17.冬ごもりのあれこれ
なんてことを口走ってしまったのか。
翌朝、エレノアは後悔に苛まれた。メイド達に世話を焼かれながら、考えるのは昨晩のこと。
ローレスのまじないなんて、試すのじゃなかった。夫に知られないよう背中を向けてこっそり祈っていたつもりが、レオンハルトは目ざとく気づき、秘密を暴いた。
サシェの正体を知った彼がエレノアに向けた眼差しは、冷たかった。
それなのに、泣き言を洩らした彼女を放置せず、きつく抱き締めてもきた。レオンハルトの縋り付くような抱擁を思い出し、エレノアは息を詰めた。
夫の真意が分からない。分かっているのは、夢のように甘い夜はいつか終わるということ。
このまま懐妊しなければ、レオンハルトは去っていく。せめて一年は待ってくれるだろうか。エレノアが十代の若い娘なら、あのような無様な真似をせずに済んだものを。思考は出口のない袋小路を彷徨い、エレノアを疲弊させた。
「早朝から雪が降っています。今日は外での作業はなしにして下さいね、奥様」
「……そうね」
「早く温室が作れるといいですね。燃料が充分ではない現状では難しいかもしれませんが」
「……ええ」
浮かない表情でぼんやり相槌を打つエレノアを見て、メイド達は奥歯を噛み締めた。
寝支度の時にはいつも通りのエレノアだった。ということは、昨晩のうちに何かあったに違いない。
音もなく部屋に滑り込んできたグレタは、屑籠に捨てられているサシェを見つけた。エレノアが人目を盗むようにしてこっそり作っていた子宝祈願のお守りだ。
グレタは悲しくなった。
エレノアはレオンハルトに心を寄せ始めている。それはレオンハルトも同じ。あれで隠せているつもりなのだから笑わせる。だが依然として二人の間には溝があった。
グレタは支度途中のエレノアを見つめ、唇を噛んだ。
命じてくれたらいいのに。
彼女が「探れ」と一言命じてくれたなら、レオンハルトが纏っている鎧の正体を必ず突き止めてみせるのに。
エレノアは周囲の心配そうな視線に気づき、無理やり口角を上げた。
殊更明るい声を張り、重い空気を振り払おうとする。
「今は民たちが暖かく冬を越すことの方が重要だわ。温室に回すストーブがあるのなら、彼らの寝室を暖めなくては。今日はパンを焼いて教会を回ろうと思っているのだけど、どうかしら?」
戦災によって生まれた寡婦や孤児を保護しているのは教会だ。エレノアは定期的に教会を回り、足りない物資を補給している。
首都ハージェスの復興は目覚しい。それでも未だ日々のパンに困っている人の数は少なくなかった。エレノアのしていることは、単なる自己満足かもしれない。それでも何もしないよりマシな筈だと彼女は信じていた。
「食料庫の備蓄が減っていると報告が上がっています。雪で交通路が閉ざされれば、本国からの補給も難しくなるでしょう。どう致しますか?」
エレノアの問いかけに答えたのはグレタだ。
エレノアは顎に指を添え、思案した。城の人間を賄うだけなら充分過ぎるほどの蓄えだが、ハージェス中の民を養うことは出来ない。では、どうすればいいか。働けない民を見捨てるという選択肢ははなからない。
「そう……まずは備蓄の残りを把握して、補給が絶たれた場合の計算をしてみた方がいいわね。小麦粉は節約しましょうか。今日は、野菜と燻製肉でスープを作ることにするわ。兵士達がしばらく猟師に鞍替えしてくれたら、とても助かるのだけど」
「奥様が提案されれば、非番の兵士は喜んで狩りに出かけると思いますよ。お側を離れることになりますが、その時は私も出ます」
グレタは目元を和ませ、エレノアの提案に賛同した。
彼女が感情を表に出すのは、エレノアの前でだけだ。従者服をすっきり着こなし帯刀したグレタは、凛々しい美青年にしか見えない。そんなグレタの稀有な微笑みに、メイド達はうっかり見蕩れてしまった。
「そうね、天気の良い日にお願いしてみる。もちろんレオンハルト様の了解を取ってからだけど」
夫の名を口にするだけで、鋭い痛みがエレノアの胸を刺す。
……感傷に浸っている場合ではない。
エレノアは軽く目を閉じ、冷たい朝の空気を吸い込んだ。そして、これからやらなければならないリストで頭を埋め尽くすことにした。
食堂では、すでにレオンハルトが座ってエレノアを待っていた。
彼女は早速、慰問と食料庫の備蓄について切り出した。手の空いた兵士達を派遣し、野兎や鴨、鹿などを狩らせてはどうかという思いつきに、レオンハルトは笑わなかった。真面目な表情でエレノアの話に耳を傾け、「分かった。善処しよう」と請け負う。ある程度の犠牲はやむを得ないと考えていたレオンハルトは、弱者を守ろうと懸命な妻を眩しく見つめた。
連絡事項の伝達が済むと、気詰まりな沈黙が広がる。
普段はもう少し賑やかなのだが、今朝はエレノアが大人しいので、食堂は静まり返っていた。エレノアは優雅な所作で朝食を済ませ、そそくさと立ち上がった。
彼女が給仕のメイドに目顔で礼を伝え、部屋を出ていこうとしたその時。
「もう行くのか」
珍しくレオンハルトはエレノアに声をかけた。
エレノアは足を止め、テーブルに着いたままの彼を振り返った。
「昼食の炊き出しに間に合うよう、準備しなくてはなりませんもの」
「……そうだな」
レオンハルトは頷いたものの、行っていいとは言わない。
困ったエレノアは踵を返し、夫の脇に立った。
「何かございましたか?」
「……手を」
「え?」
「手を出して」
ぶっきらぼうにレオンハルトは言い、戸惑うエレノアの手を取った。
一回り小さな手を包むように握り込み、彼は黙り込んでしまう。レオンハルトの視線はテーブルから一度も剥がれなかった。
「貴女の行動には、いつも助けられている。誰にでも出来ることじゃない。感謝する。それから――」
レオンハルトは咳払いした。まっすぐな髪の間から覗く耳の縁が、赤く染まる。
「前言撤回だ。子が出来なくても、貴女以外の女に触れたりしない。養子という手もある。家のことは何とでもするから、一人で悩むな」
レオンハルトは早口で告げ、エレノアの手を離した。
問い返す暇もない。彼は勢いよく立ち上がり、大股で食堂から出て行ってしまった。
残されたエレノアは唖然と立ち尽くし、夫の背中を見送った。しばらくして何を言われたかに気づき、その場にしゃがみ込みそうになる。
給仕メイドは素早く壁へ向き直り「私は何も聞いていません」という姿勢を表明した。
レオンハルトの突然の翻意に、エレノアの心臓は痛いほど高鳴った。
必死な私を憐れんで下さったの? 女性が嫌いだから? それとも――。
『貴女を愛することはない』
かつて告げられた言葉を記憶から引っ張り出し、エレノアは緩む頬を必死に引き締めた。
もう何でもいい。同情でも間に合わせでも。
レオンハルトは決して優しいとは言えないが、簡単に約束を破る人ではない。軽々しく出来ないことを請け負う人でもない。トランデシル伯爵家は由緒ある家柄だ。直系相続が基本の貴族社会において、養子縁組が簡単でないことはエレノアにも分かっている。その全てを踏まえた上で、レオンハルトは「何とでもする」と言ってくれたのだ。
昨晩からエレノアを苦しめていた焦燥は、霧が晴れるように消えていった。
子が欲しい気持ちに変わりはない。それでも初夜以来、エレノアが感じ続けていた強迫観念は薄らいだ。
エレノアは軽い足取りで食堂を後にした。
宗主夫妻が去った後、給仕メイドは声にならない声を上げ、目の前の壁を叩いた。
非番の兵士たちは気晴らしを兼ね、こぞって狩りに出かけるようになった。
首尾よく獲物を捕らえてくれば、エレノアの極上の笑みが手に入るのだ。晩のおかずも少しだけ豪華になる。フェンドル兵もゲルト兵も、心を一つに獲物を追った。
訓練ばかりで退屈だった日々に、張りが生まれた。賑やかな雑談で埋まるようになった兵舎を覗き、ダニエル・クリストフはエレノアの思いつきに感心した。
「今日は、二番隊の隊長が大きな鹿を仕留めたそうで」
資料室に篭っていたレオンハルトを見つけ、ダニエルは報告した。
「そうか。それはすごいな」
「奥様はそれは喜ばれて、ご自分が巻いていた手編みのマフラーを下賜されたんですよ。二番隊の隊長はまだ若いし、独り者ですからね。感極まってましたよ」
「……そうか」
レオンハルトの二回目の相槌は、低く凄みを帯びている。
ダニエルは内心ほくそ笑みながら「羨ましい話です」と続けた。
レオンハルトは音を立てて書架の扉を閉めると、足音も荒く資料室を出て行った。
城中を探し回り、彼はようやくエレノアを見つけた。この城には部屋が多すぎる。レオンハルトは苛立ちを城のせいにした。
こちらに背を向けたエレノアは、椅子に腰掛け縫い物をしているところだった。どう声をかけようか思案したレオンハルトの隣に、誰かが並ぶ。グレタだった。
ハッと気づいた時にはもう、間合いに入られていた。
グレタは固まったレオンハルトに会釈すると、気配を消したままエレノアに近づいていった。体の重みを感じさせない歩き方に、寒気を感じる。
「奥様」
グレタは優しい声色でエレノアに呼びかけた。
きっと妻は飛び上がって驚くに違いない。ところがレオンハルトの予想は、あっさり裏切られた。
「余っている布はあった?」
「ええ。物置で埃よけに使われていたものが。ちょうどいい大きさです。洗えば綺麗になるかと」
「良かった。洗い替えのシーツがないのは気の毒だものね。次の慰問の時に持っていきましょう」
レオンハルトには分からない会話を交わしつつ、エレノアは針を動かしている。グレタが部屋に足を踏み入れてから、一度も後ろを見ていない。エレノアの優れた察知能力に、レオンハルトは舌を巻いた。
ふと思いつき、彼もグレタを真似てみることにした。
そうっと足音を殺しながらエレノアに近づき、すぐ後ろまで来てから「何を縫っているんだ?」と尋ねてみる。
エレノアは盛大な悲鳴をあげ、身を竦ませた。
「どうか落ち着いて下さい。旦那様ですよ」
グレタが何食わぬ顔でエレノアを宥める。
「も、もう! 驚かさないで下さい!」
後ろを振り返り夫の姿を認めたエレノアは、ほっと息を吐いた。
その後レオンハルトは、涙目のエレノアに「針で指を刺すところだった」と叱られたが、どうしても謝ることが出来なかった。