明日へと続く道(前編)
エレノアの体調の変化に真っ先に気づいたのはグレタだ。
もともと生理周期が一定ではなかったエレノアなので、遅れているような気がする、程度で特に留意はしていなかった。期待しては落胆する。それを何度も繰り返したせいもある。
そんなエレノアが、体を締め付ける下着を嫌がるようになった。胸が張って痛むという。腰や下腹部にも痛みを感じる時があり、長時間の作業がきつくなった、と打ち明けられ、グレタは慌てた。
「医者を呼びましょう」
「いやね、そんな大層な話じゃないのよ」
疲れが溜まっているのかしら。しばらくのんびり過ごせば良くなるわ、などと言って微笑むエレノアに、グレタは拳を握り締めた。
「それで良くならなかったら? 何か大きな病の兆しかもしれません」
メイド達も不安げにグレタとエレノアを見比べる。
それまで健康だった人が、突然大病を得て亡くなることは希にある。そのことに気づき、メイド達もこぞって受診を勧めた。グレタもメイド達も未婚女性なので、妊娠の初期症状であるとは全く思いも寄らなかった。
すぐに呼ばれた医者はエレノアを診察した後、「しばらくゆったりと過ごし、決して無理はしないように」と告げた。そして来週また来る、と言って帰っていく。
その夜、話を聞いたレオンハルトは首を傾げ、隣に横たわったエレノアをじっと見下ろした。
「結局、何だったんだ」
「分かりませんの。今はまだ正確に判断できないから、もう少し待って欲しいのですって」
「何を判断するんだ」
グレタ達と同様、不安になったレオンハルトがしつこく食い下がってくる。
普段であれば、笑って「私も知りません」と答えるエレノアなのだが、何故だか無性に苛々した。同時に悲しくもなる。
「私は医者ではないわ。あなただってそう仰ったでしょう」
ぴしゃりと言い放ち、くるりと背中を向ける。
それから静かに泣き始めた。
驚いたのは、レオンハルトだ。自分の方を向かせようとしても、エレノアは頑として動かない。
「すまない。貴女が心配で、つい」
仕方なく彼女の背中を撫でながら、エレノアが泣き止むのを待つ。ようやく泣き止むと、「こんな面倒な女は、レオンの一番嫌いなタイプね」そう言ってエレノアは落ち込んだ。
次の日の朝はもっと酷かった。エレノアは目覚めるが早いか真っ青な顔で口元を抑え、寝台から降りた。洗面台にたどり着く前にしゃがみこみ、嘔吐してしまう。
レオンハルトは冷静な態度で妻を介抱したが、それはあまりの動転に表情筋が固まってしまったせいだ。内心は嵐が吹き荒れていた。青白い顔で寝台に横たわり、目を閉じた妻に、最悪の想像が頭をよぎる。
数多の戦場を駆けてきたレオンハルトは、人の生き死にについて達観した考えを持っている。生死を分けるのは運だ。弱いから死ぬとは限らない。そして、ラファエルの寄越した脚本の中にあった『冥府から妻を呼び戻そうとして失敗した哀れな男の話』を思い出す。馬鹿なことをするからだ、とその時は思った筈なのに、今は自分も同じ末路を辿りそうな気がしてならない。
レオンハルトは妻を診た医者を即刻呼びつけ、どういうことかと詰問した。
「奥方様の個人的な話ですので」
医者は面談室の扉を塞ぐように立っているグレタをちらりと見遣り、レオンハルトに人払いを求めた。
「あの者にも聞く権利があるんだ。気にするな」
レオンハルトは無表情でそれを退け、「で?」と問い直す。
壮年の医者は渋々、「妊娠の可能性があります」とレオンハルトに告げた。
「ですが、まだはっきりと診断を下せる段階ではありません。それに初期は子が腹に安定せず、流れてしまうことも多いのです。奥方様を刺激しないよう、優しく見守って下さい」
他にも細々とした『夫の心得』を授け、医者は退出していく。彼が扉の向こうに消えるのを待って、レオンハルトは立ち上がった。
「聞いたか?」
「聞きました」
グレタは歓喜と不安が入り混じった複雑な表情を浮かべていた。おそらく自分も同じような顔をしている。レオンハルトは思いながら、うろうろと部屋を歩き回る。とてもじゃないがじっとしていられない。
「……一週間は、長いな」
「本当にそうですね……」
エレノアの再診察は来週だ。それまで、二人は秘密を保守しなければならない。下手に知らせて糠喜びに終われば、エレノアの受けるダメージは計り知れない。
「宗主様がよろしければ、お時間のある時に訓練場へ行きませんか。思い切り体を動かせば、気が紛れるやもしれません」
「いい考えだ。すぐ行こう」
レオンハルトとグレタは早足で訓練場へ向かった。
レオンハルトが訓練場へ来るのは珍しいことではないが、エレノアの従者であるグレタがそこを使うのは、夜更け過ぎか早朝だった。訓練中の兵士達と顔を合わせることは滅多にない。やがてレオンハルトが先を潰した練習用の剣を二本取り上げ、一本をグレタに放り投げたものだから、兵士達はざわつき始めた。
グレタが男ではないと、今では皆が知っている。肩過ぎまで伸びた金茶色の髪をひとつに結わえ、彼女は剣を地面に突き立てると、手際よく防具を装着していった。篭手と胸当てをつけ、同じように準備を済ませたレオンハルトの前に進み出る。
「その剣で大丈夫か?」
レオンハルトに尋ねられ、グレタは困ったように眉を下げた。
「振るいなれているのは短剣ですが、長剣も使えないわけではありません。ただ、宗主様のお相手には不足かと」
「慣れている剣を使ってもいいぞ」
レオンハルトは鷹揚に答えたが、「ではお言葉に甘えて」とグレタが愛剣を取って戻ってくると真顔になった。肉厚で幅の広い刃剣が二振り。グレタが双剣使いであることを、レオンハルトは初めて知った。確かに刀身は短めだが、短剣とは呼べない代物だ。殺傷能力の高さはギラリ輝く刀身が証明している。ずっしりと重そうな剣を両手に握り込み、グレタは腰だめの姿勢を取った。いや、待て。兵士たちは思った。レオンハルトも思った。
「では、参ります」
グレタは言い放つと、地面を蹴った。軽業師のような身のこなしで左右交互にステップを踏み、レオンハルトの視線を撹拌していく。太陽の位置を計算しながらグレタは小刻みに剣を振るい、レオンハルトの体の向きを変えさせた。それから一際強く踏み込み、宙を舞うと、逆光で彼女を捉えきれなくなった彼の背後を取る。レオンハルトは振り向きざまに剣を放ち、寸でのところでグレタの刃を防いだ。首を狙った片剣を防がれたと知るや否や、グレタは腰を落とし、もう片方の剣で膝裏を狙う。二太刀まで、瞬きするほどの間もない。レオンハルトは身を捩り、刃を叩き落とそうと蹴りを放つ。だがグレタは素早く体勢を立て直し、レオンハルトの強烈な蹴りを避けた。
「真っ先に首を狙うか」
「すみません、つい癖で」
どんな癖だ。兵士達は思った。そしてグレタには決して変な悪戯を仕掛けまい、と決意した。
彼女は普段、大人しく控えめな態度を崩さない。隙はどこにもないが、少々のちょっかいは許してくれそうな雰囲気さえあった。強く押せばモノに出来るのでは、などと考えていた不埒な輩は、考えを改めざるを得なくなった。
グレタの方も、レオンハルトに対する考えを一新した。
強いとは思っていたが、これほどまでに実力の差があったとは。序盤こそグレタの戦い方に戸惑い、攻めあぐねていたようだが、レオンハルトはじきにコツを掴み、接近戦へと持ち込んできた。力勝負になれば、グレタの負けだ。間合いに入らせないよう大きく飛び退っても、次の瞬間には目の前にいる。やがて、グレタの手から剣が落ちた。
「お見事です」
グレタは跪き、頭を垂れた。レオンハルトなら、エレノアを容易く守ることが出来る。グレタを支え続けてきた存在意義は己の腕にあった。自信はあっという間に砂粒に姿を変え、さらさらと音を立てながら崩れていく。
エレノアに必要でなくなった自分は、一体何になればいいのだろう。グレタは今まで一度も考えたことのない疑問に、打ちのめされそうになった。
「さすがは、エレノアの懐刀だ」
滅多に人を褒めないレオンハルトの言葉に、周りの兵士もグレタもギョっとする。彼は額の汗を拭いながら、冷たい美貌を和ませた。
「これからも色々と世話になるだろうが、よろしく頼む、グレタ」
レオンハルトがグレタの名を呼んだのは、これが初めてだ。
『色々と』というのがエレノアの子供を指していることは明らかで、グレタは湧き起る誇らしさに戸惑った。胸が熱い。単純な自分が恥ずかしい。こんなことくらいで、とも思う。だがそれでも、グレタは嬉しかった。
エレノアの愛するレオンハルトに、認めて貰えた。グレタが指を咥えて見ているしかなかった眩い世界の片隅に、温かく招き入れて貰えた気がした。
「この命に代えましても」
グレタの返事を、レオンハルトは一蹴した。
「死ぬことは許さない。お前が消えたらエレノアはきっと泣く。普通でいい、普通で」
レオンハルトはそう言って、笑った。
彼の端正な顔立ちに甘さが加わり、一気に華やかになる。滅多に見られないレオンハルトの素の表情に、グレタも釣られて笑った。彼女の中性的な美貌があどけなさを帯びる。
レオンハルトと同じくらい無表情でいることが多いグレタの、無邪気な笑みを目撃した兵士達は、一斉に胸を押さえた。
「あんなの卑怯だろ!」その夜の兵舎はグレタの話題で持ちきりだったのだが、当の本人が気づくことはなかった。
そして二人がジリジリしながら待った一週間が過ぎ、再び医者がやってきた。
診察の間、グレタはエレノアの自室の外で、うろうろと歩き回った。やがて医者が出てくると、軽く会釈して去っていく。グレタは出来るだけ平静を装い、エレノアの寝室へ入った。
「どうでしたか?」
枕元に積み上げたクッションを背もたれにし、寝台で体を起こしているエレノアと目が合う。
エレノアの瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
グレタはごくり息を飲み、主の返事をひたすら待った。一刻は待った気がした。
「赤ちゃんが、いるのですって」
エレノアは泣き笑いのような表情で、ぽつりと言った。
彼女がどれほど苦しんできたか知っているグレタは、立ち尽くしたまま滂沱の涙を流していた。
長くなってしまったので、二つに分けます。
このお話で番外編も終わりです。




