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エレノアと嘘つき伯爵  作者: ナツ
後日談
28/30

あなたでなければ

 エレノアがダルシーザに来て、三年が経とうとしている。

 

 今年こそは麦の掛け合わせが成功するといいのだが。

 試験場の、見違えるほどふっくらした土を眺めながら、彼女は溜息を押し殺した。

 もうすぐ、エレノアは三十になる。

 ペタンとまっすぐなままな腹部に手を置いてみる。

 高齢で子を産む女性の話は聞かないではない。だが、自分が果たしてその幸運な女性になれるかどうかについては、全く自信がなかった。

 レオンハルトは何も言わないが、彼も焦っているに違いない。家柄だけで選ぶのではなかったと、後悔しているかもしれない。もっと若い娘を選ぶべきだったと――。

 エレノアは唇の端を歪め、額を押さえた。

 レオンハルトの優しさや不器用ながらも温かな愛情を、素直に受け入れられなくなっている。こんな筈ではなかった。それとも、元々の本性がここにきて暴露されたのか。

 己の狭量さと心の醜さに、胸をかきむしりたくなる。

 エレノアはやがて掠れた息を漏らし、決意した。レオンハルトに愛人を持って貰う。それしかない。遠縁から養子を取る方法は、レオンハルトに種無しの烙印を押してしまう。愛する人の輝かしい経歴に、自分が傷をつけるなんて絶対に嫌だ。

 彼の子供は、きっと可愛いだろう。

 どうか、レオンハルトにそっくりでありますように。

 エレノアは祈りかけ、ハッと我に返った。お腹を痛めて産んだ子供を、生後直ぐに取り上げられてしまう相手の女性のことなど全く考えていない自分に気づいたのだ。気づいてなお、二度とレオンハルトにも子供にも会わせたくない、とさえ思ってしまう。

 こんなにも自分勝手な人間だから、神様は子を授けてくれないのだわ。エレノアの眦から次々と透明な雫が浮かび、転がり落ちていった。


 エレノアは素早く目元を拭って自室へ戻ると、書机の引き出しから便箋を取り出した。前トランデシル伯からの手紙に返事を書く為だ。

 義理の父が寄越したのは、子を催促する手紙だった。至って直接的なその手紙には、もし望めそうにないのなら、代わりの女性を探すのも正妻の務めだと書かれてあった。良ければこちらから適当な女性を送る、とも。

『若い経産婦を探すのが良いでしょう。暮らしに困っている子持ちの未亡人であれば、後腐れなく子だけを貰うことが出来ます。もちろん、血筋はある程度良い方がいい。平民では困ります』

 まるで動物の配合だ。

 エレノアの気持ちに配慮するどころか、義父にとっては、愛人となる女性もレオンハルトも、子孫を残す為の道具でしかないのだろう。貴族として当然の義務と言われればそれまでだが、エレノアは堪えきれず嗚咽を漏らした。

 便箋に落ちた雫が、紙を滲んでふやけさせ、台無しにしてしまう。

 しばらく誰も近づかせないで、とメイドとグレタには言いつけておいた。

 一人きりなのをいい事に、エレノアは机に突っ伏した。

 己の至らなさが憎くてたまらない。

 こんな時でも、エレノアは大きな声をあげて泣くことはない。それは『良くない振る舞い』だ。

 公爵令嬢として、いついかなる時でもみっともない真似をするな、と父は言っていた。


「私は、本当にどうしようもない、出来損ないね、お父様」


 エレノアが弱音を吐いたタイミングで、扉をノックする音が聞こえる。

 彼女は息を飲み、気配を潜めた。


「……奥様。宗主がお見えです」

「誰も近づけさせないでと言ったわ」


 エレノアは立ち上がり、扉に向かって涙声を張った。


「今すぐここを開けろ。開けなければ、蹴破る」


 扉のすぐ向こうから、怒気混じりの声が返ってきた。

 レオンハルトだ。エレノアが自室に閉じ籠ったことをどこからか聞きつけ、やって来たに違いない。

 怒っているのは、エレノアを案じているから。彼の感情の動きが、エレノアには手に取るように分かる。それだけの絆を築いてきたのに、不妊という現実が容赦なく二人を引き裂いていく。

 

「やめて!」


 エレノアは両手を握り締め、泣きながら懇願した。


「何ともないわ、少し一人になりたいだけなの」

「言い訳は顔を見て聞く……っ!」


 直後、分厚い扉が大きく軋む。

 レオンハルトが蹴ったらしい。


「宗主!」

「止めるな!」


 グレタと何やら言い合っていたかと思うと、鍵穴から金属音がし始めた。レオンハルトの命令に従い、グレタが合鍵を出したのだ。

 エレノアは踵を返し、慌てて机に飛びついた。机の上に散らばった書きかけの手紙と、義父からの手紙を隠さなくては。

 だが、部屋に飛び込んできたレオンハルトの方が早かった。

 エレノアを机の前から押しのけると、目ざとく見知った筆跡を見つけ、便箋を取り上げる。


「だめ、読まないで! お願い!」


 エレノアはしゃにむにレオンハルトに食ってかかり、彼の手から義父の手紙を取り上げようとした。

 レオンハルトにだけは見られたくない。彼を傷つけたくないと強く思う。自分はどれだけ憐れまれてもいい。レオンハルトには実の父からの無情な勧めを見せたくなかった。

 かかってくる妻を傷つけないよう上手く躱しながら、レオンハルトは全文を読み終えてしまう。

 エレノアですらたじろぎ、体を強ばらせる程の怒りが、レオンハルトから立ち上った。


「下衆が」


 レオンハルトは吐き捨てると、手紙を破り捨ててしまった。それから大股で暖炉の前まで行き、原型をとどめていない手紙を灰の中に叩き込む。


「……お返事を、書かないと」


 エレノアはもう、どうしていいのか分からなくなった。

 ただ、義理の父への礼を失してはならないと、それだけを考え口を開く。溢れ落ちた声は震えていた。

 レオンハルトは静かにエレノアの元へ戻ってくると、彼女の前にかがみ込んだ。

 

「話をしよう、エレノア」

「……言わないで。分かっているから」


 エレノアは懸命に首を振った。


「養子を取るのは難しいと思うわ。お義父様の仰る通り、どなたか探した方がいいと思うの」

「エレノア」

「私はレオンの子供が見たい。本当よ?」


 更に言い募ろうとするエレノアの両手を取り、レオンハルトは引き寄せた。

 疲れきったエレノアは抵抗することも出来ず、そのまま抱きしめられる。


「私だって、貴女の子供が見たい。だが、私に問題があって叶わないとしよう。貴女の子を得る為には、貴女をよその男に抱かせないといけないな」


 レオンハルトは落ち着いた口調で言い、大きく目を見開く妻の顔を覗き込んだ。


「そういうことだろう? だが、貴女を他の男の元にやるくらいなら、子供など要らない。私には耐えられない。エレノアは違うのか?」


 エレノアは口を噤み、必死で考えた。

 想像しようとしたが、全身に鳥肌が立ってしまい無理だった。レオンハルトでなければ嫌だ。どうあっても、レオンハルトでなければ。


「……違わないわ」


 エレノアの本音が口から漏れる。


「あなたを誰にも渡したくない。頭では理解していても、きっと私はおかしくなる。あなたが抱いた女の人を憎むわ。憎んで、憎んで、可哀想なその人をどうにかしてしまうかも。そんなことをしでかしたら、きっと私も生きていられない。……あなたのお母様と同じよ。私も、同じ」

 

 エレノアはハラハラと涙を零しながら、首を振った。


「どうすればいいのか、もう分からない」

「私が教える。だから、閉じてしまうな。一人で苦しまないで欲しい」


 レオンハルトはエレノアを抱きしめたまま、長椅子に移動し、彼女を端に座らせた。自分もすぐ隣に腰を下ろし、半身をよじる。


「……三年前、吹雪の日にここで話をしたな。覚えているか?」


 レオンハルトは瞳を和ませ、エレノアに語りかけた。

 エレノアは夫と目を合わせ、こくりと頷く。忘れるわけがない。あの日のやり取りは、今でもエレノアの宝物なのだから。

 レオンハルトは手を伸ばし、エレノアの肩に触れた。彼の仕草や表情は、エレノアへのまっすぐな愛情に溢れている。膿んでいた胸の奥が、少しずつ癒されていくような気分だった。彼の手がくすぐったい。紛れもない幸せの感触が。


「まともに向き合ったのはあれが初めてだった。貴女は白いケープを羽織っていた。とても愛らしくて、私はこうして触れずにはいられなかった」


 そう言って、彼は長く硬い指でエレノアの肩をなぞり、そのまま首を辿って、頬に触れる。

 しとどに濡れたエレノアの頬を、レオンハルトはその大きな手で包み込んだ。


「私の情けない過去を、貴女はまるごと受け入れてくれた。あの日から。いや、おそらくその前から、私の世界の中心にいるのはエレノア、貴女なんだ」


 口下手で極度の照れ屋であるレオンハルトが、心を尽くしてエレノアに語りかけている。

 彼は愛情とは無縁の環境で育った。だから、どんな風に愛情を表していいか分からない。

 それでも、砕けそうになったエレノアの心に気づき、必死に繋ぎとめようとしてくれている。


「貴女でなければ意味がない。どうか、貴女の心を私に守らせてくれ」

「……ごめんなさい」


 エレノアは新たな熱い涙を零した。

 レオンハルトを信じず、勝手に動こうとしていた自分が恥ずかしい。


「それはどういう謝罪だろうか。断り文句だとしたら、非常に傷つくな」


 レオンハルトは微笑みながら、妻の涙を親指で拭った。


「違うわ。もう! 分かって、からかっていらっしゃるのね」


 エレノアもとうとう噴き出し、くすくす笑い出してしまう。

 笑ったエレノアに、レオンハルトは安堵の息を吐いた。そして彼女の腰に手を回し、持ち上げた。自分の膝の上に座らせ、されるがままのエレノアの頭を撫でる。


「貴女は完璧な女性だ。どこにも不満はない。そのままの貴女でいてくれたら、それで私は最高に幸せなんだ」


 まるで呪文のようにレオンハルトは囁き、エレノアの心の澱を取り除いていった。

 エレノアは目を閉じ、もたれかかるには硬すぎる夫の胸に頭を預けた。


「……今日は大盤振る舞いなのね」


 照れ隠しにそんなことを言うエレノアの頭を撫でながら、レオンハルトは「見直しただろう?」と得意げに返す。

 その言い方の可愛らしさに、エレノアはときめかずにいられなかった。エレノアはこうして何度でも同じ人に恋をする。ここ最近彼女を悩ませ続けていた気鬱が消えていくのを感じ、エレノアは全身の力を抜いた。

 ――『お嬢の荷物は誰が持ってくれるの?』

 昔グレタが悲しげにしてきた問いかけに、今は自信を持って答えることが出来る。

 私の素敵な旦那様が、半分どころか全部持ってしまうのよ、と。



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