人の前で姿勢を崩すなど、貴婦人らしからぬ振る舞いだった。
「疲れているのなら、横になりなさい」
アシュトンには見られずに済んだと思ったのに、父は見逃さなかったらしい。ジョゼを楽しそうにあやしながら、そんなことを言ってくる。
エレノアはすっかり混乱し、助けを求めるように母を見た。
ミリュエルは、娘と孫娘、それから夫を順番に見回し、眩い笑みをたたえた。
これにて後日談も完結です。
お付き合い下さった皆様、本当にありがとうございました!




