1.レオンハルトの思惑
遠い領地から国境を越えてまで父が自分に会いにきた、と知らされた時、レオンハルト・トランデシルは覚悟を決めた。
ついに気楽で身軽な独身生活を捨て、窮屈で耐え難い人生の墓場へ足を踏み入れる時が来たらしい。
先ほどから切々と直系相続についての私見を述べている男は、酷く老いている。白髪混じりの髪は艶がなく、手指は枯れ木のようだ。流石のレオンハルトも胸の痛みを覚えずにはいられなかった。
長旅ですっかり疲れてしまったのだろう。途中何度も茶で喉を湿らせている。
彼は久しぶりに会った父に向かって優しく頷いてみせた。
「もちろん我が家の財を、遠縁のどら息子に渡すつもりはありませんよ。今年中には結婚し、早急に子を成すつもりです」
「そうか。考えてあるのなら良かった。ファインツゲルトとの戦も終わり陛下の御成婚も相成った今――」
まだまだ終わりそうにない口上を聞き流し、レオンハルトは心の中で父に問いかけた。
その当主の責任とやらを果たす為、母を娶った結果、どうなりましたか。
父だけが悪いわけではないと分かっている。
義務として娶った妻を深く愛せなかったのは、彼の咎ではない。
もっとやりようはあったとは思うが、ヒステリックに喚き散らし、発作的に自傷を繰り返す母が愚かだったのだ。本当に愚かで悲しい人だった。
与えられる穏やかな親愛に満足することなく、貪欲に夫の愛を求めた母を思い出すたび、首まで泥沼に沈められたような気分になる。
『あなたは父様のようにならないでね。一途で愛情深い大人に育ってちょうだい』
ねっとりとまとわりつく声に気圧され、首をどちらにも動かせなかった。毎日囁き続ければその通りになると信じていたのか、母は挨拶代わりに語りかけてきた。
レオンハルトが女嫌いを自覚したのは、八つの時だ。いずれ自分も伴侶を得なければならないと知った時、どれほど絶望したか。
『どうしてなの!? 私はこんなに愛しているのに! 私は貴方の妻なのよ、誰よりも尊重されるべき存在だわ!』
子供が怯えてしまう。声だけでも抑えるようにと頼む父は、母の怒りに火を注ぐばかりだった。
妄想に満ちた疑いを向け、『裏切りもの!』と金切り声をあげる。そうでなければ、一日中しくしく泣いている。結局彼女は途中から、深く自分だけの世界に閉じ篭るようになった。
父は暇をみつけては辛抱強く妻に付き添っていたが、心まで寄り添わせることは出来なかったのだろう。義務感に支えられた介護は、母を追い詰めただけだった。
レオンハルトが十五を迎えた冬の夜、母は一人家を出た。
『私の本当の運命の人が迎えにきた』
そんな少女めいた手紙を残し、薄いガウン姿で。
深夜総出で捜索が行われ、やがて冷たくなった母が発見された時、正直レオンハルトは安堵した。これで屋敷が平和になると。父は泣いていた。あんな妻でも情は残っていたらしい。
伯爵夫人の死の真相は、あまりに外聞が悪かった。馴染みの医者に金を掴ませ、病気で亡くなったという診断書を書かせた父は、立派な葬儀を執り行った。
悪い噂が広まれば、トランデシル家自体が貶められる。残された子供、使用人、そして領民。父が背負っているのは母一人の命ではない。
夫の理に偏った考え方を母はどうしても受け入れられなかったのだと、遅れてレオンハルトは気づいた。そしてどうやら自分は、父に似ているらしいとも。
結婚自体に忌避的な印象を抱くようになったのも無理はない。
十八で出仕し、当時まだ王太子だったグレアムに仕え始めてからというもの、レオンハルトの人生の中心は仕事になった。戦も仕事の一つ。剣を振るうことも、部下を動かすことも、煩雑な書類を片付けていくことも、苦と感じたことは一度もなかった。
眼差しが冷たいだの語尾がそっけないだの、無意識の振る舞いをいちいち咎められる生活に比べたらまるで楽園だ。
「ここまで来た甲斐があった。ファインツゲルト……今はダルシーザだったか。まだまだ復興には時間がかかりそうだな。ここまで来てくれるご令嬢はなかなか見つけにくいと思うが、当てはあるのだな?」
去りかけた父に念を押され、レオンハルトは表情を変えず「はい」と答えた。
当てはもちろんない。
便利で賑やかなフェンドルの王都にあるタウンハウスを捨て、復興途中の属州まで嫁いでくる奇特な貴族令嬢がいるとは思えない。
しかもレオンハルトは年を取りすぎている。
36歳の男盛りと言えば聞こえはいいが、子供を産める年代の女性から見れば年寄りに分類されるのではないだろうか。
深々と溜息をつきながら、なんとかしなければ、と彼は考えた。
花嫁候補は、嫁ぎ遅れの壁の花がいい。
この縁談を逃せば後がないと切羽詰まっている女性だ。
家柄は男爵家以上であればいいだろう。気質が穏やかで、すぐに怒ったり泣いたりしないと尚良い。物事を広い視野で捉えられる人なら申し分ない。まず見つからないだろうが。
ちらり脳裏を黒目黒髪の女性がよぎる。
自分でも驚いた。
確かにあの方ならば、求める条件に合致していた。
懐かしさに似た温かな想いが胸に広がる。
馬鹿げた感傷だ。レオンハルトは微かに首を振り、面影を打ち消した。
大国サリアーデの王太子妃となった彼女は、彼にとって貴重な優しい思い出のひとつというだけだ。いや、女性にまつわる唯一の良い思い出だからこそ、美化してしまっているのかもしれない。
冷徹な実務家らしく思考を切り替え、条件に合いそうな令嬢をリストに連ねていくことにした。
主だった貴族令嬢の名前はすでに頭の中にある。
グレアムの婚約者候補を絞る際、貴族年鑑をすみずみまで読んだことがあるからだ。
父親の顔の方がはっきりと浮かんでしまう為、肝心の令嬢は名前と大体の年くらいしか分からないが、特に問題はないだろう。
結婚はつまるところ家同士の契約だ。しっかりした父親がいることを重視するのは理にかなっている。
女性に論理的な考え方を期待してはいけない。そう、期待は禁物だ。母の最期を思い浮かべ、レオンハルトは決意を新たにした。
秋の豊穣祭が、最後の機会となりそうだ。
収穫を祝う祭りに合わせ、数々のパーティが開かれる。そこでめぼしい女性を見つけ、言いくるめ、婚姻誓約書にサインしてもらわなければ。
もちろん過剰な期待を持たせるつもりはない。女性は嫌いだが、彼女らを騙したり虐げたりする男はもっと嫌いだった。
あらかじめ自分の考え方を話しておく必要がある。
レオンハルトは秀麗な眉を寄せ、トントン、とリストを指で叩いた。
結婚生活へ甘い幻想を捨ててもらうには、どうすればいいだろう。
婚姻によって得られる利点を強調する方法は使えるかもしれない。
少なくとも、修道女になることは避けられる、とか。
――そうなると信心深い娘はダメだな。
レオンハルトは再び羽ペンを取り上げ、リストに項目を付け加えた。
子が出来るまではここで共に暮らしてもらわなければならないが、男児を成した暁には子と共に王都へ返してやると約束しよう。身寄りも友人もいないダルシーザに残りたいとは言わないだろう。トランデシル家もタウンハウスを持っている。妻の為に新たに建ててもいい。
心を傾けることは出来ないが、夫としての責務は十二分に果たすつもりだった。相手側から見ても、そう悪くない話に思える。
やることが決まれば、後はそれに向けて動くだけだ。
レオンハルトは事務官を呼び、当面の予定を調整することにした。