13.前途多難
本当にこれでいいのかと後ろめたく思いながらエレノアは、丸一日を寝台の中で過ごした。
レオンハルトは用事の合間を縫ってエレノアを見舞った。
「さっぱりしたものなら食べられそうか?」
胃の中は空っぽなのに、頭がぐらぐらし続けているせいで食欲が湧かない。かろうじて水だけを口にするエレノアを、レオンハルトは心配そうに覗き込む。
あまり近づかないで欲しい。もう一週間もきちんと髪を洗っていない。水が貴重な船内では、身体を拭くのが精一杯だった。立って動くと吐いてしまうので、宿でもまだ風呂には入っていない。心配性のグレタに「のぼせて倒れたら大変だ」と止められてしまったのだ。
さっぱりと身なりを整え、爽やかな香りを漂わせているレオンハルトはいつもと変わらず美しい。その彼に臭いと思われるのは耐えられない。エレノアは身を引き、顔を背けた。
「……なぜ逃げる」
レオンハルトの不機嫌そうな声が降ってくる。
彼は寝台に膝をつき、ますます身を乗り出してきた。
「あまり近づかないで下さい。湯浴みを済ませていないので、汚いのです」
はっきり言わないと伝わらないらしい。察してくれたらいいのに。
エレノアは涙目で夫を睨みつけた。
レオンハルトはエレノアのきつい眼差しに怯んだ様子もなく、ハッと鼻で笑った。
「汚い? 貴女が?」
何を思ったのかレオンハルトは、妻のおろし髪を右手で持ち上げ、首筋に鼻を近づけた。
とっさのことに反応出来ない。しかも逃げられないよう、彼の左手はエレノアの後頭部に差し入れられている。
「急に動くと、また吐くぞ」
船室で何度も嘔吐してしまったエレノアを、レオンハルトは嫌な顔一つせず、その都度介抱してくれた。朦朧としていたのでよく覚えていないが、彼の手も服も汚してしまったような気がする。再びあんな目に合わせるわけにはいかない。
きつく拳を握り締め、エレノアは羞恥に耐えた。大人しくなった妻の鎖骨付近で、レオンハルトは息を吸い込む。彼の吐いた熱い息にぞくりと背筋が震えた。お腹の奥がきゅうと縮こまる。
レオンハルトは髪から手を離すと、真っ赤になったエレノアと目を合わせ、得意げに微笑んだ。
冷たい美貌が柔らかく和むその笑みを、船の中でも幾度か見た。その度、エレノアは切なくなった。彼の考える愛と友情の境目は、どこにあるのだろう。
こんな風に特別扱いされ続ければ、好きになってしまう。
心が動くのは必然ではないの? それとも私が特別惚れっぽいの?
異性と付き合ったことがないエレノアにはさっぱり分からなかった。
「大丈夫だ、全く臭くない。この程度を気にしてたら、野営地のテントではとてもじゃないが眠れないぞ?」
軍船の次は、野営地に連れていかれるのだろうか。
エレノアは気が遠くなった。レオンハルトが妻に求める基準は、軍隊生活に耐えられるかどうかなのかもしれない。
彼は一旦部屋を出て行くと、今度はブルーベリーを手に戻ってきた。
甘酸っぱい味が舌に蘇る。顔を明るくしたエレノアの頭を撫で、レオンハルトはブルーベリーの入った器を渡してくれた。犬を可愛がるような手つきだ。少なくとも、二十七の既婚婦人に対する敬意ある態度とは言えない。
それでも何故か不快感は湧いてこなかった。素直に嬉しいと思う自分を恥ずかしく思いながら、エレノアはブルーベリーをつまんだ。
もぐもぐと口を動かす間も、レオンハルトは寝台脇の椅子に腰掛け、じっとエレノアを見つめている。
次第に居た堪れなくなり、エレノアは手を止めた。
「……ご用事はもうお済みですの?」
「ああ」
「……お食事は?」
「済ませた」
「……他にすることは――」
「ないな」
きっぱりと言い切った後、レオンハルトはようやく気づいたように「もしかして」と言葉を続けた。
「私が見ていると、食べにくいのか?」
「そう……ですわね」
「あの従者が見ていても、平気なのにか?」
急にグレタの話になり、エレノアは困惑してしまう。
レオンハルトが傍にいる間、彼女は決して近づいてこない。いつの出来事を指しているのだろう。
「グレタが私を?」
エレノアが問い返すと、レオンハルトはすいと目を細めた。
彼の声のトーンが下がる。
「あれはグレタというのか」
「ええ。私がつけたのです。ぴったりの名前でしょう?」
「貴女が?」
訝しげに眉を寄せたレオンハルトはそこで言葉を切り、エレノアと視線を合わせたまま黙り込んだ。
これは、詳しく話せということなのか。それとも、聞きたくないということなのか。
困ったエレノアはしょうがなく、ブルーベリーの器に再び視線を落とした。
「言えないことじゃないのなら、その話を聞きたい。あれが何なのか、推測はついている」
エレノアが食べ終わるのを待って、レオンハルトは口を開いた。
彼女の手から器を受け取り、近くのテーブルに置くと、再び椅子に腰掛け足を組む。
エレノアはまるで尋問を受けているような錯覚を覚えた。
「気分が優れないなら、今じゃなくてもいいが――」
「いえ、もう目眩は収まりました。……どこから話せばいいのか。グレタは、私専属の特別な従者なのです」
夫となったレオンハルトになら、打ち明けてもいいだろう。
エレノアはぽつぽつとグレタの出自、そして今までどれほど彼女に支えられてきたかを打ち明けた。
彼は椅子の肘掛に肘を乗せ、話す彼女を見つめる。頬杖をついた拍子にこげ茶色の髪がさらりと揺れた。よく鍛えられた細身の体躯に、長い脚。
エレノアはレオンハルトから目を逸らし、両手を組み合わせた。
芸術品のように美しい男の鋭い視線を、頬に感じる。なんだか息苦しくなってきた。
「……レオンハルト様の推測通り、グレタは女性ですわ。養父が動きやすいようにと男装させているのです。グレタは目立つことを好みません。これからも、今まで通りそっとしておいて下さると有難いわ」
早くこの話を済ませてしまおう。一気に言い切った途端、ガタン、と物音がする。
レオンハルトを見遣ると、慌てて体勢を立て直したところだった。
どうやら肘掛から肘が落ちてしまったようだ。
「あれは、女なのか?」
「ええ。気づいておられたのでしょう?」
ここが公の場所ならば、レオンハルトは眉一つ動かさず「もちろんだ」と答えていただろう。誰にも隙を見せてはならない。愚直さは悪手だと弁えている。
だがここにはエレノアとレオンハルトしかいない。妻との信頼関係を築くにあたって、嘘をつく方が良くないのではないだろうか。彼は肯定も否定も出来ず、唇を引き結んだ。
「もしかして、勘違いなさってたのですか? ですが先程、推測はついていると……」
「密偵だということは分かっていた」
言い訳じみた素早い返答に、エレノアはくすりと笑みを零した。
「ご明察です。結婚するにあたり、グレタの雇い主は正式に私ということになりました。彼女は決して私を裏切りません。私もグレタを裏切らない。どこへでも、私は彼女を連れて行きます。ご理解下さい」
「……分かった」
レオンハルトは静かに頷いた。
気のせいかもしれないが、悄然として見える。
エレノアは「ずるい方」と心の中で詰った。
外では怖いくらい張り詰めて、滅多に私情を顕にしない癖に、人目がない時はこうして素直な感情を覗かせる。レオンハルトのそういうところが憎らしい。どうせなら、出会ったばかりの頃のような冷ややかな態度を貫き通して欲しかった。
過酷な船旅は、エレノアにとっての蜜月になってしまった。誰にも邪魔されることなく、殆ど二人きりだった。彼女の隣にいたのは、氷の猛将と恐れられる軍人でもなく、ダルシーザをまとめあげる冷徹な宗主でもなく、ただのレオンハルトだった。
エレノアは諦め混じりに目を閉じ、ふかふかの羽枕に身を預けた。
すぐにレオンハルトが立ち上がり、壊れ物を扱うような手つきで横になるのを介助してくれる。
温かく大きな手に触れられる度、エレノアの心はどうしようもなく舞い上がってしまう。誰かに大切にされる、という感覚に彼女は不慣れだった。
「長話をさせて悪かった。明日はいよいよ城へ戻る。今夜はゆっくり休むといい。風呂は明日の朝入るのでいいだろう?」
レオンハルトはそこまで言って、悪戯っ子のように口の端を持ち上げた。
「さっきも言ったが、臭くない。だが私が隣にいると気になるというのなら、今晩は隣の部屋で眠ろう」
彼の親切さが、不意打ちのように見せられる無防備な笑みが、自分にとってどういう意味を持つのか、エレノアは気づいてしまった。
レオンハルトを単なる契約相手とは思えなくなっている。
家を出るにあたり、より便利な相手を見つけたつもりだった。
決して愛してはくれない男へ急速に傾いていく心の止め方を、どこで学べばいいのか。
これ以上近づくのは賢明な判断ではない。
頭では分かっているのにどうにも離れがたく、エレノアは気づけば口を開いていた。
「……レオンハルト様が気にならないのなら、傍にいて下さいますか?」
レオンハルトは大きく咳き込んだ。