21.譲れない条件
時は少し遡る。
サリアーデ王太子夫妻の訪問日程が知らされてすぐのこと。
エレノアがこの城に来てから一度も立ち寄ったことのない北の庭園に足を向けたのは、ほんの思いつきだった。久しぶりに戻ってくるティアの為に、城中をきちんと整えておきたい。そんな思いから、エレノアは西の塔と皇女の部屋を慎重に避け、それ以外の場所を順番に見回ることにした。
綺麗に片付けられた部屋に満足しながら、外にも足を伸ばす。そして最後に立ち寄ったのが、寂れた裏庭だ。なぜかこの庭だけは、荒れ果てたまま放置されている。
エレノアは首を傾げ、人を呼びに行こうと踵を返した。どれだけも行かないうちに、ダニエル・クリストフを見つける。外から戻ったばかりの彼は、厩舎に馬を繋ぎ城の中へと戻るところだった。
「ごきげんよう、クリストフ様」
「これは、奥様」
ダニエルは人懐こい笑みを浮かべ、エレノアに近づくと軽く頭をさげた。
「こんなところで伴も連れずに、どうなさったのですか?」
「グレタならどこかにいるはずよ。一人にしてくれているだけ」
常に人に囲まれる生活を続けていると、エレノアは無性に息苦しくなるのだ。そんな主の習性を把握しているグレタは、彼女の一人歩きを時々こうして許してくれる。
「そうなんですか?」
ダニエルはキョロキョロ辺りを見回したが、それらしき人影はない。
「試しに私をぶつ真似をしたらすぐに来ると思うけれど、それは嫌よね?」
子供のような仕草が微笑ましく、エレノアは軽口を叩いた。
ダニエルは両手を上げ、降参のポーズを取る。
「ご冗談を。来るだけで済まないでしょう、それ」
二人は顔を見合わせ笑いながら、どちらからともなく歩き始めた。
「城に不備がないか確認していたところなの。北の庭園が荒れているのは、何か理由があるのかしら?」
エレノアはさっそく用件を切り出した。
「パトリシア妃殿下が来るまでに、せめて芝生を台無しにしている草だけでも抜いておきたいわ。あちこちに転がっている石もどかさないと。むき出しになっている地面には砂利を敷いてはどうかと思うのよ」
「ええと……」
エレノアの提案を聞くなり、普段は闊達なダニエルが、珍しく口ごもり視線を彷徨わせる。
「どうしたの? 何か不都合でも?」
「……実は、あの場所は庭園ではないのです」
「そうなの?」
エレノアは立ち止まり、不思議な気持ちで問い返した。
芝生と野草、それに柵代わりの樹木。趣には欠けるが箱庭にしか見えない。
「あそこは、墓地でした。戦死した皇太子殿下やパトリシア様のご生母様、前皇帝に意見して処刑された諸侯達が、埋められていたのです。転がっている石は、墓碑代わりのもので……」
エレノアはあまりの衝撃によろめいた。戦死した皇族が犬猫のように埋められた? 臣下が奏上しただけで処刑された? エレノアの生きてきた世界ではあってはならない出来事だ。
座り込みそうになった彼女を支えたのはグレタだった。
グレタは鋭い視線でダニエルを咎める。ダニエルは慌て、勢いよく首を振った。
エレノアはハンカチで口元を押さえながら、なんとか体勢を立て直した。最初の衝撃が過ぎれば、そういうことも確かにあったのだろうと受け止められる。だからこそグレアム王は国境を越え、進軍したのだ。
「……辛いことを話させてしまったわね。何と言えばいいのか――」
「いえ、奥様に非はありません。……お恥ずかしい話ですが、墓地をあらため、殿下方を霊廟に手厚く葬って下さったのはレオンハルト様です。私たちは知っていても、どうしていいか分からなかった。今もそうです。墓地でなくなったあの場所を、片付けていいのか、そのままにしておいた方がいいのか、分からない」
隠しきれない寂寥と悲しみが、ダニエルの声には滲んでいる。
エレノアは彼の腕をそっと摩り、「レオンハルト様は、なんと仰っていて?」と小声で尋ねた。
「私の権限では決められない、と。いずれ城の本当の主となられるグレアム陛下のお子が決めるだろうと仰ってました」
「そうなのね。では、そのように」
ダニエルはお辞儀をし、その場を静かに去っていった。
エレノアはグレタを伴い、再び裏庭へと戻ってみた。
伸びきった草むらの中、転がっている石が目に入る。石の周りだけは、綺麗に草がむしられていた。明らかに人の手が入っている。
エレノアはとある石の前にしゃがみこみ、僅かに俊巡した後手を伸ばした。石の表面を覆っている苔を丁寧に拭ってみる。やがて人名らしきものが、苔の下から現れた。
初めて会った時から優しい笑みを絶やさなかった皇女の面影を、痛ましさと共に思い出す。
こんな侘しい場所に打ち捨てるように埋められたのは、ティアの大切な人達だ。エレノアは弟を思わずにいられなかった。ジェラルドが同じ目に合えば、正気ではいられない。塔の中で凍えながら、ただ手をこまねいてそれを見ていることしか出来なかった彼女は、どれほど苦しかったことか。
「ティア様の苦しみを、私は全く理解出来ていなかったわ」
エレノアの呟きを拾ったグレタは、溜息をついた。
「だから宗主様も忘れられないのだろうな」
エレノアは息を止め、たった今耳にした言葉の意味を考えた。
レオンハルト様が、ティア様を――?
グレタはエレノアも知っていることを前提に話している。ここで驚けば彼女は口を噤み、決して続きを話してはくれないだろう。
「そうね」
当たり障りのない相槌を打って立ち上がる。エレノアは平然を装い、出口に向かって歩き始めた。
「ティア様は素晴らしい女性だもの。仕方ないわ」
「ミリュエル様みたいだ」
「え?」
「ミリュエル様はお館様を、今のお嬢みたいに許してた。仕方ないって笑ってた。お嬢はそれでいいの? お館様のこと、あんなに恨んでいたじゃないか」
グレタはもどかしげに眉根を寄せ、言い募った。
「お嬢は言ったよね。『彼は誰のことも愛していない。それで充分だ』って。でも違った。よその女との思い出を後生大事に隠し持ってる男だった。お嬢を、手に入らなかった皇女様の代わりにしてる。……私は許せないよ」
「――絶対に調べないで、って言ったのに」
エレノアは唇の端を曲げ、グレタを言葉で打った。
怯みながらもグレタは開き直り、「わざわざ調べたんじゃない。勝手に耳に入ってきたんだ。皇女様と宗主様の誓約は、有名な美談だから」と答えた。
エレノアはゆっくりと瞬きし、それから謝った。グレタは今にも泣き出しそうだった。
「ごめんなさい。私が知りたかったの。だからカマをかけたのよ。……グレタは悪くないわ。そんな顔しないで」
「……いいや、私が悪かった。シークがここにいたら絶対殴られてる。――身の程を弁えない無礼の数々、どうかお許し下さい」
グレタは深々を腰を折り、頭を下げた。ダルシーザにきて伸ばし始めた髪が、さらりと顎の下で揺れる。
エレノアは首を振り、深々と息をついた。
「前にも言ったでしょう。私は大丈夫。……でも、そうね」
エレノアの瞳を物騒な光がよぎる。
レオンハルトの心を縛ることは出来ない。ティアに惹かれるのは当たり前だとも思う。
だがそんな夫を甘んじて受け入れるかどうかの選択権くらいは、自分にあっていい。
全面的にレオンハルトを責めるのは公平ではないだろう。最初の契約を交わした時、きちんと伝えるべきだった。エレノアは猛烈に後悔した。
伝えたらどうなっただろう。レオンハルトは申し込みを取り下げただろうか。彼を好きになった今となっては、辛い想像だ。それでもこの先の長い人生、決して表には出せない嫉妬で苦しむよりはましな気がする。
「誰かの代わりとして傍に置かれるのだけは、嫌だわ。レオンハルト様を愛していなければ、見過ごせたかもしれない。でも今の私には無理。どうしても、我慢出来ない」
華奢な主が発した氷のように冷たい怒気に、グレタは圧倒されそうになった。
そういえば。
――ミリュエル様も本気で怒ると、手がつけられなくなるんだった。
ランズボトム公爵を憔悴させた一連の騒動を思い出し、グレタは思わず二の腕を擦った。
そして現在。
エレノアは歓迎の笑みを完璧にこしらえ、応接室の長椅子に腰掛けている。
ティアの滞在は、良い機会だ。この二日間で夫の真意を掴もうと、エレノアは意気込みを新たにした。
自分は身代わりの人形なのか、そうでないのか。はっきりさせた後のことは、まだ決めていない。ただ今のままではいられないことは明らかだ。
クロード王太子の美貌に、エレノアは一瞬目を奪われた。
グレアム王の結婚式で見かけたことはある。あの時は、父がどんな顔で参列しているかばかりが気になり、リセアネ王妃の付き添いをしていた彼に気を留める余裕はなかった。
クロードは、エレノアが少女時代に『理想の王子様』として思い描いたままの人だった。
グレタには話して聞かせたことがある。それどころか、絵まで描いて見せたことがある。周囲に気取られないよう、そっと目を向ければ、案の定グレタはにんまりと人の悪い笑みを浮かべてエレノアを見ていた。
目顔で叱り、何もなかったかのようにティーカップを手に取る。
今度は、痛いほどの視線をすぐ隣から感じた。
どうやら今のやり取りをレオンハルトに見られてしまったようだ。
「それにしても、二年前とは見違えましたね。これほど早く立ち直るとは思っていなかった。宗主の手腕の見事さには感服しきりです」
クロード王太子は見た目を裏切らない美声で、レオンハルトを褒める。
ティアはそんな夫の隣で嬉しそうに頷いていた。
「グレアム陛下が羨ましい。非常に有能で、それでいて決して裏切らない腹心を持っているということですから。我が身を振り返ってしまいます」
クロードの台詞に、壁際で控えていた騎士の一人が眉を上げる。柔らかな金色の巻き毛に茶色の濃い瞳をした美青年は「異議有り」とでも言いたそうだ。
レオンハルトは表情を崩さず「勿体無いお言葉です」と答えたが、早くこの会合から解放されたがっているのは一目瞭然だった。
「お仕事の合間にこうして付き合って下さって、ありがとう。後はどうかお気になさらず」
居心地の悪そうなレオンハルトを慮り、パトリシアは声をかけた。ざらりと濁った低い声だった。
エレノアは嬉しくなった。ティアは途中で咳き込むことなく、会話できるようになっている。
「案内は不要ですものね。ですがもしどこかへ出かけられるのなら、ご一緒できたらと思います」
エレノアが申し出ると、クロード王太子は美しい瞳を明るく輝かせた。
レオンハルトが膝の上で拳を握り締める。
エレノアの視線は自分に微笑みかける王太子殿下に釘付けで、夫の様子には気づかない。
「ありがとう。ティアから貴女の話は聞いているよ。植物の研究者でもあるとか。畑や庭を是非見せて欲しいな。結婚祝いを沢山持ってきているんだ。その中には、花や野菜の種も入ってる」
「まあ!」
エレノアは頬を薔薇色に染め、身を乗り出した。
主にティアに向かって、心のこもった礼を述べる。
「本当に嬉しい贈り物ですわ。こことは全く違う土地で育った植物の種が欲しかったのです。どうしてお分かりに?」
「分かるに決まっているわ。エレノアの夢に、私がどれほど感動したか。いつか完成することを心から祈っています」
「ありがとうございます。全力を尽くします」
手を取り合わんばかりの二人を見て、レオンハルトは秀麗な眉をひそめた。
これほど仲が良いとは思ってもみなかった。意外に思ったのはレオンハルトだけのようで、サリアーデ側の人間もエレノア付きのメイド達も、微笑ましそうに二人を見守っている。
城の中なら、まあいい。だがティアの街歩きにエレノアを付き添わせることだけは絶対に阻止しなくては。レオンハルトは決意し、こっそりエレノアを横目で見てみた。
今まで見たこともないような愛らしい表情で、エレノアはクロードに微笑みかけている。
レオンハルトは瞬時に湧き起ったドス黒い感情に戸惑った。嫉妬だと遅れて気づき、溜息を噛み殺す。
「美しく聡明な奥様ですね」
クロード王太子の感心したような声は、エレノアの自尊心をいたく満足させた。
とっさにレオンハルトを振り仰いだが、端整な顔はピクリとも変化しない。
誰に褒められようと、夫が同意してくれないのなら意味がない。
ふわりほころんだエレノアの喜びは、音を立ててしぼんでいった。




