19.伝わらない想い
冬の間、公主夫妻は暇を見ては共に過ごし他愛ない話に興じたが、レオンハルトが少年時代の思い出を語ったのは一度きりだった。
エレノアはその一度の打ち明け話を、貴重な宝物として胸の奥にしまった。
レオンハルトが己の腕の中でゆっくり力を抜いた時、エレノアはこれ以上ないほど満たされた。想う相手に信頼される喜びを知り、泣きたくなった。
誰に対しても冷徹な態度を崩さず、決して自分のテリトリーに立ち入らせようとしない彼なのに、エレノアには多くを許してくれたのだ。
無防備に預けられた頭の重み。絹糸のように滑らかだった彼の髪。自分の名を呼ぶ掠れた切ない声。
一人の時間にこっそり取り出しては反芻し、また大切にしまい込む。
レオンハルトの態度に変化はない。相変わらず、表立って優しくされたこともない。それでもエレノアは満足していた。「物語や詩のような顛末を期待するな」とは言われたが、「愛するな」とは言われていないことに気づき、嬉しくなる。
生まれて初めての恋は、エレノアを舞い上がらせた。
「誰かを好きになるって、楽しいことだったのね。毎日ドキドキしているの。二十七にもなって馬鹿みたいでしょう? でも、悪い気分じゃないわ」
エレノアは瞳を輝かせながら、グレタに打ち明けた。
隠しきれない喜びに弾んだ声でそんなことを言う主を見て、グレタは複雑な気持ちになる。
「レオンハルト様も私のこと、嫌いではないと思うの。そのうち、好きになって下さるかもしれない。愛情とまではいかなくても、ほら一番の友達みたいに」
「……お嬢はそれでいいの?」
見返りを求めようとしないエレノアがもどかしくなり、グレタは思わず問い返していた。
幸い移動中で、周りに人気はない。二人はこれから、試作中の肥料を混ぜた土の具合を見に行くところだ。
長かった冬も終わりを迎えようとしている。暖かな日差しに地面の雪は溶けかけ、茶色くぬかるんでいた。
「どういう意味?」
「お嬢ばっかりだ。お嬢ばかりが、宗主に尽くしてる。ダルシーザの復興だって、陛下に頼まれてるのは宗主で、お嬢が必死になることじゃない」
グレタの脳裏を先日の出来事がよぎる。
支援物資を持って教会を訪れた帰り、エレノアは浮浪者の少年に雪玉を投げつけられた。
『澄ました顔しやがって! ホントは俺らを馬鹿にしてるくせに!』
大声で叫んだ少年は、痩せた身を翻し逃げ出した。
支援物資を用意することに、エレノアの自由時間は殆ど費やされている。誰も死なないようにと、常に心を砕いている。グレタは激怒した。
とっさに動こうとしたグレタを制し、エレノアは首を振った。渋々隠しナイフから手を離す。この距離なら充分心臓を狙えた。
エレノアは外套から雪を払い落とすと、何事もなかったように歩き始めた。
収まらないのは、護衛の兵士達も同じだった。フェンドル兵だけでなく、ゲルト兵も顔色を変え、少年を追う許可を求める。
『石でもいいのに、わざわざ雪玉を作ったのよ。今日は油断してしまったけれど、次は私も投げ返すわ』
エレノアは余裕たっぷりの笑顔で、少年を擁護した。
怯えた表情で事の経緯を見守っていた街の人々は、ホッと肩の力を抜いた。
『それでは示しがつきません』
悔しがる兵士に、エレノアは命じた。
『では巡回の時に彼を見つけたら、捕まえてこう言って? 私を詰る余裕があるのなら、炊き出しの手伝いにいらっしゃいって』
エレノアは少年を罰して規律を明らかにするより、街の人々の感情を和らげることに利を見出した。この辺で人心を掴んでおきたい。噂はあっという間に広がるだろう。エレノアの基本姿勢をアピール出来る絶好の機会だ。
エレノアの目論見は成功し、その日以降、ゲルトの民の視線は一気に好意的なものに変わった。
お嬢はすごい。その場の感情で動かず、冷静に状況を見極めるエレノアにグレタは感心した。と同時に、もう何度目か分からない苛立ちをレオンハルトに覚えた。
エレノアだって傷ついていない筈がない。疲れていない筈がないのに、何故いたわろうとしない。一連の騒動を耳にしたレオンハルトは、至って冷静に「妥当な判断だったな」と言っただけだった。
「彼の背負っている荷物は重すぎるわ。だから少しでも助けになりたいだけよ」
エレノアは困ったように微笑んだ。
「じゃあ、お嬢の荷物は? 一体誰が一緒に持ってくれるんだ?」
「私は自分で背負えるし、それにグレタや皆がいる。……心配してくれてありがとう」
エレノアはグレタの手を握ると、昔のようにぶんぶん振り回した。
「大丈夫。私は、大丈夫」
「――お嬢は、いっつもそれだ」
ランズボトム公にきつく叱られ、泣きながら手習い帳に文字を綴っていたエレノアを思い出し、グレタは渋面を作った。
心配するグレタの手を握ってリズミカルに振り、エレノアは泣き腫らした顔で笑うのが常だった。
どうかもう、エレノアが一人泣くことがありませんように。
グレタは祈ることしか出来なかった。
春がやってきた。
雪解けを迎えたダルシーザのあちこちで、大規模な工事が再開され始める。
橋や道路の整備、病院や学び舎の新設、市場の充実など、レオンハルトが抱えている案件は多岐に渡る。それぞれに責任者をおいてはいるが、統括責任者は宗主であるレオンハルトだ。
グレアム王に提示された期間は、十年。すでに二年が過ぎている。残り八年で、ダルシーザをフェンドル本国に利益をもたらす土地へ変えなくてはならない。
民に課す税を本国と同じ率まで上げ、他国と対等な取引できるくらいの国力をつける。
レオンハルトは深く息を吸い込み、目の前に広げた十ヵ年計画表を指で叩いた。
再び冬が来る前に、やらなくてはならないことは山積みだった。
春がきた途端、レオンハルトが城にいる時間は激減した。
エレノアは寂しく思いながらも、彼を煩わせまいと決意を新たにした。
帰城すると、レオンハルトは真っ先にエレノアの顔を見に来る。
といっても見るだけで、すぐに立ち去ってしまうのだが、エレノアには充分だった。
おかえりなさい、と迎えるエレノアを、レオンハルトは眩しげに見つめた。しばらく妻を眺めた後、「困ったことはないか?」と尋ねる。「何もありません」エレノアは胸を張って答えた。
そんなある日。
エレノアは思いがけない手紙を受け取った。
リセアネ王妃からだ。彼女からの手紙には、もう一通別の手紙が同封されている。
まずはリセアネ王妃からの手紙を開いてみることにした。
エレノアは文面に目を走らせながら、微笑まずにはいられなかった。
『親愛なるエレノアへ
元気にしていて?
していないのなら、レオンハルトに厳罰を与えなくてはいけないから、早めに知らせてね。
貴女の献身はフェンドルにも聞こえていてよ。グレアム様も大層喜んでいます。
ランズボトム公爵の得意顔は、見飽きてきたところ。
レオンハルトからの報告書にも、ちらほら貴女の名前が載っているの。
賢妻を自慢したくて堪らないんだな、って陛下は笑っているわ。
今日は素敵な知らせが届いたので、筆を取りました。
ティアが(今はパトリシア妃殿下だったわね。私たちの間では今まで通りの呼び方でもいい?)兄様と外遊に出ることになったのですって。
サリアーデの王太子夫妻が同盟国を訪問するのは、これが初めてなの。
もちろん、フェンドルにも来てくれるわ。
ティアは決して口にしないけれど、ダルシーザの様子を見たくてたまらないみたい。
兄様の提案で、ダルシーザにはお忍びで立ち寄ることになったそうよ。
皇位を剥奪されたとはいえ、ティアはゲルトの民にとって今でも特別でしょう?
彼女を攫って、祖国復興を狙おうと企む不届き者が現れないとも限らないんですって。
本人の意向はお構いなしなのが腹立たしいけど、男ってそういうものよね。
サリアーデとフェンドル両方に喧嘩を売る自殺志願者がいるとは思えないけれど、油断大敵ってことみたい。
というわけで、レオンハルトのところにも陛下から同じ知らせが行っていると思います。
ティアのお忍び訪問を、どうか宗主と一緒にサポートしてあげて下さい。
エレノアの結婚を知らせたら、ティアもものすごく喜んでいたわ。
たぶん、貴女が驚くほど沢山の結婚祝いを抱えていくと思うから覚悟してね。
私がエレノアに会いに行ける日程がずれ込んでしまったのが、唯一の残念な点だわ。
貴女のいない王都に退屈してしまう前に、またお手紙を下さるわね?
エレノアを大好きなリセアネより』
リセアネ様ったら。エレノアは感激しながら手紙を胸に押し当てた。
手紙の内容は、エレノアにとっても朗報だった。
旧友との再会に胸を躍らせながら、思いを巡らせる。モンテサント夫人達は、どれほど喜ぶことだろう。ゲルトの民の崇拝は、今でもティアのものだ。
黒髪の優しい面差しが胸に浮かぶ。
エレノアは待ちきれない思いでもう一通の手紙も開封した。
予想通り、それはティアからだった。流麗な筆跡で、結婚を寿ぐ言葉が綴られている。復興途中のダルシーザへ嫁いだエレノアへの気遣いも書かれてあった。
大国の王太子妃となっても、変わらず謙虚な筆致に頬が緩む。
エレノアは夜を待ちわびた。
レオンハルトと喜びを分かち合いたかった。
寝室へやってきたレオンハルトに、エレノアは早速手紙の話をした。
「とても楽しみですわ。いつ頃になるのでしょうか。具体的な旅程が分かったら、私にも教えて下さいませね。ティア様と一緒に街を回る時間はあるかしら」
浮き立つエレノアを一瞥し、レオンハルトは聞えよがしな溜息をついた。
珍しく不機嫌な彼に、エレノアはたじろいだ。
「どうだろうな。――貴女も親交があったとは知らなかった」
なければ良かったのに、と言外に匂わされたような気がして、エレノアの戸惑いは深まる。
気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。考えても特に思い当たらず、内心首をひねりながら、「ええ。王城にいた時に親しくさせて頂いておりました」と答える。
レオンハルトは冷たい声で「当時は許されたかもしれないが、今は違う。馴れ馴れしい振る舞いは慎むように」と返した。
エレノアは信じられず、大きく目を見開いた。
今のティアの身分は、重々承知している。以前のような付き合いが望めないことも。
そんなことも分からない愚か者だと思われているのだろうか。
エレノアは怒るより先に、悲しくなった。
レオンハルトの冷ややかな口調は、父とよく似ていた。
「はい」
かろうじて頷き、急いで掛布の中に潜り込む。
じわり目尻に浮かんだ涙を、レオンハルトにだけは見られたくない。
何かにつけメソメソと泣き出す母が疎ましかった。そう彼は教えてくれたのに、自分が同じ真似をするわけにはいかない。
エレノアはレオンハルトに背を向け、きつく目を閉じた。