11.初夜
盛大なお披露目パーティが終わると、招待客は潮のように引いていった。
突然の婚約、そして急な挙式だったが、花婿はあのトランデシル伯爵だ。花嫁を連れて早く任地へ戻りたいのだろう、と人々は囁き合った。戦後処理が済んだとは云え、ダルシーザは未だ復興途中にある。
慌ただしい結婚について悪い噂が立たなかったことに、ランズボトム公爵夫人は胸をなで下ろした。
「皆、口々に貴女を褒めていたわ。本当に美しい花嫁だって」
興奮冷めやらぬ様子でミュリエルは娘に話しかける。エレノアはすっかり疲れしてしまっていたが、はしゃぐ母に何とか笑みらしきものを返した。一日中微笑んでいた為、頬が痛い。
目の前に立つ新婚夫婦をしみじみ眺め、ミュリエルは静かに頭を下げた。
「どうか娘をよろしくお願いします。大切にしてやって下さい」
エレノアの隣に立っていたレオンハルトは「もちろんです」と如才なく答え、そのままエレノアの手を握った。彼はパーティの間も、何かとエレノアに触れてきた。
未婚の淑女が男性と接触する機会は殆どない。それこそダンスの時くらいだ。エレノアはその経験もあまりなかった。彼女にダンスを申し込む殿方は滅多にいなかったから。
頬が熱くなるのを感じ、居た堪れなくなる。大人の女性らしく、涼しい顔で粋な対応が出来たらいいのに。自分の経験の無さが情けない。
「妻を休ませたいので、私たちもこれで失礼します。出立前に、改めてご挨拶に伺えればと思うのですが」
「ええ。待っています」
頷く母の隣に、いつの間にか父が並んでいた。その後ろには弟もいる。
エレノアは固く唇を引き結び、こみ上げてくる涙と戦った。
こんな家、早く出ていきたいと願っていた。それなのに何故か寂しくて仕方ない。修道院へ入らなくて良かった。少なくとも父は今のように落ち着いた態度で見送ってはくれなかっただろうから。
「エレノア」
ランズボトム公爵は娘の名を呼び、何度か空咳を繰り返した。
エレノアは期待に満ちた瞳で、じっと父を見つめ返す。彼は埃でも入ったのか何度も目を瞬かせ、ようやく声を押し出した。ひどくそっけない声だった。
「家名に泥を塗る言動は慎むように。どこへ行こうと、自分がランズボトム家の娘であることを忘れるな」
ミュリエルとジェラルドが同時にため息を吐く。
レオンハルトも僅かに眉をひそめた。
エレノアは心底落胆した。これが最後なのだ。もしかしたら温かな言葉をかけてもらえるのではないかと、どこかで期待していた。王妃になれなかった自分は、父にとって期待外れの出来損ないなのだと、改めて思い知らされた。
「確かに承りました」
エレノアは握られたままだったレオンハルトの手を離した。ドレスの裾をつまみ、優雅に膝を折る。
それは完璧な淑女の礼だったが、母と弟は悲しげに瞳を曇らせた。
父は短く頷くと、さっと身を翻し奥へ消えて行った。そうか。最後まで見送っても貰えないのか。エレノアは自嘲しながら、レオンハルトに向き直った。
「参りましょうか」
「……ああ」
今、レオンハルトの目を見ることはどうしても出来ない。哀れみや軽蔑の色を見つけたくない。頑なに視線を合わそうとしない彼女の手を引き、レオンハルトは歩き出した。
馬車に乗り込んだ後も、レオンハルトは無言のままだった。
一気に押し寄せてくる虚無感に身を委ね、エレノアは天鵞絨に覆われた壁に頭を預けた。
トランデシル邸に到着し、馬車が止まる。カタン、と乾いた音がした。踏み台が置かれた音だろう。エレノアはのろのろと頭を起こし、背筋を伸ばした。
「あまり気に病むな」
先に降りる為腰をあげたレオンハルトが、小さな声で言い残す。返事を待たず、彼は車内から消えた。
予想外の気遣いにエレノアは驚いた。
言葉に詰まったエレノアに、外からレオンハルトが手を差し伸べる。
さっきの声は幻聴だったのかと疑うほど、彼は無表情だった。
当主の到着を知らされていた使用人達がずらりと玄関外に並び、エレノアを待ち構えている。レオンハルトにエスコートされたエレノアが馬車から降り立つと、彼らは一斉に頭を下げた。
執事と侍女頭に引き合わされた後、エレノアは自室へと案内された。
「今日からここが貴女の家だ。すぐにダルシーザへ向かうことになるから、フェンドルでの家は、という意味だが」
「はい」
「領地の本屋敷には、また折を見て連れて行く。どの家も全て貴女の管理下に置かれることになる。分からないことは何でも聞いて、好きに整えてくれて構わない」
レオンハルトは丁寧に説明し、最後に付け加えた。
「貴女の思うように過ごしてくれ。誰にも何も言わせない」
父の言葉を踏まえて言ってくれているのだと、エレノアは気づいた。
冷静な眼差しを受け止め、じっと見返してみる。レオンハルトは眉を寄せた。不快ではなく困惑を感じているのだと、何故かエレノアには伝わってきた。
「ありがとうございます、旦那様。お気遣いに感謝します」
「身内になったんだ。丁寧な話し方じゃなくていいし、私のことは名前で呼んでいい」
更にしかめっ面で要求される。
エレノアを覆っていた憂鬱は、こみ上げてくる可笑しさで薄れていった。
「それは名前で呼んで欲しい、という意味ですか?」
「……まあ、そうだな」
てっきり否定されると思ったのに、レオンハルトは渋々といった口調で答えた。
「ありがとうございます、レオンハルト様」
エレノアは思い切って言い直した。男性のファーストネームを呼ぶのはこれが初めてだ。なんだかくすぐったい。だけど、悪い気分じゃない。エレノアは心の中で「レオンハルト様」ともう一度繰り返してみた。
「他人同士がいきなり家族になるんだから、早々上手くはいかないだろう。だが、私は信頼関係を築けるよう努力するつもりだ。貴女もそうしてくれると助かる」
「ええ。そうします」
言いたいことを全て伝え、気が済んだらしい。レオンハルトは部屋を出て行った。
一人になったエレノアは、改めて与えられた部屋を見回した。
張り替えたばかりなのだろう、真新しいペールオレンジの壁紙は華やかだし、調度品も洒落ている。女主人を歓迎していることがひと目で分かる設えの数々に、エレノアは微笑まずにはいられなかった。
ここに滞在するのは僅かな時間だというのに、きちんと新調して下さったのだ。
レオンハルトは、見かけよりうんと優しい人なのかもしれない。
愛されなくても、こうして大事にして貰えるのならそれで充分だ。
弾んだ足取りで、クローゼットを開けてみる。そこには沢山のドレスが用意されていた。実家が持たせてくれた衣類を含む荷物はすでにダルシーザ行きの船に乗せられ、先にあちらへ向かっている。トランクに詰めてきた数枚のドレスで旅を乗り切るつもりだった彼女は、目を丸くした。
エレノアはクローゼットの中身を点検してみた。
よそ行きの洗練されたドレスの中に、簡素な長袖ワンピースを見つける。丈の短いエプロンドレスに合わせて履けるよう、足首をリボンで結ぶタイプの可憐なズボンまであった。
――庭いじりをする時用の服だ。
どんなに頼んでも買って貰えなかった服が、目の前にあった。
エレノアはきつく目を閉じた。
大きく傾いだ心を、必死に立て直そうと踏ん張る。
レオンハルトは、好きになってはいけない人だ。好きなれば辛くなる。友情を築いていこう、とつい先ほども言われたばかりではないか。
殿方に免疫がないから、親切にされただけで舞い上がってしまう。なんて簡単な女なのだろう。
「奥様。湯浴みの準備が整いました」
遠慮がちなノック音と共に、トランデシル家のメイドの声が聞こえる。
エレノアは弾かれるようにクローゼットの扉を閉めた。
「どうぞ、入って」
ランズボトム家側で用意されたエレノア付きのメイド達は、数日前にダルシーザへ立った。
主人より先に到着し、娘が過ごすのに居心地の良い環境を整えて置くよう、父が命じたのだ。
『十分な支度をしないと、私が恥をかくことになるからな』という一言さえなければ、エレノアは父の心遣いに感激したことだろう。
この家でエレノア付きとなったメイドは、よく訓練された若い娘だった。余計な口は叩かず、爽やかな笑顔と共にエレノアの世話をしていく。
一人ではとてもじゃないが脱げそうにない豪奢なドレスと窮屈なコルセットから解放され、エレノアはほう、と息をついた。ゆっくり落ち着く間もなく、手際よく風呂に入れられ、香油を擦り込まれ、繊細なレース仕立てのナイトドレスを着せられた。
レオンハルトの寝室に送り届けられたところで、エレノアはようやく自分の置かれている状況を実感と共に飲み込んだ。
式を挙げたのだから、初夜を迎えるのは当たり前だ。
結婚式前夜、ミュリエルは言葉を濁すことなく、エレノアが夫からされることを教え込んだ。歴史の教本を読み上げるような事務的な説明だったので、その時はひどく驚いただけで恥ずかしさはなかったが、今思い返してみるととんでもない話だ。
あのレオンハルトが? いやその前に、あの父も?
深く考えると大怪我を負いそうだ。エレノアは慌てて首を振り、想像を頭の中から追い出した。それから大きく息を吸って、吐く。
痛いのは初めだけ。じっと我慢して、終わるのを待つ。
母から言い聞かされた新妻の心得を何度も口の中で繰り返した後、そっと広い寝台に目を向けた。
自分が使っていたものより、二まわりほど大きな寝台だ。余裕で大人二人が眠れるくらいの。
……せめてこの寝台で眠る娘は、私が初めてでありますように。
エレノアが祈り始めたところで、背後のドアが開く。
同じく湯浴みを済ませたレオンハルトは、棒立ちのままのエレノアに驚く素振りもなく、先に寝台へ腰掛けた。
まだしっとりと濡れている焦げ茶色の髪から目が離せない。整えられていない無防備な洗い髪は、レオンハルトを普段より若く見せていた。
「立って寝るつもりじゃないのなら、こちらへ」
静まり返った部屋に、レオンハルトの艶のある声はよく響いた。
彼の声は中低音の柔らかな響きを持っている。容姿だけじゃなく声まで魅力的だなんて、本当に卑怯だ。エレノアはごくりと息を飲み、胸の中で毒づいた。
「初めてなので無作法があるかとは思いますが、よろしくお願いします」
寝台の端に腰掛け、ようようそれだけを口にする。
息も絶え絶えなエレノアを見て、レオンハルトは小さく笑った。
「長旅の前に孕ませるつもりはない。子が流れては大変だ」
「……そう、ですか」
エレノアは安堵のあまり、後ろ向きに倒れそうになった。
何もしないのなら、このふかふかの寝具に包まれ、思うままに眠りを貪れる。緊張が解けると、どっと一日の疲れが押し寄せてきた。
二つ並んだ枕のひとつにエレノアを横たわらせ、レオンハルトも隣に潜り込む。
結果、横向きに向かい合う形になった。
眠くてたまらないのに、これでは眠れない。レオンハルトがじっとこちらを見るのをやめてくれたらいいのに。寝返りを打って、背中を向けようか。いやそれは余りにも失礼か。ぐるぐると考え込んだエレノアの頬に、レオンハルトはゆっくり手を添えた。
ビシリ。音を立てて全身が固まる。
彫像状態になったエレノアの目の下に指をあて、レオンハルトは「くまが」と呟いた。
――くまが。
熊が?
いや、隈か。
エレノアが目まぐるしく連想している間に、レオンハルトは目を閉じ、そのまま寝入り込んでしまう。
安らかな寝顔までが美しいことを確認し、エレノアは長く、深いため息をついた。