23.伯爵、寝かしつけられる
このまま押し問答を続けていても埓があかないと判断したようで、グレタは殿下方に事の顛末を報告しに向かった。ダニエルは戻ってきそうにない。
何故か二人きりになってしまった――しかもレオンハルトの膝に抱き抱えられた状態で。
エレノアはもぞもぞ腰を動かし、どうにかこの状態から抜け出せないか試みてみた。
だが動く度にレオンハルトに引き戻されるものだから、やがて諦めた。そのうちクロード殿下方がやってくるだろう。そうなれば、流石のレオンハルトも我に返るに違いない。
諦めついでに、夫の様子を観察してみる。
明るい太陽の下、これほど近くで顔を見る機会は滅多になかった。
まっすぐな眉。凛々しい切れ長の瞳。軍人にしては長い前髪。スッと通った鼻梁に薄めの唇。
本当に綺麗な顔だ、とエレノアは感心した。皺の一つもない。年齢を詐称しているのではないだろうか。
書類を見るために伏せられた睫毛から視線をずらせば、目の下にうっすら隈ができている。ようやく人間らしい部分を見つけ、エレノアはホッとした。
「……眠れていないのですか?」
本来なら夫の職務の邪魔をするようなエレノアではないのだが、この体勢だ。少しくらいの我が儘は許して貰おう。エレノアはゆっくり手を持ち上げ、夫の目の下を指でなぞってみた。
「――そうだな」
レオンハルトは書類を机に戻し、空けた右手でエレノアの手を掴むと、そのまま自分の頬に押し当てる。甘く親密な仕草に、エレノアの胸は高鳴った。
「今度の訪問で万が一が起こっては、どうしようもない。今までの全てが水の泡だ。パトリシア妃に何かあっても、クロード殿下に何かあっても、ダルシーザはまた荒れる。フェンドルも無傷では済まない。……取り越し苦労だと言われればそれまでだが、万全を尽くしておきたかった。色々やることがあって、最近はあまり睡眠時間が取れていないんだ」
レオンハルトはうすく息を吐き、そこでようやくエレノアを見た。
膝に抱かれているせいで、彼の視線の方が低い。普段決して弱みを見せようとしない彼の、上目遣いの威力は、凄まじかった。
暴力的なまでの愛しさに突き動かされ、エレノアは彼の頬にキスをした。心からレオンハルトを労わずにいられない。
彼は一瞬目を見開き、それから嬉しそうに口元を緩めた。
初々しい微笑みを惜しげもなく向けられ、エレノアは呻きそうになった。ここにいるのは、一体どなたなの?
「仮眠を取った方がいいわ。レオンハルト様は疲れていらっしゃるのよ」
だからこんな暴挙に出たのだろう。彼の自制の箍は外れてしまっている。
クロードの言った通り、ものすごく可愛いが、無防備な姿は自分以外の誰にも見せて欲しくない。
エレノアは独占欲にかられながら提案してみた。ところがレオンハルトはムッと表情を変え、彼女の申し出を蹴った。
「なるほど。なかなかいい作戦だが、乗らないぞ」
「え?」
「私を寝かせておいて、その隙に『麗しの王子様』と出かけるつもりだろう。そんなことはさせない」
まったく見当違いの推量に、エレノアは目を丸くした。
「そんなことはしません! ただ私は、レオンハルト様が疲れていらっしゃるようだから――」
「そこまで言い張るのなら、一緒に寝よう。それで問題は解決だ」
「は?」
エレノアは何度も瞬きを繰り返した。
レオンハルトは一人納得したように頷くと、エレノアを抱え直し立ち上がってしまう。
ふわり体が浮く不安定な感覚に怯え、エレノアは反射的に彼の首に手を回した。妻の反応に満足したのか、レオンハルトは彼女の背中を優しく撫でる。
「大丈夫。貴女を落としたりしない」
「おろして下されば済む話ですわ!」
図らずも自分からしがみついてしまったエレノアは、真っ赤になって抗議した。
「おろしたら、逃げるだろう?」
お前の手は全て読めている、と言わんばかりの確信に満ちた態度で、レオンハルトは妻を抱く手に力を込めた。
クロードとフィンが立てた作戦は失敗だ。
街へ出かけた振りをして、ティアをもてなすレオンハルトの様子をこっそり観察する手筈だった。
おそらく彼は妻を送り出すことに難色を示し、ティアとは必要以上の接触を持たない。クロードはレオンハルトの行動の予測を立て「宗主殿が大切なのは、他の誰でもなく貴女だから」と不安がるエレノアを励ました。「きっと帰りを待ちわびて焦れったい思いをしますよ」とフィンはほくそ笑んだ。
蓋を開けてみれば、難色を示すどころか、拘束されてしまっている。
エレノアは半ば自暴自棄になりながら「それならお好きにして下さいませ」と答えた。
レオンハルトはエレノアを抱いたまま、自室に移動した。哀れにも移動中にかち合ってしまった使用人達は、引き攣る頬を隠す為、素早く俯いた。
レオンハルトの部屋にも、続きの寝室があった。
エレノアが初めて立ち入るその部屋で、レオンハルトは彼女を寝台におろし、手際よく靴を脱がせてしまう。自分も同じようにすると、上着を脱いで放り投げ、エレノアの隣に横になった。
そして熟れた桃のようになっているエレノアの熱い頬に触れ、小さく笑った。
「何もしない。仮眠を取るだけだ。ほら、目を瞑って」
「私は眠くありませんもの」
心の中を読まれた気がして、エレノアは照れ隠しにそっぽを向いた。
「うん。すまない」
レオンハルトは素直に侘び、「でも、私が起きるまでここにいて欲しい」と頼んでくる。「ほんの四半刻でいいから」と重ねて請われ、エレノアは降参した。
彼の方を向き、試しに髪を撫でてみる。
吹雪の日以来、こうして夫の髪に触れたことはなかった。
一度は許してくれた。だが、いい気になって距離を詰め、馴れ馴れしく振舞って嫌われたら悲し過ぎる。尻込みしていたエレノアの心は今、奇妙な自信に満ちていた。
根拠はどこにもない。だがレオンハルトは、エレノアのやりたいことならどんなことでも、決して咎めないような気がした。
「嫌じゃない?」
小声で尋ねてみる。
レオンハルトは、目を閉じたまま「嫌じゃない」と答えた。
安心して、サラサラと流れる髪の間に指を差し入れ、何度も梳かしてみる。手触りの良さが癖になる。エレノアが無心に髪を弄っている隙に、レオンハルトはうとうとと微睡み始めた。
それからどれだけも立たないうちに、彼は本当に眠ってしまった。
エレノアは、初めて彼と夜を共にした時のことを思い出した。
呆れたことに、あれは狸寝入りだったらしい。道理で綺麗な寝顔だった筈だ。
ぐっすり寝入っているレオンハルトの表情は、だらしなく弛緩している。普段から若く見える彼の、更に少年じみた顔を眺め、エレノアは笑った。
宣言通り、彼は四半刻で目を覚ました。
エレノアと目が合うと、一瞬戸惑ったように瞬きし、それから額を押さえる。
「……みっともないところを見せたな」
自嘲を含んだ掠れ声に、エレノアは勢いよく首を振った。
「いいんです。むしろ、嬉しかったわ」
「嬉しい?」
心底訝しげなレオンハルトの表情が可笑しく、愛しい。
「ええ。私はレオンハルト様を――」
エレノアは胸に秘めていた想いを告白しようと息を吸った。
ところがレオンハルトは、慌てて彼女の唇を掌で塞いでしまった。
どうして言わせて下さらないの?
エレノアは不満も顕に、レオンハルトを睨んだ。悪感情をそのまま顔に出してはいけないと厳しく教えられてきたのに、そうせずにはいられなかった。
彼はエレノアの視線を受け止め、体を起こした。どこか嬉しそうに見える。それから彼女の手を引き、同じように起こしてくれた。
「先に私の話を聞いて欲しい」
「レディファーストの作法をご存知ないのかしら?」
エレノアは口答えせずにはいられなかった。
元来気の強いエレノアは、この悪癖で何度も父を苛立たせてきた。だからこそ夫にはなるべく従順でいようと決意していたのだが、勝手に口が動いてしまう。
レオンハルトは怒るどころかなぜか微笑み、エレノアを優しく眺めた。
「もちろん知っているが、私たちの契約についての話を先にさせて欲しいんだ」
『貴女を愛することはない』――冷ややかな声が耳奥に蘇る。
エレノアはレオンハルトから視線を逸らし、くじけそうになる心を守ろうとした。
「……今はその話は聞きたくない」
「いや、今、聞いて欲しい」
レオンハルトはエレノアの両手を取り、力強く握り締めてくる。
彼の眼差しは真剣で、エレノアの勘違いでなければ、熱を孕んでいるように見える。
「私は言った。『貴女を愛することはない』と。あの言葉を――」
あの言葉を?
エレノアは期待せずにはいられなかった。
どうか、取り消すと仰って。祈るような気持ちで続きを待つ。
レオンハルトは照れくさそうに息継ぎし、改めて口を開いた。
彼の声が耳に届くより先に、突然、寝室の扉が叩かれる。エレノアは飛び上がりそうになった。
レオンハルトは忌々しげに舌打ちし、「後にしろ!」と怒鳴った。
「お言葉ですが、パトリシア妃殿下がどうしても今、来て欲しいとのことです」
扉越しに聞こえる声は、グレタのものだ。
どうやらクロード達は、無理矢理にでも計画を進めることにしたらしい。
「あいにく私は寝ている」
レオンハルトは頑固に言い張った。
「なんというはっきりした寝言でしょう。ご病気かもしれませんね。宗主様に何かあっては大変です。確かめさせて頂きます」
グレタも一歩も引かない。
このままだと、業を煮やしたグレタが扉を開け放ち、今にも壁にかけられている剣を取りに行きそうなレオンハルトと一騎打ちを始めるに違いない。
エレノアは寝台から飛び降り、急いで靴を探した。
「まだ話は終わっていない」
「分かっています。後で聞きますから」
聞き分けのないレオンハルトを宥め、上着を着せかける。
エレノアに甲斐甲斐しく世話を焼かれ、少し機嫌を持ち直したレオンハルトは、ようやく扉を開けた。
「お邪魔してしまい、申し訳ありません」
頭を下げるグレタを冷たく一瞥し、レオンハルトは歩き始める。
彼の左手は、しっかり妻の手を掴んでいた。
「恐れながら、奥様は呼ばれておりません。宗主様と二人でお話されたいとのことでした」
「エレノアを一人にするつもりはない」
グレタの進言をあっさり切り捨て、レオンハルトは妻を伴ったまま、パトリシアの元へと向かった。




