18.兆し
エレノアは冷気で白く曇った分厚い窓ガラスに指を這わせ、意味のない模様を描いた。透明になった場所はまたすぐに曇ってしまう。
子供じみた手遊びをやめ、エレノアはそっと後ろを振り返った。暖炉の前に置かれたソファーから覗く焦げ茶色の頭は、ピクリとも動かない。
昨晩からの大雪は、強い風を伴い吹雪になった。今日は朝から城中が静かに息を潜めている。
何をして過ごそうか思案しながら支度を終えたエレノアの元に、同じく着替えを済ませたレオンハルトがやって来た。
「この天気だ。どこにも出かけるなよ。それと、もう一枚羽織った方がいい。部屋でじっとしていると冷えるから」
「承知いたしました。――何かあったかしら? コートは大げさよね」
「こちらは如何でしょう」
メイドはクローゼットから白のショートケープを選んだ。
もこもこした兎のようなショートケープは、実はエレノアのお気に入りだ。若い娘向きの可愛らしすぎるデザインだから、外に着ていったことはない。部屋から出ないのであれば、構わないだろうか。
胸の前で天鵞絨のリボンを結び、「どうでしょう」とエレノアはレオンハルトに向き直った。
優美な大人の魅力に溢れたエレノアが、途端に愛らしくなる。メイド達は感嘆に瞳を輝かせた。
「か……」
レオンハルトは小首をかしげて己を見つめてくる妻から目を逸らし、短く頷いた。
「それでいい」
――か?
エレノアは訝しげに瞳を細め、メイド達は一斉に俯いた。
外へ出るなと釘をさしに来ただけかと思いきや、レオンハルトはそのまま居座るつもりらしく動こうとしない。
グレタとメイド達は目配せし合い、あっという間に退散していった。
図らずも夫と二人きりになったエレノアは、特別な話でもあるのだろうかと身構えたが、レオンハルトは暖炉の前に小ぶりのソファーを移動させるとそこへ収まった。それから持参してきた本を読み始める。
わざわざ私の部屋で読まなくてもいいのでは?
エレノアはぽかんとしてしまった。
レオンハルトは本からこっそり目をあげ、背後を窺った。
エレノアは窓際から動こうとしない。
先程から一心に外を眺めている。彼女の頭の中は、育てている植物の事でいっぱいに違いない。大雪を予想し、動かせる鉢はみな庭小屋へ移したはずだが、地植えしてあるものは駄目になる。せっかく育ちかけていたのに、とがっかりしているのだろうか?
聞いてみたかったが、自分から静寂を破るのは憚られた。
こんな悪天候では訓練場で剣を振るうことも出来ない。
仕事がないわけではなかったが、今日くらいは休養日にしよう。早々に決めて皆に休みを出したことを、レオンハルトは後悔しかけていた。
たまには妻とゆっくり過ごそうと思ったのだが、慣れないことはするものじゃない。
このまま、頭に入ってこない戦術書を読むのは時間の無駄だ。レオンハルトは思い切って立ち上がり、口を開いた。
「エレノア」
「レオンハルト様」
二人の声がぴったり重なる。
エレノアもいつの間にかこちらを向いていた。
「なんだ?」
「なんでしょう」
少し間を置いて尋ねたのだが、またもや声が重なる。
レオンハルトは可笑しくなった。いくらなんでも息がぴったり過ぎやしないか。
エレノアも同じことを思ったようで、クスクス笑い始めた。笑いながら、お先にどうぞ、というジェスチャーでレオンハルトを促す。
「特に用はないのだが、せっかくの休みだし、何か話をしないか」
「同じことを提案しようと思っていましたの。隣にいっても?」
「ああ」
エレノアは嬉しそうに微笑み、予備の椅子を取りに行こうと歩き始めた。
レオンハルトはそんな彼女に近づくと、無言で腕を取り、自分が座っていたソファーに座らせた。一応二人掛けということになっているが、座面は狭い。
エレノアの隣に腰を下ろしたレオンハルトは、戸惑うエレノアの顔を覗き込んだ。
「窮屈か?」
「いえ……大丈夫です」
窮屈だといえば、離れてくれると分かっている。だがエレノアは弾かれるように首を振った。
脇に感じるレオンハルトの体温が心地良い。昼中、彼の方からエレノアに近づいたのは、これが初めてだ。数え切れないほど体を重ねた相手だというのに、まるで初めて触れ合うような気恥ずかしさを覚える。
エレノアはもじもじとケープのリボンを弄った。
「――こんな時、世の夫婦はどんな話をするのだろうな」
レオンハルトは髪をかきあげ、途方に暮れたように呟く。
エレノアは不意に気づいた。自分は、夫のことを殆ど知らない。
戦に出れば一騎当千の強者であること。政治能力も高いこと。グレアム王から厚い信頼を寄せられていること。胸の中で数えたそれらは、エレノアが人から間接的に聞いたものばかりだ。
今でこそ、冴えた美貌と容赦ない手腕で『氷の猛将』と謳われてはいるが、少年の頃からそうだったわけではないだろう。
「レオンハルト様のことをもっと知りたいです。そんな話ではいけませんか?」
「私のこと?」
エレノアの提案に、レオンハルトは眉をあげた。
「特に面白い話は披露できないと思うが」
「面白くなくてもいいのです。たとえば、小さい頃好きだった遊びとか」
エレノアは瞳を輝かせ、レオンハルトを見つめた。弾む心のまま、並べてみる。
「苦手だった食べ物とか。なりたかったものとか」
いつになくはしゃいだ様子のエレノアに、レオンハルトは目を細めた。
半身をよじり、お互い向き合う形で座っている。
ふかふかの白いケープを纏った彼女は、雪兎のようだった。抱きしめて撫で回したら、どんな手触りがするだろう。今まで小動物を愛でたことはないが、目の前の兎には触れたくてたまらない。
うずうずしながら、順番に答えていく。
「外で遊ぶのが好きだった。家には居たくなかった。苦手だったのは、ぬめっとした食べ物だな。ソルデの実を知ってるか? 領地の名産だが、あの山菜は今でも苦手だ。あとは……」
何が楽しいのか、エレノアは満面の笑みで聞いている。
レオンハルトは我慢できずに手を伸ばし、彼女の肩に触れた。予想以上に柔らかい。撫でれば、その下のエレノアの骨格まで感じられる。
エレノアは頬を染めたが、レオンハルトの悪戯を止めはしなかった。
制止されないのをいいことに、彼は心ゆくまで妻の肩を撫でることにした。
「なりたかったものは、特にないな。とにかく家を出たかった」
エレノアの瞳が翳る。
彼女は何度か口を開け閉めした後、おずおずとレオンハルトの手に自らの手を重ねた。
彼は撫でるのをやめ、エレノアの手を握り返した。
「……それほど居心地が悪かったのですか?」
愚かな母のあれこれを、レオンハルトは今まで誰にも打ち明けたことがない。付き合いの長いグレアム王でさえ、彼の女嫌いは性分だと思っている。
心配そうなエレノアをじっくり眺め、レオンハルトは慎重に心の鍵を外した。
彼女は今まで彼の周りにいた女性達とは、全く違う。エレノアなら信じてもいい気がした。彼女なら、弱く脆い自分を嘲ったりせず、寄り添ってくれるような気がした。
「私の母は、自殺したんだ」
エレノアは息を飲み、レオンハルトの手をきつく握り締めた。
美しい瞳が驚愕に染まり、やがて潤んでいくのをレオンハルトはじっと追った。
「同情はいらない。母が死んで、私はせいせいしたのだから」
レオンハルトは、ぽつぽつと幼い日の思い出を話していった。
話していくうち、母の気持ちについて真剣に考えてみたことがないことに思い当たり、レオンハルトは自嘲の笑みを浮かべた。
ヒステリックに泣き喚く母を嫌悪してきた。ないものねだりばかりする愚かな女だと、蔑んできた。たった一人の子供の世話すらろくにせず、日がな一日自己憐憫に浸っていた母は、レオンハルトの忌むべき恥部だった。
母の苦悩に思いを馳せたことは、一度もなかった。
「おそらく母にも正当な言い分があったのだろうな。私には分からなかっただけで。冷たくなった母に縋って、父は泣いていた。それなりの愛情はあったのだと思う」
「……レオンハルト様」
エレノアはかける言葉が見つからないというように、ただ彼の名を呼んだ。
その声に込められた深い同情に、レオンハルトは自分でも驚くほど癒された。
他人から哀れまれるなんて絶対にご免だと思ってきたのに、エレノアにはもっと慰めて欲しい、と思った。
「私は女が嫌いなんじゃない。怖いんだ。自死すら厭わない母の激情が理解できなかった。今でも分からない。分からないから排除してきた。くだらないと見下げていれば楽だった。……私はもう、巻き込まれたくない」
レオンハルトは目を伏せ、ぐったりとソファーにもたれ掛かった。
本音を話すのは、思った以上に骨が折れた。
こんな女々しい泣き言を、エレノアはどう思っただろう。
出てしまった言葉は戻せない。弱い男だと軽蔑されても、レオンハルトにはどうしようもない。
しばらく脱力していた彼の手を、エレノアは強い力で引っ張った。握られたままの手を思い切り引かれ、油断していたレオンハルトはエレノアの方に倒れ込んだ。
ふかふかの毛皮が頬に当たる。
レオンハルトは遅れて、自分の体勢を把握した。エレノアは子供を抱くように、レオンハルトの頭を胸に抱え込んでいる。
「怖くて当たり前です。レオンハルト様は子供だったんですよ。子供は弱いものです。子供の世界はとても狭くて、その世界の中心には親がいるんです。……お母様が、いたんです」
レオンハルトは抵抗せず、エレノアの心音に耳を傾けた。
全力疾走した後のように、彼女の心臓は激しく打っていた。彼の頭を抱く手は、震えている。エレノアもまた、真剣に向き合おうとしてくれているのだと悟った。
「私も長らく父の呪縛に囚われてきました。私の感じた孤独と、レオンハルト様の感じた苦しみは、決して同じではないでしょう。だから、お気持ちが分かるとは言いません。言えません。……でも、これからのことは約束できます」
エレノアはレオンハルトの髪を、恐る恐る撫でた。
そういえば誰かに頭を撫でられたことは一度もない、とレオンハルトは自覚し、ようやく自分を許せる気持ちになった。
ほんの少しでいい。母に省みて欲しかった。父のようになるなと呪詛を吐くのではなく、頭を撫でて欲しかった。少年姿のレオンハルトが扉の奥から怯えた顔を覗かせ、怖い、寂しい、と訴える。
「私はレオンハルト様を、過分な要求で煩わせたりしない。約束します」
彼女の真摯な誓いに、レオンハルトは引っ掛かりを覚えた。
そういうことだろうか。
自分がエレノアに望んでいるのは、身の程を弁えた振る舞いだろうか?
何かが違う、と胸の奥がざわつくのに、それが何か分からない。
「……エレノア」
仕方なくレオンハルトは、妻の背中に手を回した。
複雑に混ざり合った想いの中から、何一つ掬い上げることが出来ないまま、レオンハルトはエレノアを抱きしめた。