2.エレノアの事情
今年もまた苦痛しか運んでこない社交シーズンが始まってしまった。
エレノアはうんざりしながらメイドの手を借り、身支度を整えた。
一日も早く父が諦めてくれたらいいのに。
幼い頃からグレアム王の正妃候補として教育されてきた彼女を、今更貰ってくれるような奇特な男性はどこを探してもいないのだ。
身分も教養も、もう一つ言えば自尊心も高すぎる。
適齢期の貴族子息からはそんな風に思われ、敬遠されている。
賢い父だ。周囲の空気に気づいていない筈がない。エレノア自身も幾度となく訴えた。
「お前はどこに出しても恥ずかしくない娘だ。そう育ててきたのだから、間違いない」
父の答えは決まっていた。
どこに出しても恥ずかしくない娘が、誰からもダンスに誘われないのは何故?
父はエレノアが憎いのかもしれない。
宿願を果たさなかった罰だと言われる方が、まだ腑に落ちる。
玄関ホールで待っている家族の元へ、エレノアはのろのろと足を進めた。
断頭台へ引き出されるような気分だ。
グレアム王はなかなか妻を娶らなかった。正妃候補だったかつてのライバル達は早々に見切りをつけ、皆次々に嫁いでいった。
エレノアだけが残され、27歳になっている。
行かず後家とおおっぴらに後ろ指をさされずに済んでいるのは、国王夫妻が何かと目をかけてくれているからだ。
父はエレノアを見ると一言も発さず、母の手を自分の腕にかけさせ、さっさと馬車へ向かってしまった。母は気遣わしげに娘を振り返ろうとしているが、父が許さない。
エレノアのエスコート役は、今夜も弟だった。
「今夜もすごく綺麗だよ、姉さん」
心根の優しいジェラルドは、褒め言葉を忘れず口にする。
いつもの軍服ではなく黒いスーツで正装した彼は、凛々しい身のこなしで彼女の手を取った。
行き遅れの姉がいるせいで意中の女性を迎えに行くことも出来ないというのに、嫌な顔ひとつ見せない。
「ありがとう。今夜のパーティでおしまいに出来るといいのだけど」
貴方に迷惑をかけるのを、という一言はかろうじて飲み込んだ。
これ以上弟を困らせたくない。
「……修道女になるって、まさか本気じゃないよね? 父上はものすごく怒っていらっしゃるし、このままだと無理やり誰かに嫁がされてしまうよ」
「本気よ。とっても良さそうな教会を見つけたの」
「どうせ隣に大きな畑か森があるんだろ」
呆れと許容の入り混じった口調でジェラルドは言った。エレノアを馬車に乗せ、彼も向かい側に座る。2人が落ち着いたのを見計らい、御者は馬に鞭を当てた。
轍が回り始める音に、エレノアの憂鬱は深まる。
うろうろと居場所を求めて彷徨う壁の花が、どれほど惨めか。父にも味わわせてやりたいくらいだ。
弟ももう25歳。彼から味方につけるべきかもしれない。なんといってもジェラルドは次期ランズボトム公爵なのだから。
「毎日のお勤めの一つに畑仕事があるんですって。希望するなら小さな温室を作ってもいいって、教会長様は仰ってたわ。お願い、ジェラルド。決して貴方に迷惑をかけないと約束します」
公爵令嬢という身分で植物の研究を続けることに、エレノアは限界を感じていた。
グレアム王の支援により設立された王立研究所は、この一年で随分大きくなった。国内外から優秀な植物学者が集まり、立派な温室や土の種類を工夫した畑で様々な交配を試している。彼らの中に女性はいない。エレノアただ一人が、彼らに混じって額に汗を流し働いていた。
どうにもやりにくい。
エレノアに身分で劣る男性研究者の中から、不満の声があがるのに時間はかからなかった。
苦情は回り回ってグレアム王まで届いた。
現場を離れ、彼らを使う側に回ってはどうか。有難いことにグレアム王はエレノアを高く評価してくれている。研究所の所長という座を提示されたが、エレノアは首を振った。
偉くなりたいわけじゃない。誰にも煩わされず、土いじりがしたいだけなのだ。
エレノアは切々と弟に訴えた。
「――そうか。分かった。散々考えて出した結論なら、僕は応援するよ。望まない結婚で姉さんが不幸になるよりは、マシだろうから」
「ありがとう。貴方ならきっと分かってくれると思ってた」
エレノアとジェラルドは、目を見合わせ、似た表情で苦笑をこぼした。
2人が同時に思い浮かべたのは、長い間仮面夫婦を通してきた両親だ。
どういう風の吹き回しか、最近は家でも仲睦まじい彼らだが、特にエレノアは父を『最低の夫』だと思っている。
別の女性を心に棲まわせたまま、妻を娶った不誠実な男だ。母がすっかり許している風なのが、信じられない。
私ならどれほど謝罪されようと決して許しはしない。
エレノアはきつく唇を引き結び、馬車の窓から見える王城を見つめた。
大広間は華やかな装飾に彩られ、明るく照らされていた。
秋でも肌寒いフェンドルで行われる夜会に蓄熱暖炉は欠かせない。あちこちに置かれたレンガ造りの洒落たストーブのお陰で、中は暑いほどだった。
広間の中央は広く空けられ、少人数編成の楽団が軽やかな音楽を奏でている。すでに数名の男女が優雅なステップを踏んでいた。
賑やかで浮き立った雰囲気の中、まずは国王夫妻へと招待の礼を述べに行く。
「よく来てくれたわね! 待っていたのよ」
エレノアが膝をおるが早いか、リセアネ王妃は満面の笑みを浮かべて立ち上がった。
「念のため言っておくけれど、貴方への言葉じゃないわよ、ランズボトム公」
「もしそうなら、陛下の気の病を疑ったところです」
リセアネ王妃の嫌味に、父はすかさず言い返す。
2人は明らかに軽い睨み合いを楽しんでいた。グレアム王はやれやれと肩をすくめ、母は父の上着の裾を引っ張る。
輿入れ当時はリセアネ姫を毛嫌いしていた父も、今ではすっかり彼女を気に入っているようだ。
――『あれくらい気の強い姫でないと、フェンドルの王妃は務まらないな』
滅多に人を褒めない父が放った言葉は、今でもエレノアの耳に残っている。
ぬぐい去れない羨望に、密かにエレノアは苦しめられていた。
グレアム王を男性として見たことは一度もない。彼は完全過ぎた。恐れ多さが先に立ち、魅力を感じるところまでいかなかったのだから、こうなってお互い良かったと思う。
それでも父を失望させたという傷は、今でもエレノアの胸の奥にあった。どれほど憎まれ口を叩こうと、母のことで軽蔑しようと、エレノアの中で父は燦然と輝く星だった。
認められたい。諦めてほしい。
相反する感情がエレノアの心でくすぶっている。
「女同士の話をしてくるわ。席を外してもよろしくて?」
「構わない。エレノア嬢にあまり迷惑をかけるなよ、リセ」
グレアム王の茶目っ気を含んだ甘い声には、未だに慣れない。
エレノアは気恥ずかしくなり、思わず俯いた。
最愛の王妃を得て、グレアム王は変わった。
他者を寄せ付けない厳しさが薄れ、前にはなかった大らかさが表情に出ている。人としての円熟味を増した国王は、以前にも増して民の敬愛を集めていた。
「分かっています」
リセアネ王妃は眩い笑みで夫に応え、エレノアの手を引いた。
「まずは腹ごしらえよね。陛下の隣に座ったままだと好きなものが食べられないから、エレノアが来てくれて助かったわ」
助かったのはエレノアの方だ。
王妃が彼女を連れ回している、という体裁を取り繕ってくれなかったら、今頃壁紙と同化していただろう。しかもお腹をすかせたまま。
「お気遣い、ありがとうございます」
気づかないうちに沈んだ表情をしていたらしい。
リセアネは友の憂鬱を見逃さなかった。
これも美味しそう。あれもいいわね。リセアネは足早にテーブルを回り、料理を見繕っていく。
エレノアの手にも山盛りの食事を乗せた皿が持たされた。
「さて。じゃあ行きましょうか」
にっこり笑ったリセアネに有無を言わさず促され、エレノアは大広間から抜け出す羽目になった。