最終回.私の愛しい人
仮眠を取ったことで幾分頭がスッキリしたようだ。
レオンハルトはエレノアの手を握り直し、彼女の表情を確認してみる。困惑と羞恥、そして喜びが複雑に混じりあっていた。以前はさっぱり読み取れなかった妻の感情が、何となくは分かるようになっている。それがくすぐったい。
エレノアの優しい手。声。眼差し。
自分とは無縁の世界にあるととっくの昔に割り切った、眩しく温かいものが、何の因果か手の中に落ちてきた。
エレノアはレオンハルトの中に巣食っていた偏見と恨みを、押し付けがましさのない気遣いで少しずつ拭ってくれた。そんな彼女に、まだ何も返せていない。何が返せるのかも分からない。
至らなさと不器用さには、自覚がある。仕事に対して不安を覚えたことは殆どないが、こと女性に関しては不安しかない。これまで一度も真剣になったことがないのだから、それも当たり前だ。それでも、諦める気はなかった。
どこにも確証はないが、エレノアなら、レオンハルトの下手くそな愛情表現を笑わず受け入れてくれる気がする。
部下が「どこにも確証はありませんが、この作戦はいける気がします」などと言おうものなら、即刻解職するだろう。レオンハルトは己の矛盾が可笑しくなり、ふっと口元を緩めた。
「……パトリシア様にお目にかかるのが、それ程嬉しいのですか?」
繋いでいる手を外そうと、エレノアが指を丸める。
何とも可愛らしい悋気に、レオンハルトの顔はますます緩んだ。
「いや、違う」
「でも今、とても嬉しそうだわ」
以前のエレノアなら、こんな口は利かなかった。丁寧な敬語で一線を引き、レオンハルトから巧妙に自分の心を隠していた。彼女もまた心を許して始めているのだと思うと、胸がいっぱいになる。
喉元が少し苦しくなるこの甘酸っぱい気持ちの名は、何というのだろう。いつかエレノアが教えてくれるだろうか。
「そう見えたのなら、貴女のせいだ」
「私の?」
エレノアが大きく目を見開く。
黒とも濃褐色ともつかない瞳が美しい。日の差し加減によって絶妙に色を変える妻の瞳に、レオンハルトはこっそり見蕩れた。
「私の心を動かすのは貴女だけだから」
エレノアは絶句し、それからみるみるうちに頬を上気させた。
陶器のように滑らかに見える頬が、実はふっくらと柔らかいことを思い出し、レオンハルトはすぐにでも触れたくなった。だが、今は我慢だ。サリアーデの殿下方に釘を刺してからでも遅くない。
二人の遣り取りに耐えきれくなったグレタは、歩調を緩め、彼らの遥か後方をついていった。
エレノアは遠目にも幸せそうだ。足取りは軽く、時折垣間見える横顔は輝いている。もっといい男がいる筈なのに、と思わなくはないが、人の好みはそれぞれだし、主が良いなら言うことはない。
『子供が産まれたらね。旦那様と二人でうんと可愛がるの』
幼いエレノアの声が脳裏に蘇る。夢は叶うだろうか。たとえ実子に恵まれなくても、エレノアがレオンハルトと共に、賑やかで心温まる家庭を築いていけたらいい。レオンハルトが生まれた子をきつく叱ろうとしたら、何としてでも阻止しよう。
色々考えているうちに、グレタは何だか楽しくなってきた。未来は明るく、どこまでも広がっているように見える。初めて見る景色だ。
グレタは踵を返し、作戦中止を進言する為、殿下方の元へ向かうことにした。
パトリシアは部屋で一人、打ち合わせ通り待っていた。
ところがやって来たのは、レオンハルトとグレタではなく、レオンハルトとエレノアだった。
「お呼びと伺いました」
丁重な礼と共に挨拶をされたが、レオンハルトの眼差しは疑念と警戒に彩られている。
彼はどう見ても、妻との時間を邪魔された不機嫌な夫にしか見えない。エレノアはそんなレオンハルトの隣で恥ずかしそうに立っている。応接室でのぎこちなさが嘘のように、ほんのり甘い空気が二人を取り囲んでいた。パトリシアは笑い出さずにいられなかった。
「余計なお節介だったのね。本当にごめんなさい」
パトリシアが謝ると、レオンハルトは盛大な溜息をついた。
「やはりそうでしたか。殿下方に娯楽を用意出来なかったこちらの落ち度のようですね」
強烈な皮肉に、パトリシアもエレノアも怯む。
特にエレノアは真っ青になった。レオンハルトが彼らの訪問を受け入れる為、どれほど労を重ねたか知ったばかりだ。
「レオンハルト様を騙すつもりはなかったんです。ただ、噂の真偽を確かめたくて。自分に自信が持てなくて、どうしていいか分からなくなったのです。クロード殿下方は協力して下さっただけです……申し訳ありません」
「冗談だ」
あっさりレオンハルトは言った。
エレノアとパトリシアは唖然とした。
「私が煮え切らない態度だったから、尻を叩いてやろうと思われたのでしょう? それとも王妃陛下に言い含められたのか。どちらにしても怒っておりませんし、妻と向き合う機会を下さったことに感謝していますよ」
レオンハルトはあくまで真面目な口ぶりで謝意を示した。
パトリシアはホッと胸を撫で下ろし、「では、お二人のお気持ちは通じあったのですね」と瞳を明るくする。
「その直前で、呼び出されてしまいました。もう一度、あの勇気を出せるかどうか――」
「そ、それは、本当に何と言っていいか」
再びパトリシアは悄気返った。
しょんぼり眉尻を下げた王太子妃を見て、エレノアがレオンハルトの腕を叩く。
「レオンハルト様!」
「冗談です」
しれっと言い放ち、レオンハルトはエレノアに向き直った。
「噂の真偽とは何のことだ。私に何か噂が?」
エレノアの言い訳の中には聞き捨てならない言葉が混じっていた。
レオンハルトに思い当たる節がない。妻を謀った者が城の中にいるのなら、何としても見つけ出さなければ。
「レオンハルト様が……その」
口ごもった後、エレノアは一息に疑念を打ち明けた。
レオンハルトはまじまじと妻を見つめ、額を押さえた。
かつて自分の立てた誓いが、そんな風に美化され広まっているとは想像もしていなかった。しかも相手はパトリシアだ。実際、ほのかな想いを抱いたことがある。何とも居た堪れなくなり、レオンハルトは生まれて初めて「穴があったら入りたい」という文句そのままを実感した。
「確かに誓ったが、あれはそういう意味ではない」
必然、声が小さくなる。
夫の後ろめたさを素早く見抜いたエレノアは、寂しげに微笑んだ。
「大丈夫です。レオンハルト様のお気持ちを責めることなんて、誰にも出来ません」
「貴女は責めていい」
「……いいえ、私にも出来ません」
レオンハルトはとっさに言い返したが、エレノアは首を振るばかりだ。
これではいけない。レオンハルトは焦燥にかられ、唇を噛んだ。だがどう言えば、気持ちが伝わるのか分からない。
「三人で、あの庭へ行きませんか?」
二人のやり取りを黙って見守っていたパトリシアが、口を開く。
「あそこは、庭ではありませんわ」
エレノアは苦しげに眉を寄せた。
パトリシアはにっこり微笑み、心優しい友に歩み寄った。
「もうただの庭だわ。お兄様もお母様も、皆あそこにはいない。解放されたのよ」
そう言ってエレノアの背中を撫でる。
泣きそうなのはエレノアの方だった。
「宗主様も解放されて欲しいと思います。あの庭で、私に新たな誓いを立ててはくれませんか?」
パトリシアの願いをレオンハルトは正しく汲み取った。
母のような女性ばかりではないと教えてくれた人だった。淡い恋情は跡形もなく消え、残っているのは尊敬だけ。それが誇らしい。
「では、そのように」
レオンハルトは恭しく腰を折り、それから何かを思いついたように瞳を煌めかせる。
「やられっぱなしは性に合わないのです。クロード殿下への少々の意趣返しをお許し頂けますか?」
「……それでお詫びになるのなら」
今回のお忍び訪問の為、レオンハルトは多大な労力を払ったに違いない。エレノアとの親密な時間を邪魔してしまったこともある。パトリシアは苦笑と共に、レオンハルトの提案を飲んだ。
「ほんの少しの間、貴女以外の人に触れることを許して貰えますか?」
レオンハルトから珍しく丁寧な言い方で、許可を求められ、エレノアは小さく頷いた。切なく揺れている彼女の瞳を覗き込み、レオンハルトは重ねて言った。
「その後、さっきの話の続きをしよう」
「はい」
今度こそはっきりエレノアは頷いた。
北の裏庭は、ひっそりと静まり返っていた。
レオンハルトがここに来るのは、二年ぶりだった。
もっと荒れ果てていると思っていたのに、どこかすっきりして見える。
レオンハルトは注意深く観察してみた。
伸び放題だった雑草は抜かれ、柵代わりの低木はさりげなく刈り込まれている。芝の長さも揃っていた。あちこちに転がっている石は丁寧に磨かれ、墓地をぐるりと取り囲むように白い花が植えられている。
パトリシアは感激したように足を早め、白い花の前に駆け寄るとかがみ込んだ。しばらく花を眺めた後、彼女はエレノアを振り返った。
「これは、貴女の仕業ね?」
パトリシアの目には涙が浮かんでいる。
「――差し出がましいとは思いましたが、どうしてもそのままにはしておけなくて。配置はどこも変えておりません。その花の種は、フェンドルから持ってきたものです。ダルシーザの冬を耐え、芽吹いてくれました」
エレノアは静かに説明した。
レオンハルトはますます妻への尊敬を深めた。
彼が頼んだわけでもないのに、城の隅々まできちんと気を配ってくれていた。レオンハルトが知らないだけで、おそらく他にもあるのだろう。エレノアは決して自分のやったことを声高に吹聴しない。これからはもっと目を光らせて、気づくようにしよう。レオンハルトは決意を新たにした。
「花言葉は? エレノアは知っているのでしょう?」
パトリシアはハンカチで目元を押さえながら立ち上がり、懸命に微笑もうとしている。
エレノアはしばらく迷った後、ぽつりと言った。
「『祈り』、です」
ゲルトの民と同じ響きを花言葉に持つ花を選んだことを、フェンドル人には快く思われないかもしれない。内心怯えながら、それでもエレノアはこの花を植えた。どうか安心して下さい。この国の民の安寧を、私たちは約束します。そんな想いを込めながら、植えていった。
「……ありがとう。貴女が大好きよ、エレノア。離れていても、変わらない。貴女は私の大切な友人だって、覚えておいてね」
とうとう泣き出してしまったパトリシアに慌てたのは、エレノアだけではなかった。
レオンハルトは急ぎ足でパトシリアに近づき、彼女の右手を取り跪いた。
早く済ませなければ、どこかで見ているに違いないクロードが駆けつけてきてしまう。
「持てる力の全てでこの土地を守っていくと、私は誓いました」
レオンハルトは真摯な眼差しで、大粒の涙を流すパトリシアを見上げた。
「あの時の私には、守るべきものが他になかった。ですが、今は違います。大切な人が出来ました」
レオンハルトの背後で、エレノアが息を飲む。
「私の持てる力全てで、妻を守りたい。彼女がいない世界には、もう意味を見いだせそうにありません。ですから、誓いを改めさせて下さい。これから私は、可能な範囲でダルシーザの復興に尽くします」
パトリシアは頷き、「許します」と答えた。
レオンハルトは立ち上がり、パトリシアの肩に手を置いた。それから、ゆっくり手を回し、彼女を抱きしめる振りをする。
「……妻にっ、触れるなっ!」
全速力で駆けてきたクロードに殴られる前に、レオンハルトは素早く後ろに下がった。
随分遠いところに潜んでいたらしい。武に優れたクロードが肩で息をするところを見て、レオンハルトは溜飲を下げた。
「同じ警告を、殿下にもさせて頂きます」
レオンハルトは優雅な物腰で一礼し、エレノアを連れて裏庭を出た。
エレノアは夫の手に引かれながら、必死に涙を堪えていた。
たった今、目の前でレオンハルトは誓ってくれた。エレノアが期待した以上の言葉で、彼はエレノアに心を捧げると言ってくれた。
まるで夢のようだ。頬を思い切りつねってみたい。
「さっきの話の続きだが――」
レオンハルトを振り仰ぐと、彼の耳は今頃真っ赤に染まっている。
「今日は、あれ以上の言葉を思い付けそうにない。こちらから出した条件は全て撤回させて欲しい。私は普通の、その……普通の――」
レオンハルトはとうとう足を止め、エレノアの手を握ったまま、城壁に右手をついた。
城の中に戻るのかと思いきや、いつのまにかエレノアが作った試験場の近くまでやって来ている。ひとけのないところを選び進んできたらこうなった、という感じだった。
「普通の夫婦のようにやっていけたらと思っている。貴女はどうだ」
とうとう諦めたらしく、レオンハルトは姿勢を正し、エレノアに向き直った。
彼の表情は固く強張り、怒っているようにしか見えない。出会ったばかりの頃なら、緊張しているだけだとは気付けなかっただろう。
「私はレオンハルト様をお慕いしています。何も期待するなと言われたのに、好きになってしまいました」
「……っ!」
レオンハルトはグッと喉を鳴らし、真っ赤になって懸命に言葉を探し始める。
「許す、と仰って? あなたを愛しても構わないと」
エレノアは助け舟を出した。
このままではレオンハルトが卒倒しかねない。
レオンハルトはかろうじて頷き、エレノアの両肩を掴んでくるりと背中を向けさせた。
「今は、私を見ないでくれ」
「はい」
混乱の極みにあっても、レオンハルトはエレノアを置いて立ち去ったりせず、背中からぎゅうぎゅうに抱きしめてくる。普通の夫婦を知らない彼の、精一杯のプロポーズをエレノアは心から嬉しく思った。
不器用なところも、口下手なところも。彼の全てが愛おしくてならない。
エレノアはレオンハルトの気の済むまで、目の前に広がる広い畑を眺めることにした。
おそらく今年取れるのは、ひょろんと痩せた芋と、殆ど身の詰まっていない麦が少し。だが、来年は分からない。
ダルシーザのむき出しになった土地を、緑がいっぱいに埋め尽くす。さやさやと揺れる緑の穂先はやがて金色に色づくだろう。重く頭を垂れ、そして民を満たす糧となる。
豊かな風景を思い浮かべながら、エレノアは深々と息を吐いた。




