20.届かない言葉
壁際にくっついて眠ってしまったエレノアに、恐る恐る手を伸ばす。
起こさないよう気をつけながらこちらを向かせた拍子に、彼女の眦から一筋の雫がこぼれ落ちた。
「……くそっ」
レオンハルトは低く毒づき、エレノアを抱き込んだ。
彼女の重みと温かさは、彼の心を縛り上げる茨のようだ。遠ざけてしまえば楽なのに、どうしても出来ない。
パトリシア妃殿下の訪問の知らせに、レオンハルトは自分でも信じられないほど動揺した。
とっさに浮かんだのは、「今はまだ来て欲しくない」という身勝手な想いだ。
長い時間をかけ弱ってきたダルシーザの復興は、未だ遠い。ティアには完全に蘇った祖国を見せたい。賑わう町並みを見下ろし、並んで立つ。ティアは素晴らしいと頬を染め、感謝の眼差しを向けてくれるに違いない。そんな馬鹿げた夢をレオンハルトは抱いていた。知らせを受け取るまで全く気付かなかったが、そうだった。
レオンハルトの心の扉を開けたのは、エレノアだ。
妻のせいで、今まで向き合わずに済んできた色んなことがドッと溢れてきている。パトリシア妃殿下への淡い想いもその一つ。ティアはレオンハルトが初めて尊敬を抱いた女性だった。
パトリシア妃殿下を自分のものにしたいと思ったことは一度もない。
レオンハルトは懸命に言い訳した。
衝撃だっただけだ。ティアは献身的で、賢明で、レオンハルトの中にあった女性像とはまるで違っていた。
エレノアはどうだろう。
レオンハルトは妻を思い浮かべてみた。エレノアも賢く献身的な女性だ。
……無意識のうちに似た女性を選んでしまったのだろうか。
ふと浮かんだ疑惑は、レオンハルトの心に重い鉛を撃ち込んだ。
罪悪感に苦しめられながら向かった寝室で、エレノアは無垢な笑みを浮かべた。
彼女は、心からパトリシア妃の訪問を楽しみにしていた。
ダルシーザに来てからというもの、エレノアは苦労してきた。一見難なくこなしているように見えて、実は彼女が人知れず悩み、迷ってきたことをレオンハルトは知っている。ゲルト民の間に根強く残っている最後の皇女への崇拝は、エレノアを疎外し、傷つけてきた筈だ。
それなのに、柔らかく微笑みながら『とても楽しみ』などという。
今ここにいて、ダルシーザに尽くしているのはエレノアだ。だがモンテサント夫人をはじめ城の人間は、彼女の努力を忘れ、パトリシア妃の帰還に熱狂するだろう。
それでいいのか? 本当に?
気づけば刺々しい声が出ていた。
エレノアは目を丸くし、純粋な疑問を瞳に宿した。
それから『親しくしていた』と答え、ティアとの友情を示唆した。
彼女とティアが連れ立って街歩きをする場面が浮かぶ。
警備の目をかいくぐり皇女を攫おうとする反逆者が現れた時、きっとエレノアはその身を挺して止めるだろう。エレノアはそういう女だ。ナイフを突き立てられ動かなくなった妻が、人形のように道端に転がる。
瞬時にそこまで想像したレオンハルトは、吐き捨てるように「皇女に近づくな」と警告してしまった。
もっと他に言い方はあったし、そもそもそんな事態が起こる可能性は無に等しい。クロード王子とサリアーデの近衛騎士が、ティアとエレノアを守るに決まっている。グレタもいる。あの忠実な従者が主を傷つけさせるわけがない。
レオンハルトが余裕をなくして混乱したのは、エレノアのせいではない。直前まで別の女性のことを考えていたからだ。
だが、レオンハルトはようやく気づいた。
彼にとっての唯一は、エレノアなのだと。
エレノアが傷つけられるくらいなら、ティアがどうなろうと構わない。
ついに彼は自覚してしまった。レオンハルトの心をみるみるうちに塗りつぶしていくのは、彼の立場が決して許さない想いだ。許されなくてもエレノアが何より大切なのだと、もう一人の自分が頑固に主張する。
レオンハルトは泣きながら眠ってしまったエレノアを抱きしめ、つむじに唇を押し当てた。
「貴女を愛している」
嘘で自分を守ってきた彼がようやく吐き出した本音は、どこにもたどり着かず、闇に溶け消えた。
次の日の朝、エレノアが目覚めるまで待っていたレオンハルトは彼女に謝罪した。
「昨夜はすまなかった。傷つけるつもりはなかった」
エレノアは幼い少女のように目を擦り、「え?」と問い返す。
いつもは先に寝室を出てしまうから、彼女の寝起きが悪いことを知らなかった。完璧な淑女然と振舞っている日中との差異に、レオンハルトは頬を緩めた。
「きつい言い方をして悪かった。……許して貰えるだろうか」
速度を落とし、言い直してみる。エレノアはようやくレオンハルトの言葉を理解したようだ。
「許すだなんて。私は大丈夫です。気にしてませんから」
泣いたことに気づかれていないと思っているのだろうか。エレノアは優しく首を振る。
思い返してみれば、いつもそうだ。
エレノアは決して我が儘を言わない。負の感情が生まれたとしても、ひっそり自分の中で処理し、押し殺してしまう。
おそらくそうあれと教育されてきたのだろうが、レオンハルトは不満を覚えた。
強い自制心には感服するが、人の心とはもっとままならないものだろう。
「貴女は我が儘なくらいでちょうどいい。昨夜の私は横暴だった。腹が立っただろう?」
彼が言うと、エレノアは何度も瞬きし、「でも――」と口を開きかける。
レオンハルトは期待に満ちた瞳で、妻の反論を待った。
エレノアがどんな振る舞いをしようと、嬉しくしか思えない自信がある。
強くあろうとする彼女の弱みを、自分だけには見せて欲しい。
「何も思い当たりませんわ」
ところがエレノアはにっこり微笑み、レオンハルトを締め出した。
まさか自分の打ち明け話が彼女を萎縮させているとは思いも寄らないレオンハルトは、がっかりしながら寝室を後にした。
短い春が終わり、つかの間の強い日差しが緑を色濃く照らし始めた頃。
サリアーデ王太子夫妻の訪問日程が知らされた。
レオンハルトは補佐官達とおもだった使用人、そしてモンテサント夫人を執務室に集め、皇女のお忍びを発表した。
「滞在するのは、二日だけだ。彼らは身分を伏せて訪問する。サリアーデの伯爵夫妻という設定だ。『王妃陛下の伝手で、城に滞在を許される』ということになっている。ゆめゆめ、大げさな歓待は慎むように。港からハージェスまで警護の手配を頼む。警備兵には平民の格好をさせろ。――私からは以上だ。質問は?」
あっけに取られて聞いていたゲルト民の補佐官達は、こぞって歓声をあげた。モンテサント夫人は感極まり、エプロンで目元を拭い始めた。
一気に賑やかになった執務室が落ち着くのを待って、具体的な対策を立てていく。滞りなく打ち合わせは終わった。
部屋を出たレオンハルトの後を、フェンドル人の補佐官が追ってきた。
「エレノア様は、なんと?」
城の女主人役を務めているエレノアへの気遣いが、補佐官の顔には浮かんでいる。
レオンハルトは「彼女も喜んでいる」と答え、続けて「ありがとう」と微笑んだ。
どんな激務をこなそうと、レオンハルトの言葉は決まっている。「ご苦労」とそっけなく言われ、それで終わりだ。
補佐官はポカンと口を開けてその場に立ち尽くし、レオンハルトを見送った。
激務に追われるレオンハルトがエレノアとの距離を縮められないでいるうちに、日々は過ぎた。
そしていよいよ、訪問の日がやってきた。
城に到着した馬車は二台。
先頭の馬車には王太子夫妻が、そして後続の馬車には従者という名目で同行してきたクロード付きの近衛騎士数名が乗っている。
馬車から降り立ったクロード王子は、片側の肩から下がっているマントを優雅な手つきで颯爽と捌き、誰もが見惚れる笑みを浮かべながら、パトリシアを馬車から下ろした。
レオンハルトは感慨深い思いで、かつての皇女を迎えた。
初めてティアを見たのは、この城の一室。ガリガリに痩せこけたみずぼらしい娘だった。次に会ったのは、フェンドルの王城。ようやく見られるくらいにはふっくらした彼女は、醜い喉の傷を毅然と晒し、まっすぐにレオンハルトを見つめた。
今はどうだろう。
伯爵夫人にはとても見えない。端整な面差しには自信が満ちている。大国の王太子妃として満たされた日々を過ごしているのだとすぐに分かる。それほど彼女は輝いていた。
傾国という言葉がぴったりのクロード王子と並んでも、全く見劣りしない。
おおっぴらに出迎えるわけにはいかないから、ゲルトの使用人達はあちこちに身を潜めて、ティアの姿を盗み見た。彼らの視線に気づいたティアは、その都度親しげに会釈する。
城のあちこちで上がるすすり泣きに、レオンハルトは溜息を堪えた。
二日で良かった、と心から思う。こんな馬鹿騒ぎは一度で充分だとも。
部屋まで案内すると、クロード王子はレオンハルトに向かって胸に手を当て、腰を折った。
「この度は滞在をお許し頂き、恐悦至極に存じます。わずかな時間ではありますが、どうかよろしくお願い致します」
サリアーデ国民が見たら卒倒しそうな光景だ。
クロード王子の隣でティアも同じく、膝を折っている。彼らの背後に控えた従者の一人には見覚えがあった。クロードの腹心の騎士で、この城で顔を合わせるのは三度目になる。
「……勘弁して頂きたい」
レオンハルトが呻くと、その騎士一人が「ですよね」と小声で同意してくれた。




