褒め言葉
復興途中のダルシーザだが、娯楽が絶えてしまったわけではない。
首都ハージェスに出来た大きな劇場は、こけら落とし前の準備公演から大変な人気だという。
公主であるレオンハルトの元へも招待状が届けられた。
演劇の歴史を紐解くと、教会が祭日ごとに行っている宗教劇が発端のようだ。信者向けの説話じみた劇が、やがて貴族の個人的な催しでも演じられるようになり、それが広がって今のような演劇スタイルが完成した。
とはいえ数十年前までは、平民がおいそれと鑑賞できるようなものではなかった。貴族お抱えの劇団が自らの芸術を公の場で発表し、対価としての金銭を得るようになったのはここ最近だ。
『労働によって金銭を稼ぐ』という価値観は平民のもので、貴族達はそれを是としなかった為である。
少しずつ社会は変動していっている。
レオンハルトは考えながら、瀟洒なデザインの招待状を手の中で弄んだ。
大劇場の持ち主は、首都ハージェスに隣接しているストディオ地区の領主、ソーンダイク伯爵家だ。現在は長男であるラファエル・ソーンダイクが父親に代わり、ダルシーザに派遣されている。
ラファエルの顔を思い浮かべ、レオンハルトは溜息をつきたくなった。
悪い人間ではない。それは確かだ。ゲルト民に対する考え方もグレアム王寄りで、温和な気質の持ち主であることはすぐに分かった。領主としても特に不真面目ということはない。ただ一風……いや、かなり変わっている。しかもよく喋る男だった。
劇場を建てる計画についても、異常なほどの熱心さでまくしたてられた為、レオンハルトは殆どと言っていいほど口を挟めなかった。
「昼間は街の人間が気軽に見に来られるよう、安い入場料にしようと思っています。公演内容も楽しさを重視した会話劇にしようかと。大掛かりな舞台装置や衣装が不要な分、費用は抑えられますからね。役者も駆け出しの若手中心でいこうと思うのですよ。夜は貴族や富裕層に楽しんで貰えるよう、華やかな宮廷劇を上演するつもりです。入場料は高めに設定して、二階席を開放するのはどうでしょう? ワインや軽食を楽しみながら、観劇できる。特に御婦人方には喜ばれると思います」
ラファエルは頬を上気させながら展望を語り、収益の大半を国に納めると言った。
「もちろん、役者達への報酬や、興業にかかった費用、次の公演の為の準備金などは頂きたく思います。ですが私は、決して金儲けをしたくてこうしてお願いにあがっているわけではありません。演劇は総合芸術です。芸術というものは――」
どこまでも続きそうなラファエルの話を無理やり打ち切り、前向きに検討してみると言って面談室から追い出し、ようやくレオンハルトは一息ついた。
自分の一存で決めるわけにはいかないし、演劇自体に何の興味も持てないレオンハルトに決められる気もしない。劇場建設における利点と考えうる不安点をまとめ、グレアム王へと送ることにした。
返事は予想より早くきた。
『ソーンダイク家に不審な点はない。長男のラファエルは若い頃役者志望で、父親に勘当されかけたことがあるそうだ。当主の目の届かないダルシーザで夢を叶えるつもりなのだろう。どうするかはレオンハルトに任せる』
劇場建設にかかる費用は、ラファエルが私財を投げ打つ覚悟だという。決して領民に負担はかけない、とラファエルは熱心に誓った。彼の財政状況を調べさせ、嘘ではないと確証を得てから、レオンハルトは計画を認可した。条件として、公演内容を先に報告する義務を課すことにする。
「公序良俗に反する公演を許すわけにはいかないからな。言うまでもないが、政治的な批判を含む脚本も不許可だ」
「後者についてはもちろんです。ですが前者については、何を持って公序良俗に反すると判じるのか、議論が必要かと――」
「これ以上貴殿に割く時間はない」
食い下がろうとするラファエルをまたしても面談室から追い出したのは、一年前のことだ。
ようやく完成した劇場に、今頃小躍りしていることだろう。
先月ラファエルから送られてきた脚本は、レオンハルトの執務机の大半を占領し、視界を遮るほど積み上げられた。
「……これは嫌がらせか?」
「ソーンダイク様は、脚本家を数人お抱えになっているとか。この中から、三ヶ月分の公演内容を選んで欲しいということでした。……この先ずっと、宗主が演目を決定されるのですか?」
かなりの重さになった脚本を荷車で押して運んできたダニエルは、げんなりした表情で聞いてきた。
レオンハルトは認可したことを、心の底から後悔した。
そして、こけら落とし当日。
レオンハルトは渋々、出かけることにした。
試しに招待状の話をしたところ、エレノアが瞳を輝かせて身を乗り出したからだ。
「興味があるのか?」
「慰問に出た際、工事中の劇場を遠目にみたことがあるのです。さぞ立派な劇場になったことでしょうね」
そういえば、エレノアは劇場建設歓迎派だった。雇用が増え、景気が良くなる。民の生活に張りが出る。そう言って喜んでいた。
エレノアの頭の中は、植物のことと、ダルシーザの発展のことで一杯だ。
尊敬と同時に、僅かな不満も感じる。
「では、観に行くか?」
「あなたが許して下さるのなら」
レオンハルトがエレノアに許さないことなど、少ししかない。
自分の目の届かないところへ行くな。危険な真似をするな。それから、必要以上に異性に愛想を振りまくな。無理をするな。我慢するな。それから――。
「楽しみだわ」
エレノアは珍しく浮き立った様子だった。試験場関係以外で、彼女がこれほど喜色を表すことは滅多にない。
支度を終えたエレノアが、レオンハルトの元へやってくる。
淡い緑色のドレスに身を包んだ彼女は、それは美しかった。
複雑に結い上げられた艶やかな髪は、派手になり過ぎない絶妙な加減でキラキラと輝いている。差し込まれたヘアピンの先に小さな薔薇を模した宝石がついているのだ。
広く開いたデコルテに、ごくり息を飲む。ほっそりと伸びた腕の先にある細い手首を際立たせるように、袖口はゆるく広がり装飾レースで縁どられていた。
エレノアの女性的な曲線を引き立てるボディスから、ふわり広がったスカート部分へと視線を移し、レオンハルトは感嘆せずにはいられなかった。
ダルシーザに来てからというもの、エレノアが正装する機会はめっきり減っている。きちんと着飾った妻を目にするのは久しぶりだ。
「どうでしょう?」
エレノアはドレスの裾を持ち上げ、茶目っ気たっぷりに片膝を折って見せる。
彼女が屈むと開いた胸元が際どくなることに気づき、レオンハルトは眉根を寄せた。
「ショールがあった方がいい」
「移動の時はもちろん。ですが劇場の中は、そう寒くないのでしょう?」
「いや、あった方がいい」
レオンハルトは頑として譲らず、エレノアの後ろに控えたメイドを鋭い視線で急かす。
ドレスと同じく淡い色調で揃えたシャンパンベージュのショールをかけ、エレノアは「これでよろしいですか?」と再び尋ねてきた。
最初の時より、トーンが下がっている。
妻の機嫌を損ねたことに気づき、レオンハルトは慌てた。表向きの表情は変わらないので、彼が動転したことに気づいたのはエレノア一人だ。
いつもなら笑って許すのだが、今夜くらいは素直に褒めて貰いたい。
招待状の話を聞いてからというもの、エレノアは、肌や髪、爪の手入れを密かに頑張ってきたのだから。
「問題ないのなら、参りましょう」
エレノアが立ち尽くしたままのレオンハルトに歩み寄り、左腕に手をかける。
レオンハルトはしばらく俊巡した後、エレノアの手に右手を重ね、彼女の耳元に口を近づけた。
「ショールは大事だ。本当は麻袋でもすっぽり被せたい」
素早く耳打ちし体勢を戻すと、妻をエスコートしながら城を出る。
馬車へ乗り込む段になって、レオンハルトはようやくエレノアと目を合わせた。
綺麗だ、と褒めるつもりが、何故か麻袋の話になってしまった。
昨年の越冬準備の際、エレノアの大事な苗に雪避けの袋を被せる作業を手伝ったせいかもしれない。
「あさぶくろ」
エレノアはレオンハルトを上目で見上げ、口元をほころばせながら言った。どうやら笑い出したいのを堪えているらしい。
「大事なものには被せるだろう」
「そうですわね」
「私は、貴女が大事だ」
「……他の女性を褒める時は、どんな風に仰っているのか知りたくなってきたわ」
エレノアの機嫌は治ったようだ。
ぴったりと隣に収まった妻からは、いい香りがする。甘い香りに誘われるように身を寄せれば、エレノアもこてん、と頭をレオンハルトの肩にもたれかけさせる。
「あいにく女性を褒めたことはない」
「それを聞いて安心しました。私以外に麻袋の被害者はいないということですもの」
「……怒っているのか?」
エレノアの返答に不安になり、レオンハルトは聞いてみた。
「たまには、褒めて貰いたいと思ってはいけない? 観劇に興味があるわけじゃないのですもの」
エレノアは拗ねたような口調で、呟いた。
レオンハルトは盛大に驚いた。エレノアが行きたいというから、仕事を前倒しにして必死に片付け、時間を作ったというのに、興味がない?
「じゃあ、なぜ――」
「レオンを独り占めして出かけてみたかったの」
エレノアは睫毛を伏せたまま、小声で言った。
彼女は自分を殺しにかかっている。
レオンハルトはどうにか不利な現状を打破しようと、彼女の顎に手をかけ、自分の方を向かせた。
バラ色に染まった頬の美しさと愛らしさは、たとえようがない。
ラファエルがエレノアを見たら、どう思うだろう。彼は美しいものに目がないと言っていた。エレノアに強い関心を抱くかもしれない。
レオンハルトはどうにも抑えきれなくなった独占欲にかられながら首を傾け、妻の唇を塞ごうとした。
ところがエレノアは両手を持ち上げ、自分の口元を隠す。
いつもなら喜んで受け入れてくれるのだが、今日はどうしても言葉が欲しいらしい。
「綺麗とか、美しいとか、そんな陳腐な言葉で私の気持ちを言い表せると思っているのですか?」
レオンハルトは、エレノアが好きだと打ち明けてくれたとっておきの声で囁いてみた。
エレノアの瞳が丸くなり、やがて潤み始める。
膨大な脚本を流し読みしたレオンハルトの労苦が、報われた瞬間だった。
こんな恥ずかしいセリフを思いついた男の顔が見てみたい、と毒づいたものだが、女性には効果的らしい。
だが、どうしてもその先が出てこない。
散々悩んだ挙句「そのドレスも髪型も、とてもよく似合っている」と言ってみた。
エレノアは唇を守っていた両手を下げ、そのままゆっくりとレオンハルトの頬に当てた。彼女の黒目がちの瞳が甘い誘惑をたたえる。
こんなのでいいのか。拍子抜けしたレオンハルトだったが、すぐに何も考えられなくなった。
やがて馬車が止まる。劇場まであっと言う間だった。足りない。全然足りない。レオンハルトは名残惜しげに体を離した。
「……ソーンダイク様に感謝しなくてはね。正確には、お抱えの脚本家さんに」
エレノアはにっこり微笑み、レオンハルトの唇を細い指で拭った。
「いい夫婦の日」ということで、甘さ増量してみました。
無性に壁を殴りたいです。




