12.ダルシーザへ
メインマストは追い風を受け、大きく膨らんでいる。海面は穏やかに凪いでいるし、雲の状態から見て急な嵐に襲われるということはなさそうだ。するするとマストによじ上り、望遠鏡を覗いている船員を見上げ、エレノアは眩しげに目を細めた。
風に煽られた後れ毛が唇に張り付いてしまうのを、先程から何度も取ろうとしている。無自覚なのだろうが、半開きになった赤い唇がひどく艶かしい。船員の一人がぼうっとした瞳でエレノアを見つめていることに気づき、レオンハルトは舌打ちしたくなった。
フェンドルへ戻ってくる時は陸路を使った。要所となる砦をいくつか視察し、問題がないことを確認しながらの帰国だった。帰りは海路を使い、海賊が出ていないかを確認するつもりだ。三本マストの帆船には六十門の大砲が搭載されている。万が一交戦に突入しても、易易と沈められる船ではない。
客船ではなく軍船に乗る羽目になったエレノアは、ほんの少し目を見開いただけだった。
レオンハルトの知っているご婦人方なら、わざとらしく気を失う振りをするか、遠まわしの嫌味を口にするところだ。
「ずっと立っているのは疲れるだろう? 私に付き合うことはない。部屋で休むといい」
士官用の船室には大きな窓もあり、雑魚寝を強いられる船員用の部屋よりは豪華な造りになっている。船旅を目的とした客船には劣るが、それほど窮屈な思いはしない筈だ。
レオンハルトが勧めると、エレノアは頬を上気させたまま、首を振った。
「ええ、後ほどそうさせて頂きます。でももう少しだけ、一緒にいても構いませんか? 海を見るのは初めてですし、船に乗るのも初めてなんです。レオンハルト様の所属は、確か陸軍ではなかったかしら。この船はどうなさったの?」
「陛下に頼んで船を出して貰ったんだ。私は海戦には詳しくないし、この船において何の権限もない」
エレノアの瞳を不安の影がよぎる。
慌ててレオンハルトは付け加えた。
「何かあっても貴女だけは守る。心配は不要だ」
「何か……」
余計に不安にさせてしまったようだ。これだから女は面倒くさい。
海賊による被害報告を、ダルシーザ側では受けていない。この航路はとりあえず安全ということだ。かいつまんで説明すると、彼女はこくりと頷いた。だが「海賊」という物騒な言葉に身動ぎしたのを、レオンハルトは見逃さなかった。
しっかり者に見える彼女が時折覗かせる頼りなさは、彼をどうにも落ち着かなくさせる。
自信たっぷりで生意気な態度でいる時の方がまだマシだ。エレノアに出会ってからというもの、レオンハルトは己の不可解な感情の揺れに悩まされていた。
「心配は不要だと言った」
苛立ちに突き動かされ、青ざめてしまったエレノアの肩を抱き、引き寄せる。
しっかり抱き込んでいるうちに、彼女の頬は再び赤みを取り戻した。それどころか熟れた林檎のようになった。レオンハルトは可笑しくなった。二十七にもなって初心なエレノアが可愛い……わけではない。断じてない。
「真っ赤だな」
人差し指の腹でエレノアの火照った頬を押すと、懸命に取り澄まそうとしている表情が幼く崩れる。余分な肉はないように見えるのに、ふくふくと柔らかい感触だ。
そういえば昨晩も同じことを思った。寝る相手に不自由したことは一度もない割に、女の頬の感触さえ知らなかった自分に呆れてしまう。
可哀想にエレノアは目の下に隈を作っていた。自分が先に寝ないと、エレノアは眠れないようだ。仕方なくレオンハルトは寝入る振りをした。しばらく経って、もぞもぞと衣擦れの音がする。ようやく寝息をたて始めた彼女を見てみれば、何故か壁にぴったりとくっついていた。掛布からはみ出した無防備な肢体をせっせと寝具で包み直し、その後でレオンハルトも眠りについた。
長い軍生活のお陰で、どこだろうがいつだろうが、すぐに眠れるようになっている。眠りは浅いが、こんな時は非常に便利だ。そうでなければ、抱かないと宣言した新妻に手を出し、結果泣かせていただろう。
未遂に終わった初夜を思い出しながら、じっとエレノアを観察してみる。
きめ細かな肌は透き通るように白い。外で作業をすることが多いはずなのに、不思議だ。
「そんなにつつかれたら、穴が空いてしまいます」
頬をふにふにとつつくレオンハルトの指を、彼女の細い指が押さえた。
「頬が赤いのは、レオンハルト様がじろじろ見るせいですわ。誰でも恥ずかしくなります」
エレノアは怒った口調で抗議してきたが、声は甘いので全く説得力がない。
レオンハルトは、「そうか。悪かったな」と口先だけで謝った。
エレノアは諦めたのか身体の力を抜き、レオンハルトの好きなようにさせた。脇にかかる彼女の重みが貴重なもののように思えてくる。と同時に、会って間もない男を簡単に信用してしまうエレノアに対し、腹立たしさに似た焦燥が湧いた。
彼女は無邪気に瞳を輝かせ、煌く海面や、高く空を舞う海鳥を見ていた。
「――気は済んだか? 船酔いする前に休むんだ」
これ以上は良くない。愛しさなんて馬鹿げた感傷は抱くべきじゃない。
レオンハルトは、エレノアを離し、部屋へ戻るよう促した。
彼が告げた次の瞬間、どこからともなく例の従者が姿を現す。彼はレオンハルトを冷ややかに一瞥すると、船の揺れからエレノアを守りながら連れ去っていった。無礼だと咎めることも出来ない。彼の給金をレオンハルトが払っているわけではないから。あの従者の主は、自分ではない。それが忌々しいだけだ。
胸に浮かんだ黒い感情を打ち消し、レオンハルトは大きく息を吸った。
軍船に乗るのは久しぶりだ。最新型だという船がどれほどのものか見せて貰おう。
レオンハルトは船の状態を見て回ることにした。
その途中、船長を務めている将校に肩を叩かれる。彼とは軍の合同訓練で何度か一緒になったことがあった。ファインツゲルトとの戦争では受け持った前線が違った為、顔を合わすのは数年ぶりだ。
「元気そうだな。乗り心地はどうだ?」
「なかなかいい。貴公も健勝そうで何よりだ。今回は無理を聞いて貰えて助かった。礼を言う」
「いや、そろそろ見回っておきたかった航路だし、それは構わない」
真面目くさった顔を急転させ、男がニヤリと唇の端を持ち上げる。
「ただな。美人の奥さん貰って嬉しいのは分かるけど、軍が男所帯だってこと忘れてないか? あまり見せつけてくれるなよ」
「……は?」
数拍遅れて、どうやらからかわれているようだと判断する。
怯えた妻を宥めるのは夫の義務だろうが。この男は何を言っているんだ。
レオンハルトは眉を上げ「そんなことは分かってる。馬鹿言うな」と軽口を返した。
夕食の際、下っ端の船員たちは士官のいない気楽なテーブルに着き、「トランデシル伯の噂は嘘だったな」「あれで女嫌いとか、ないわ」と顔を寄せ合い、盛り上がった。
ダルシーザの港に到着したのは、出立してから五日後だった。
ニーヴェの港から旧皇都までは馬車で半日ほどの道程だ。自分だけならそのまま帰ってしまうのだが、慣れない船旅で消耗しているエレノアは一旦休ませた方がいいだろう。
レオンハルトは出迎えに来た補佐官に会うなり、宿を取るよう命じた。
「宿を、ですか? ではお戻りは明日に?」
「ああ。今日はニーヴェに泊まって、明日城へ戻る」
「不在時の報告書などは――」
「緊急なものはあったか?」
「いえ、特には」
「では、明日見せて貰おう」
「は、はい」
無駄を嫌う仕事第一のレオンハルトのことだ。てっきりこのまま城へ戻ると思っていた補佐官は、首をひねりながらその場を辞した。あのトランデシル伯が、奥方に配慮して帰城の日程をずらすとは。雹でも降るのではないかと、男は空に目をやった。
「宜しかったのですか? 私なら、大丈夫です」
おぼつかない足取りで下船してきたエレノアは、従者に支えられながら口元をハンカチで覆っている。それでも気丈に振舞おうとする妻に、レオンハルトは顔をしかめた。
「青白い顔で強がるな。しばらく揺れのないところで休めば、楽になる筈だ。私は船長と話をしてくる。待たずに先に行ってくれ」
送ってもらった礼を述べ、寄港の間どうするかを尋ねなければならない。帰りの航路についても話しておきたいことがあった。
「……ごめんなさい」
従者に付き添われ立ち去る直前、エレノアは小声で謝ってきた。
申し訳なさそうな表情が気に入らない。
「謝罪はいらない。何か言うのなら、礼にして欲しい」
レオンハルトはエレノアに近づくと、そっと頭に手を乗せてみた。怒っていないと伝えたくて、何度かほつれた髪を撫でてみる。
船内では満足に手入れ出来なかったのだろう。絹糸のようだった髪はパサついていた。気分が悪かったからか、今日は珍しく結い上げず、後ろで一つにまとめているだけだ。すっかり窶れたエレノアは、それでも美しかった。
「ありがとうございます」
エレノアは眉を寄せ、頼りない声で言い直した。泣くのを堪えるかのように、顎に愛らしい窪みを作っている。
「ああ。早く良くなるといいな」
「はい」
子供のように素直に頷いたエレノアを見て、レオンハルトの心は大きく揺らいだが、何とか踏みとどまった。可愛……くはない。普通だ。普通。
旅の間、箱入りで育ってきた彼女が簡素な食事に文句一つ言わなかったこと。何かとレオンハルトを気遣ってくれたこと。夜の海は少し怖いと震えたこと。壁にくっついて眠っていたのが、最後の夜は自分にくっついて寝入ったこと。今思い返してはいけない数々の思い出が浮かび上がってくる。
もはや何と戦っているのか分からない。
花嫁を探すと決めた時、まさかこんな面倒な事態が自分を待ち受けているとは微塵も予想していなかった。どんな不利な戦を前にも感じたことのない敗戦の予感を、レオンハルトは今初めて感じていた。
レオンハルトに突っ込みたい気持ちと、作者も戦ってます。
生温かい目でお付き合い頂けたらと。色々すみません。