10.結婚式
その日はとてもよく晴れた。
どこまでも高く澄み渡る空を見上げ、レオンハルトはひとつ息を吐く。まだ空気は白くならない。だがあとひと月もすれば、一面雪に覆われる季節がやってくる。フェンドルよりも更に寒さの厳しいダルシーザの冬を、彼女はどう思うだろう。
滑らかな白い頬を上気させ、毛糸の帽子とマフラーを巻きつけ、冬毛の栗鼠のような格好でせっせと土いじりをするエレノアを想像し、レオンハルトは口角を上げた。
彼女にサイズの合った革の手袋を用意してやらなければ。雪靴は持っているだろうか。
「雨が降らなくて良かったな。おめでとう」
レオンハルトが出仕してすぐに配属された隊で同期だった男が、正装姿で声をかけてきた。
鼻っ柱が強く向こう見ずな男だったが、爵位を継いでからというものすっかり丸くなったと評判だ。随分前にとある子爵家から妻を貰い、すでに一男一女に恵まれている。
「来てくれたのか」
「幸せな花婿殿の顔を拝んでやろうと思って」
「からかいにきたのなら、帰っていいぞ」
「いや、だってさ。お前から手紙が来るなんて珍しいと思ったら、結婚式の招待状だろ? 花嫁探しに戻ってきたとは聞いてたけど、本当にするとは思わなかったよ」
男はレオンハルトの隣に並ぶと眩しげに目を細め、教会の分厚いステンドグラスを見上げた。
「しかも相手は、あの宰相殿の一人娘だ。エレノア嬢に目をつけるなんて、いよいよ地位固めに本腰を入れてきたなって、同期は皆言ってる」
「そんなんじゃない」
「まあ、ランズボトムの家名を差し引いても得な結婚だよな。彼女はふるいつきたくなるような美人だし」
男はにやりと人の悪い笑みを浮かべ、レオンハルトの腕を小突いた。
「……ここで言う分には構わないが、下衆な目で彼女を見るなよ」
レオンハルトが冷ややかな声で咎めたので、男は一瞬ポカンとし、それから噴き出した。なにが可笑しいのか、肩を震わせ笑っている。
「おいおい、なんだよ。まさか恋愛結婚ってわけじゃないだろう?」
「違う。だが、新雪を土足で踏み荒らされるのは気分が悪い」
「あー、それは悪かった。せいぜい大事にするんだな」
ひらひらと手を振り、友人はレオンハルトに背を向けた。
父が呼びに来る前に、自分も教会の中へ入り花嫁を待つべきだろう。式の開始時刻は近い。
女に永遠を誓う為、教会へ足を踏み入れる日は、死にたくなるほどの苦痛を味わう日に違いない。そう思ってきたのに、何故か心は凪いでいる。レオンハルトは不思議だった。
――想像の方が現実より酷い、というやつか。
彼は軽く息を吸い、儀礼服の襟を正した。グレアム王の即位式以来、袖を通す機会のなかったロングコートの裾を払い、どこも変ではないか確かめる。
飾りのついた肩章や銀の飾緒といい、胸に留められた勲章といい、仰々しいことこの上ない。腰に下げた軍刀は儀礼用で、式の最中に何か起きても役には立たないなまくらだ。髪をかきあげようと手を持ち上げ、そういえば侍従がきちんと整えた後だったと思い直す。
……今更、格好を気にしてどうする?
どうにも落ち着かない自分自身に苛立ちを覚えながら、レオンハルトは大きく足を踏み出した。
教会のオルガンが鳴り響き、重厚な樫の両扉が押し開かれる。
レオンハルトと同じく儀礼服に身を包んだランズボトム公爵の腕に手を置き、しずしずと花嫁が進んできた。
顔はヴェールでよく見えないが、見事な花嫁衣裳が彼女の優美な曲線を余すところなく引き立てているのは分かる。形の良い胸元を彩る眩い宝石。細い腰から広がった裾にかけて施された緻密な刺繍。まるで美術品のようなドレスに、エレノアは一歩も負けていない。参列者の間から感嘆の息が漏れる。
レオンハルトはランズボトム公爵の前に立ち、エレノアを引き取った。
鋭い眼差しがレオンハルトを射抜いたのも一瞬、花嫁の父はすみやかにバージンロードから退いた。
手袋を脱いで付き添い人に渡し、繊細なレースのヴェールに手をかける。白いヴェールの下から現れたエレノアは、伏せていた瞳を上げ、まっすぐレオンハルトを見あげてきた。
レオンハルトはぐっと拳を握りこんだ。
大輪の薔薇があでやかに咲きほころぶ。そんな表現がぴったりな花嫁の姿に、年老いた神父までが目元を和らげる。レオンハルトはエレノアを直視出来ず、彼女の首を飾っている大粒のダイヤモンドに視線を固定した。一体ランズボトム公爵は、娘の花嫁支度にいくら注ぎ込んだのだろう。
グレアム王の結婚式を思い出し、比べてみようとしたが上手くいかない。
リセアネ王妃はそれは美しかったはずなのに、エレノアの姿が網膜に焼き付いてしまったのか、全く思い出せなかった。王妃はそもそも首飾りをしていただろうか?
「汝、レオンハルト・トランデシルはエレノア・ランズボトムを妻とし、生涯の忠節を誓いますか?」
老神父の厳めしい問いかけに「誓います」と答える。
自分ではない男の声に聞こえた。
エレノアも同じ問いかけに、落ち着き払った声で「誓います」と答えている。
「神の御前で宣誓はなされました。死が二人を分かつまで、何びとも彼らを離してはなりません」
たった今から、二人は一生を共に過ごすことになった。たったこれだけのやり取りで、エレノアとレオンハルトは永遠のくびきで繋がれたのだ。まるで現実味がない。実感も湧かない。
レオンハルトは思わずエレノアに目をやった。視線を感じたのか、間を置かず彼女もレオンハルトを振り仰ぐ。まるで共犯者のように、エレノアは悪戯っぽく微笑んだ。
キラキラと輝く瞳が含む明るさに、レオンハルトは怯んだ。
今まで感じたことのない感情が胸の奥に浮かんでくる。甘ったるいそれは、二人の行く末を阻む危険な兆候に思えた。
母の慟哭がレオンハルトの鼓膜を叩く。死者を予言する妖精のようなあの泣き声に、彼は今も囚われていた。多感な少年時代に負った深い傷は、大人になりきった彼の一番脆い部分を形成している。決してレオンハルトは認めようとしないが、そうだった。
指輪の交換の儀に移り、細い指に用意してきた白銀の指輪を押し込む。
父が用意した結婚指輪は、エレノアには少し大きかった。きちんと調整する暇もなかったのだ。レオンハルトは今更ながら苦い思いになった。
「すまない。後で直させる」
参列者による賛美歌が始まると、レオンハルトは小声でエレノアに謝罪した。
「普段指輪はつけないのです。ですから、こちらで結構ですわ」
鎖に通して首にかけることにします、とエレノアは付け足した。柔らかな囁き声に悲しげな色はない。レオンハルトは肩の力を抜いた。
滞りなく式は終わった。見かけに似合わずしっかりした力で、エレノアは腕を組んできた。
彼女ははにかみを帯びた幸せそうな笑みを浮かべ、参列者に目顔で挨拶しながらバージンロードを歩んでいく。式には大勢の客が足を運んでくれている。レオンハルトもなるべく愛想のいい顔をしようと試みたが、後で友人たちに「もっと嬉しそうにしろよ、お前」と呆れられたところを見ると、上手くいかなかったようだ。
無愛想で気の利いた台詞ひとつ口にしない新郎だったが、最後までエレノアは嫌な顔をしなかった。
挙式の後は、参列者をもてなすパーティが開かれる。
お披露目式は花嫁側の屋敷で行われるのが、フェンドルのしきたりだ。ランズボトム邸に用意された控え室でロングコートを脱ぎ、レオンハルトはようやく息をついた。
白いシャツにズボンという楽な格好になった彼は、首元のボタンを外し、窓際の一人掛けソファーに腰をおろした。長い足を組んで肘掛にもたれ、髪をかきあげる。
色気に満ちた気だるい仕草に、部屋を出入りしていたメイド達は顔を赤くした。
見るとはなしに彼女らを眺めながら、そういえばエレノアが自分に見惚れたことは一度もない、とレオンハルトは思い当たった。
彼女の傍にいつも控えている若い従者が、なぜか浮かんでくる。
ああいう優男が好みなのだろうか。
続けてそんなことを考え、レオンハルトは呆れて首を振った。
どうでもいい。妻がどんな男を好もうが、自分には全く関係がない。
エレノアとの子供の血統に疑いが混じるのは困るが、そんな愚かな真似をする女ではない筈だ。
その後のパーティで、レオンハルトは注意深く例の従者を観察してみた。
身のこなしといい気配の潜め方といい、やはり普通の従者ではなさそうだ。時折レオンハルトに向けられる視線は、どこか棘を含んでいる。
レオンハルトはふん、と鼻で笑い、隣に座っているエレノアの手を握ってみた。従者の目つきが険しくなる。
「……お客様に笑われてしまいます」
エレノアは困った子供を嗜めるような口調で言い、レオンハルトの手からするりと逃れた。
途端、従者が勝ち誇った表情を浮かべる。
レオンハルトはすっかり不機嫌になった。