風邪ひきエレノア
エレノアは落胆していた。
健康には自信があり、体調管理も万全にしていたつもりが、風邪を引いてしまったのである。
喉が痛むし、咳も出る。熱はそう高くないのが不幸中の幸いだった。
「これが年を取ったということなのかしら。嫌になるわ」
エレノアは独り言を漏らし、溜息をついた。
彼女は二十八になっている。
城中の人間から盛大に誕生日を祝われ、王都からは驚く程多くの贈り物が届けられた。有難い、と感動する一方、来年からは勘弁して貰えないだろうかとも思う。この年になってしまえば、誕生日はそう嬉しいものではない。
レオンハルトまでが、しばらく天候の話を続けた後で「何か欲しいものはないか」と尋ねてきた。
エレノアは思案した挙句、牛をねだることにした。
家畜として前々から飼ってみたかった。乳牛からはミルクが絞れるし、糞は肥料になる。肥料としての効果は低いが、土壌改良にはかなりの役割を果たすという論文を読んだばかりなので、是非実地で試してみたい。問題は餌だが、試験場の隣にサイロを建ててみてはどうだろう。サイロ自体も、まだダルシーザでは見かけたことがない。フェンドルでは冬期の餌の管理方法として大いに活用されている。サイロに稲ワラを貯蔵しておけばいい。
エレノアは、極寒を耐え抜ける種類の乳牛をフェンドルから連れてきて欲しい、と頼んでみた。
レオンハルトは長い沈黙の後、「分かった」と力なく呟き、去っていった。
「あれはお嬢が悪い」と後でグレタに咎められ、もっと女らしい品物をねだるべきだったと後悔したものだ。
つらつらと詮無いことを思い出してしまうのは、微熱のせいだろう。
エレノアは医者の助言通り、大人しく寝台に潜り込み、目を閉じた。
一日寝ていれば治るだろうと高をくくっていたのが悪かったのか、次の日になっても咳は止まらなかった。体はだるいが動けないことはない。
「畑を見に行ってはいけない?」
様子を見に来たグレタに、エレノアはこっそり頼んでみた。
「迎冬の準備がどれくらい進んでいるか、確認するだけだから」
「ダメだよ」
グレタはにべもない。
「宗主様にきつく命じられてる。お嬢を部屋から出すなって」
「すっかりレオン贔屓なんだから」
エレノアは夫の愛称を口にした。普段はレオンハルトと二人きりの時しか口にしない呼び名だった。
風邪で弱っている証拠だ。グレタは確信し、無防備な主を親しみの篭った眼差しで包んだ。
「お嬢と人生を共にする男だぞ。今はもう私の警護対象だし、命令だって聞くさ」
「……一度もお見舞いにきて下さらないわ」
エレノアは本音を漏らした。
毎晩欠かさず共寝していた夫が、風邪を引いた日からは別々に眠っている。日中は何かと忙しい彼だから、夜会えないのなら一日会えないということになる。
「宗主様に風邪がうつったら大変だからな。総出で止めてるんだ」
「ええ、そうよね。分かっているの。今のは、忘れて」
「良くなれば、すぐに会えるよ。ほら、寝台に戻って」
グレタは手際よくエレノアを寝台へ入れ、掛布の上からトン、トン、と肩を叩く。
「子供じゃないのよ」
エレノアはくすくす笑いながら抗議した。
グレタは屈託なく微笑み返し、「子守唄にしようか?」とおどけてみせた。
その夜。
昼間ずっと眠っていたせいで、エレノアの目はちっとも塞がらなかった。
一人では広すぎる寝台で、何度も寝返りを打った後、ついに諦め、起き上がる。
ガウンを羽織って、燭台に火をつける。何か暇つぶしになるような本はなかったか。エレノアは部屋履きに足を突っ込み、寝室を出て続きの自室へと移動した。
静まり返った暗い部屋を壁伝いにそろそろ歩き、書机にたどり着く。
机の上には、家畜についての論文とサイロのつくり方の本しかなかった。すでに何度も読んだものだ。
普段は全く嗜まないが、流行小説の一つでも読んで気晴らしをしたい。朝が来るのを待ってメイドに頼むべきだと思ったが、まだ夜になったばかりだ。図書室へ探しに行こうか。
しばらく迷った後でエレノアは項垂れ、再び燭台を手にした。
夜中の城を寝巻き姿でウロつくわけにはいかない。巡回の兵士に悲鳴を上げさせては大変だ。
寝室に戻ろうと振り返ったところで、エレノアは大きく息を飲んだ。
すぐ前に誰かが立っていたのだ。
グレタであればエレノアは気づく。悲鳴をあげかけたエレノアの口を、馴染みのある手が慌てて塞いた。
「……いつになったら私の気配を読めるようになるんだ?」
中低音の艶っぽい声が、耳朶をくすぐる。
エレノアは力を抜き、口を塞いだままの夫の手を外させた。鼻先を革の匂いが掠める。なんだろう、と一瞬疑問に思ったものの、エレノアの意識は久しぶりのレオンハルトで占められた。
「グレタとは十五年以上の付き合いですのよ。あと十四年待って下されば、あなたの気配にも慣れます」
「そんなに待てない」
レオンハルトは言って、エレノアの手から燭台を奪った。
「大人しく寝てるだろうと思って来てみれば」
彼は秀麗な眉を曇らせ、机の方に燭台を向ける。
「また、牛か」
「違います」
エレノアは素早く訂正し、昼間散々寝ていたせいで全く眠くないと主張した。
図書室へ行こうとすら思った、と正直に告げれば、レオンハルトはやれやれと肩をすくめる。
「秋も終わりのこの時期に、冷えた廊下を歩いていくつもりだったとはな。ちっとも言うことを聞かない妻を閉じ込めておく、有用な方法はないか? 今思いついたのは、足枷だが」
「あなたの妻は、それを鍬で叩き割ると思うわ」
「では鉄製のものを注文する間、私が彼女の枷になるしかないな」
レオンハルトと軽口の応酬を楽しみながら、エレノアはすっかり機嫌を直した。憂鬱な気分はどこかへ吹き込んでしまっている。
彼自身が枷になるなんて、願ってもないことだ。
「では、どうぞ? 無駄な抵抗はしない主義よ」
「……全く」
レオンハルトは燭台の火を吹き消し、机に置いた。
それから軽々とエレノアを抱き上げる。ひやり冷たい上着が頬に触れ、エレノアは瞬きした。どこかへ出ていたのだろうか。彼は外出着のままだった。
「こんなに遅くまでどこかへ行ってらしたの?」
「……まあな」
レオンハルトは夜目が利くのか、全く危なげない足取りで歩き始めた。
「貴女の方こそ冷えてしまっている。風邪が悪化したらどうするつもりだ」
彼はエレノアの背中を擦りながら寝台へと運び、敷布をぐるぐると巻きつけた。
その上から更に毛布を被せる。
「もうすっかり治ったわ」
「確かに咳は出ていないな。頭痛は?」
「ないわ。熱もなかったでしょう?」
「貴女は医者じゃない」
レオンハルトはしかつめらしい態度を崩さず、エレノアを窘めた。
そしてそのまま、寝台に腰を下ろす。
「……貴女がいない夜は、寂しい」
レオンハルトはエレノアの額にかかった前髪をそっと横に撫でつけ、ぽつりと零した。
エレノアはもう幾度感じたかしれない庇護欲で、胸がいっぱいになった。時々こうして、夫は素直な甘えを覗かせる。それがたまらなく嬉しい。
「レオン」
「早く良くなって、エレノア」
レオンハルトは耳をそばだてると、素早くエレノアの額に軽く口づける。それから上着のポケットを探り、革手袋を取り出して手に嵌めた。
あっけに取られたエレノアを残し、レオンハルトはバルコニーへと出て行ってしまう。やがて、土を踏む音が聞こえた。どうやら、外へ飛び降りたようだ。
二階とはいえ、かなりの高さがある筈だ。起き出して様子を見に行こうとしたエレノアは、ノックの音に飛び上がり、慌てて掛布の中に潜り込んだ。
ノックしたのは、グレタだった。彼女は「ごめんね、入るよ」と低めた声で断り、寝室へ入ってくる。
エレノアは目を閉じ、熟睡している振りをした。何故かそうしないといけない気がした。心臓がバクバクと早鐘を打つ。これではまるで、愛人との逢引きを隠す人妻のようだ。
「――ここだと思ったんだけどな」
グレタは呟き、クローゼットの中まで確認してから出て行った。
やはりレオンハルトを探しているらしい。
「たった二日が我慢できないなんて、子供か」
グレタは忌々しげに吐き捨て、音もなく部屋から出て行った。
後から知ったことだが、隙を見ては妻の元へ行こうとするレオンハルトを、昼間は補佐官達が、夜はグレタが見張っていたという。
業を煮やしたレオンハルトが夜中自室の窓を開け、外壁伝いにロープを垂らして脱走したと聞き、流石のエレノアも開いた口が塞がらなかった。




