子爵令嬢ですが悪徳伯爵家に嫁がされました
「何が愛してるよ、幸せを願ってるよ、そんな薄っぺらな嘘なんてもうたくさんだわ!」
「マース!」
子爵令嬢マースグリンデ・サムルは激昂した。
突然改まって話しがあると呼び出されてみれば、彼女の父バオヤはこともあろうに、キモイストス・ゲヘヘェと結婚を前提に見合いをしろなどとのたまったのだ。
ゲヘヘェといえば、言動の卑しさと異様な金回りの良さで多くの真っ当な貴族連から忌避されている、分かりやすく言えば悪い噂の絶えない伯爵家である。
野心でもって成り上がりたいのか、人には言えぬ借金でもこさえているのか、バオヤの心に何がしかの後ろめたいことでもなければとても得心のいく人選ではない。
彼女としては、父の悪行の犠牲になるような真似をさせられたくはなかった。
しかし、当の彼はこの見合いはけして悪い話ではないと、自らの目でキモイストスを見るようにと、そんなセリフを繰り返すばかりで、彼女がどれだけ嫌がっても撤回する気は微塵もない様子だ。
とにかく決定事項だと厳しく言い放たれてしまえば、ひたすら養われる身である娘ごときが一家の長であるバオヤに逆らえるものではなく、結局、彼女はなかば強引に見合いを承諾させられてしまう。
その日から、マースは憂鬱になった。
悪名高いキモイストスについて舞踏会などで遠くから目にしたことはあるが、彼女が抱いた印象としては、いかにも何か企んでいますと言わんばかりの蛇のように冷酷で軽薄な笑みを浮かべた、青白い肌の細長い男性、だった。
とてもではないが好感の持てるような雰囲気ではなかったと、マースは眉間に皺を寄せながら自らの体を抱き寄せる。
遠くない未来を憂うと同時に、マースはあまりこれまで顔を合わせてこなかったバオヤに失望する心を感じていた。
例え手を尽くしてこの見合いを破談にしたところで、いずれは伯爵と似たり寄ったりな条件の相手と婚姻を結ばされるであろうことは自明の理だ。
実の娘を己の駒として扱うような親の存在が悲しく、また、適当なおためごかしでホイホイ言う事を聞くような白痴の存在であると思われていることが悔しかった。
そして迎えた見合い当日。
彼女は己の感情を悟らせぬ無表情で、キモイストスと会話をはずませる父親の隣に腰掛けていた。
実際よく知りもしないであろう娘を売り込もうと、バオヤは適当な美辞麗句を必死に並べ立てている。
まるきりの嘘というわけでもないが真実とも言いがたい推し文句に、マースは内心でそこまでこの蛇男に取り入りたいのかと辟易した。
当のキモイストスといえば、酷薄な笑みを貼り付け、ただ相槌を打っているばかり。
彼の明らかに醒めきった両の瞳は、マースら二人を値踏みするような色を湛えていた。
そこでふと、彼女は自分がゲヘヘェ家に嫁ぐことでどのような利があるのかと不思議に思う。
爵位にしても、金銭面にしても、サムル家が一段も二段も劣っているのが現状だ。
流通や戦争の行路として重要な土地でもなければ、もちろん歴史的価値もない。
その他にしても本当に特色のない平々凡々な領地なのだ。
自らの勢力を増やしたいだけなら、わざわざ結婚などという大きなカードを切るような場面であるようには、とてもではないが考えられなかった。
そうして彼女が疑問に身を投じている間にも、バオヤとキモイストスの話は進んでいく。
すでに結婚が前提だと告げられるだけの段階にあれば、ただ形式的なものであろうこの見合いがつつがなく纏まる方向にあるのは当然の流れだった。
だが、マースはここで大人しく不幸を受け入れ嘆くだけのか弱い女ではない。
彼女が行動を起こしたのは、まさに彼らが決定的な一言を繰り出そうとしていたその時だった。
マースは勢い良く絨毯に仰向けに倒れこみ、脚の先を中心に円を描くように転がりながら手足をバタつかせるローリング駄々こねを繰り出したのだ。
「やだぁーーーッやだやだやだ結婚なんてしないっしないいいいいッ!
こんな悪い意味で有名な家になんか嫁ぎたくないもんんやだぁやだああああッ!」
そんな令嬢にあるまじき、いや、人間にあるまじき愚行を目の当たりにした見合い相手の青年キモイストスは、理解が追いつかず唖然とした表情で固まっている。
マースの突然の奇行にも多少は慣れているバオヤが額に青筋を立てて叱責するも、どこ吹く風といった様子で彼女は死なばもろともなどと叫んだ。
どうやら自分のみでなく家の評判ごと落としにかかっているらしい。
マースは、気に食わない結婚を強いられるにあたり、何ひとつ犠牲にしていない家族が無償で恩恵を受けるであろう事実が許せなかったのだ。
ならば、一矢ぐらい報いてやろうと、恥も外聞も偲んで彼女は気狂いを演じていた。
一見むやみやたらに激しく暴れているようで、事前に乱れにくい髪型にしていたり、スカートが捲れない程度の動きを研究していたりと、非常に無駄な計算高さも発揮されている。
ちなみに、八割がた素の行動であったのは言わぬが花というものだろう。
普段は理性で抑えている突飛な思考をそのまま開放するだけで、彼女はどこまでもクレイジーになれた。
マースは、親しい周囲の人間から「頭の良いバカ」と称される、ちょっと可哀相な女だったのだ。
「ゲッヘ、ゲッヘッヘ、ゲヘヘェ。
いや、ここまで己の感情に正直な女性も珍しい。
これならば、周囲からの悪意にただ黙って潰されるようなことにもなりますまい」
「お、お見苦しい点を……あの、これでも、公の場では弁えることの出来る娘ですので、その……」
「えぇ、えぇ。分かっておりますとも。
マースグリンデ嬢のそのような噂、欠片にも耳にしたことはございませんからねぇ。
全ては計算の上なのでしょう、ねぇ?
あぁ、良い。実に良い。中々に素晴らしい女性ではないですか」
彼女にとって大きく予想外だったのは、そんな奇行に走る女を気に入るような男が存在してしまったことだった。
縮こまり冷や汗を拭う父バオヤに、大仰に声を弾ませるキモイストス。
まさかの展開に焦ったマースは、混乱する頭で小学生のような幼稚な悪口を言い放つ。
「なっ、何よ、その笑い方っ、気持ち悪いわね!」
「あぁ、申し訳ありません。
ゲヘヘ笑いは我が伯爵家の古くからの慣わしでして、不快とは思われましょうが変えるわけにはいかぬのですよ」
先ほどまでは薄っすらと持ち上げられていただけの唇の端は、今やニタニタと擬音の飛ぶような分かりやすく厭らしい歪みを見せていた。
未だ絨毯に寝転がっている彼女の元へ、キモイストスがゆっくりと歩み寄る。
咄嗟に上半身を起こすマース。
理解の及ばぬ思考回路を持つ男を恐ろしく感じて、彼女は小さく悲鳴を上げながら座り込んだ体勢のまま必死に後ずさろうとした。
が、もちろん逃げ切れるわけもなく、男にしては細く青白い腕を伸ばし怯えるマースの手を取った伯爵は、意外な力強さで彼女を立たせてしまう。
それから、逆に自らは跪いて、彼は獲物を嬲る獣のように残酷に笑った。
「マースグリンデ嬢、どうか我が妻に」
この瞬間、マースは自らがゲヘヘェ伯爵家当主のけして逃れられぬ婚約者となったことを理解した。
理解して、それからまばたきひとつの間に、彼女はとある覚悟を決める。
「…………謹んでお受け致します。
伴侶として、私は一生をかけてでも貴方を真っ当な人間に戻してさしあげましょう」
「っゲっヘ、ゲヘヘゲヘヘェヘェ!
このように熱烈な愛の囁きは初めてです、さすがは私の花嫁」
「きっと後悔するわ」
「楽しみにしております」
強い光を宿した挑むような目を真っ直ぐ伯爵に向けるマース。
何が面白いのか、キモイストスは再びゲヘヘと下品な笑い声を上げた。
今ここに、貴族間では特に珍しくもない、ひとつの政略結婚が成立したのだ。
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二人の結婚式はごくごく身内の間だけでひっそりと行われた。
キモイストスの言では式に不穏な輩が紛れ込む可能性があり、それを排除したかったとのことだったが、マースとしても彼との結婚を大々的に祝福されたいなどとは思っていなかったので二つ返事で了承した。
その代わりといわんばかりに目もくらむような豪華な宝石やドレスに身を包んでの式となったが、彼女は特にそれを嬉しいとは思わなかった。
神前での婚姻書へのサインと互いの護符であるネックレスの交換が終わる。
最後に祝福のキスを促されヴェールの下を晒された時、夫となる男を親の敵のように睨み付ける花嫁の姿が露わになり、一瞬会場が小さくざわめいた。
そんな拒絶の色甚だしい彼女に、今更な躊躇いをみせるキモイストス。
数十秒後、イラついたマースが胸倉を掴んで逆に唇を押し付けてやれば、やるねぇと口笛を吹く彼女の母親の暢気な声だけが式場に響いた。
全ての儀式が終わり、そのままゲヘヘェ家へ向かう馬車へと向って煌びやかな絨毯の上を夫婦となった二人が寄り添い歩く。
道中、屋外で待機していたサムル家使用人達の野太い野次が飛んだ。
「うおーっお嬢ーーっ!」
「幸せになってくだせぇーーっ」
「すげぇキレイだぞ、お嬢ーーー!」
「いつでも帰ってきてくだすって良いんですからねぇぇ!」
「チクショーーッお嬢を悲しませたら、いくら伯爵様でも容赦しませんぜええ!」
「お嬢ーーっお嬢ーーっ」
このお嬢お嬢と姦しいマッチョたちは、マースの母親が海賊の頭であった時代の部下である。
彼女の母ザンギアは、隣国の男爵家の生まれでありながら、十四を数える頃に家出して、一体何がどういう流れなのか海賊となり、貴族船や商船を数多く沈め、多国から広く恐れられてきた女だった。
ある日、常のように襲い掛かった先の貴族船に乗っていたのが父バオヤで、互いに一目惚れした彼らはその場で結婚を誓い、同日海賊は解散した。
その中で、一部の行き場のない荒くれ共をサムル家で引き取り、教育し、すっかり真っ当な使用人となったのが、現在の彼らの姿である。
普段であれば前歴を感じさせない丁寧な立ち振る舞いを見せる彼らも、感極まった現状では取り繕う余裕がないようで、どうにも昔の荒くれ口調が出てしまっていた。
サムル家の使用人の立場としては間違いなく醜態であり、それをゲヘヘェ家関係者の前で晒してしまっている事実に恥じ入る気持ちと、心から自分の門出を喜び祝ってくれることに対する嬉しい気持ちとが複雑に絡み合い、マースはただ俯いて頬を赤く染め上げる。
「声をかけてあげてはどうかな」
「え?」
「今生の別れというわけでもないだろうが、女性は特に、一度嫁げば中々生家に戻る機会も少ないものだろう」
婚約から今日までの期間に少々砕けてきた口調で、キモイストスから意外な申し出があり、目を白黒させるマース。
彼が他家の使用人ごときの心情を慮って発言するなど、彼女にとっては青天の霹靂だった。
むしろ、あの見苦しいゴミをさっさと片付けろぐらい言いのけるだろうというのがマースにとっての夫の印象だ。
更に、顔を視界に入れさえしなければ、彼の声が思いのほか優しい響きを持っていることに気付く。
見上げた瞬間、「あぁ、これは貸しを作っておいて後で利子毟り取るパターンですわ」と思い直したが、それでも最低限人間の感情を理解するだけの脳はあるのだなと、彼女は夫の評価を僅かばかり上方に修正させた。
「お気遣いいただいて、ありがとうございます。
けれど、大丈夫です。
この日までに彼らとはもう充分言葉を交わしてきておりますから」
「そういうものか」
マースが彼に借りを作るまいとしていることを察しているのかいないのか、キモイストスはあっさりと彼女の言葉を受け入れ、緩めていた歩調を元に戻した。
すわ王族用かと見紛うほどの華美な馬車に揺られてゲヘヘェ家へと到着すれば、大らかなサムル家とは違い神経質そうな使用人たちに一糸乱れぬ出迎えを受ける。
軽く怯むマースへと、夫となった男より、今日から君の家でもあるだの気負わず好きに過ごせだのと定型文のような気休めを投げかけられるが、彼女の緊張が解けることはなかった。
彼の悪事を暴こうとする彼女にとって、ここは敵陣の真っ只中にも等しい。
ラスボスのエスコートで人形のように無表情な使用人たちの並ぶ道を歩くマースは、自らの覚悟が揺らぎそうになる気持ちを抑えることで精一杯だった。
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夜。
彼女は与えられた自室で一人、両腕を組み苛立たしげに足先で絨毯を叩いていた。
すでに使用人のほとんどが寝静まったであろう深夜に近い時間帯であるのだが、未だに新婚初夜の妻の元へ夫が姿を現す気配がない。
別れ際に「今日は疲れただろう、ゆっくり休みなさい」とは告げられたし、晩餐も共にはしなかったが、まさかこんな重大イベントまでスルーするつもりであったとは、とマースは一際強く床を踏み鳴らした。
もはや埒があかないと彼女は上着を手にして身に付けつつ、乱暴に廊下へ繋がる扉を開く。
それから警備に立っていた男二人へ、夫の元まで案内するよう言いつけた。
ほどなくしてたどり着いたのは、彼の寝室ではなく執務室だった。
最悪のパターンとして他の女と乳繰り合っている想像までしていたマースとしては、少しばかり安堵する気持ちもあったが、それでも仕事を理由に初夜をすっぽかされるなど、妻として蔑ろにされている感は否めない。
ふつふつと怒りに煮えたぎる内心を押し隠して扉をノックし、返事を待たずに進入を果たす。
はたしてそこに夫はいた。
仕事用らしい不恰好な眼鏡をかけて机上の書類を見下ろしながら、万年筆を忙しなく動かしているキモイストス。
集中していて侵入者に気付いていないのか、それとも給仕に訪れた使用人だとでも思っているのか、彼は顔を上げることなく作業に没頭している。
いきなり声をかければ、重要な書類かもしれないものを台無しにする可能性もあると、最後の理性でマースは彼がこちらに気付く時を黙って待った。
彼女は長期戦も覚悟していたのだが、ほどなくして望みの時が訪れる。
「あー…………すまんがセバス、急ぎの用でないな……ら……」
そう言葉を発しながら顔を上げたキモイストスは、無表情で部屋の真ん中に立っている妻の姿を視界に収め固まった。
そんな夫へ、にこりと笑みを浮かべてから、止める間もなく書類一式を近くの応接机へと移動させたマースは、再び執務机の前まで戻って彼を正面から捉えつつ口を開く。
「ッザッケンナゴラァーーーーッ!!!!」
吼えるなり、彼女は鬼のような形相で机側面にヤクザキックを放った。
「ぅおっ!?」
「フザケてんのか? えぇオイ、ナメてんのか、あぁ!?
こちとらテメェ様の妻になるために覚悟キメて嫁いで来てんですけどぉ?
それが? 新婚初夜に? 仕事優先で? 放ったらかしぃ?
はぁーーーーん!?
それとも何か? 他に女囲ってそっちに子ども産ませて、こっちぁ妻たぁ名ばかりのお飾りの人形にでもするつもりだってのかぁあぁぁん!?
終いにゃイテコマしたろか、こんのダぁボがぁあああああ!!!」
絶え間なく蹴りを放ちながら荒くれ譲りのメンチ切りをかますマース。
何だかんだでお貴族様生まれお貴族様育ちのお坊ちゃんなキモイストスはすっかり萎縮し竦み上ってしまった。
それでも、けして弱くはないメンタルでもって、彼は目の前の猛獣に対し説得を試みる。
「ごっ、誤解、誤解だっ」
「ああん?」
彼からそう投げかけられて、マースはぴたりと動きを止め、据えた目で続きを促した。
会話が可能ならば勝機はあると、キモイストスは姿勢を正し多少なりと気持ちを落ち着かせてから、ゆっくりと言を紡ぐ。
「まず、結論から言わせてもらえば……私が優先したのは仕事ではなく、マースグリンデ、君の感情だ」
「ほぅ?」
「それと、信じる信じないは君次第だが、私には君以外のそういった関係の女性はいないし、今後も予定はないということを伝えておく」
「ふぅん」
「さて、では今夜この状況に至った経緯だが……これは君が私に対して良い感情を抱いていないことに起因する」
「は?」
「どのような人物であっても、厭っている者と臥所を共にするなどというのは辛いことのはずだろう。
女性ならばなおさら。
私としても嫌がる相手と無理やり、とは好ましいものではない。
ならば、ゆっくりと互いのことを知りあって、それからでも遅くは……」
「ロマンチック拗らせた乙女か何かですか? 現実見えてますか? バカですか? 死ぬんですか?」
「えっ」
「ソレこっちを気遣ってるつもりで全然出来てませんから。
独りよがりの自己満足にすぎませんから。
何も伝えられずにただ放置されるこちらの身になって考えていただけませんかね?
夫婦間のことであるなら、一言あって然るべきでしょう?
そうやって独りで決められてしまっても、普通は勝手な上から目線の命令だと、蔑ろにされていると、感じるように思いませんか?
ねぇ、何故せめて本人に意向を尋ねるくらいのことが出来ないんです?
で? そもそも、私が貴方の奸計に嵌まり絆されるまで悠長に待ったとして、それって何年ですか、何十年ですか?
夫婦間で当然行われるソレがないだけで、私は侍女たちから同情され或いは侮られることになるでしょうし、世間からは石女と後ろ指をさされる流れになるかと思いますけど、その件についてはどうお考えでいらっしゃる?
出産だって若いうちにしておかないと、年齢を重ねてからじゃあ危険度が段違いなんですよ。
妻として伯爵家の一員になった以上、跡継ぎになる子どもを産むのは必須。
ついでに言わせていただければ、最悪一生貴方を更生させられなかった場合に、正しく育てた子にゲヘヘェ家の改革を担ってもらうという予定もありますので、勝手な理屈で未来に産まれてくるはずの我が子を私から取り上げないでくださいまし。
それから……」
「分かった、もういい、悪かった!
こちらの考えが足りていなかった……」
「そうですかぁ?」
疲れた様子で額に手を置き、あからさまなため息を吐く伯爵。
納得していないような顔をしながらも、マースは心の内で彼が怒り出さず、また容易に非を認めたことに驚いていた。
己より一回りも若く立場の劣る女ごときにこうまで好き勝手言われて我慢のできる悪がいるとは思ってもいなかったのだ。
即投獄拷問とまではいかずとも、殴られる程度のことは覚悟していた。
普通の男性だって怒鳴り返すぐらいのことはするだろうと思える程度には、マースは自身が相当に酷い態度で彼に接していたという自覚があるのだ。
それがまさか、このような……。
「……それで、私としては妻の希望を叶えて差し上げたいところであるのだが……本当に良いのかね?」
「えっ?」
「君が今、言ったことだ……我が子を取り上げるなと」
「っあ…………私……」
投げかけられた言葉の意味を理解して、マースの頬が朱に染まる。
しばらく落ち着かない様子で視点をさまよわせていた彼女は、やがて俯き加減にコックリと首を縦に振った。
「そうか」
本人からの許可が下りたこの状況で重ねて共寝を断り恥をかかせるような真似をすべきではないだろうと、キモイストスは頷きと共に眼鏡を外し、緩慢な動作でマースの元へと歩み寄る。
固く夜着の裾を掴む姿から強がっていることは見て取れたが、彼は敢えてその事実に触れず、沈黙と共に彼女を己が寝室へと導くのだった。
~~~~~~~~~~
「……………………普通に優しかった、多分」
朝と昼のちょうど間の頃に身支度を整え終わったマースは、末だ違和感の残る自身の体を軽く撫でさすりながら呟いた。
稀に荒くれから漏れ聞いていたような特殊なプレイを強要されることもなく、準備の整わない状態で早々に本番を迎えさせられることもなく、時間をかけて心身を解され、それでも無痛とまではいかないが、少々眉間に皺を寄せる程度の苦労で事は終えた。
昨夜だけに限らず、キモイストスが妻に誠実であろうとしていることに、本当はマースも気付いているのだ。
だからといって、彼が悪ではないという極論に走ることはしなかった。
身内にだけはひたすら優しい悪もあれば、上り詰めた真の巨悪はむしろ一般の者より寛容な場合もあるのだと、マースは知っていたからだ。
彼女の目で見たキモイストスの姿がそのまま彼の全てだと結論づけるには、あまりに早計なことのように思えた。
「よし、それではさっそく旦那様をストーカーしに行きましょうか」
そして、伯爵家の悪事を暴くためにと導き出した答えがコレである。
妻の権限をフルに使い一日中でも張り付いていれば、すぐに本性が露わになるだろうと考えたのだ。
彼女はやはり「頭の良いバカ」だった。
妻のいきなりのストーカー宣言にもあっさりと許可を出したキモイストス。
そんな彼の態度に余裕の現れかと歯ぎしりするマースだったが、ひと月ふた月と執務室に通い続ける間に、彼女の中にとある疑問が膨らんでいった。
なぜか王国財政部の責任者から送られてくる他領地の経営報告書の写し、その金額を彼女の持つ情報と示し合わせても正しい値に直しているのが夫で、更に彼は根拠となる書類をいくつか添付して再び財政部に送り返している。
ごく稀に王族の印章の押された蝋封が届き、その翌日には事業が好調でなどと嘯きながら妻には高価なプレゼントが、使用人には広く臨時ボーナスが与えられていた。
時期的に有り得るはずのない彼の悪行の噂が人の口に上れば、ほどなくしていずこかの貴族家が消えていく。
共に社交の場に立っていれば、いかにも不快なタイプの貴族がニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべゲヘヘェ夫婦を取り巻き、その罪を仄めかせるような発言をしてくることもあったし、後日そんな彼らの招待を受けたのであろう外出も夫はしていたが、同じ人間が三度以上彼の前に姿を現すことはなかった。
ごくごく一般的な令嬢であれば、これらの事実に気が付くことはなかったかもしれないが、マースはバカではあってもけして頭の悪くない女だ。
そうして、執務室通いが三ヶ月目に突入しようかという日、ついに彼女は悪役顔の夫へとこんな言葉を投げかけた。
「何か……手伝いましょうか……」
そんな妻の申し出に、キモイストスは可笑しそうに答えを返す。
「おやおや。私を更生させる前に、君が先に悪に染まってしまったのかな」
「えぇ、えぇ。
旦那様がその悪事を私に隠しもしないもので、すっかり貴方色に染められてしまいましたわ」
彼女の言い様に、ゲヘヘゲヘヘと汚い笑いが空気に踊る。
マースが彼に付きまとって分かったこと、それはゲヘヘェ家自体が偽悪の一族であるということだった。
彼らはその誤解の受けやすい顔面でもって悪をおびき寄せ、多くの罪を人知れず暴き裁く、王国の暗部に生きる者たちだったのだ。
悪への撒き餌としての立場は常に命の危険が伴い、また罪を精査する者として日々尋常ではない量の書類に囲まれている。
ゲヘヘェ伯爵家のやたらの羽振りの良さも、そんな苦労ばかりを背負わせてしまった彼らに対するせめてもの償いとして、王家から多額の報酬が与えられているからだ。
そして、おそらく父バオヤは彼らの実情を把握していたとマースは睨んでいる。
きっかけは、母ザンギアの経歴だ。
当然のことながら、マースの母が元海賊の頭であったなどという不穏すぎる過去は、周囲には隠されている。
が、当時ゲヘヘェ家はそれを突き止め父に接触してきたのではないか、そして、マースの両親が罪に問われず今日まで睦まじく暮らしている裏に、父が滅多に家に帰ってくることのない事実が関係しているのではないか、と推測していた。
ただ、彼女には真実を掘り起こそうとする心はなかった。
終わってしまった過去について、今更ただの好奇心で引っ掻き回して良いものではないだろうと考えたからだ。
「……ずるい手口だわ旦那様。
あんな初手から期待されていたと知っては、応えたくなってしまうのが人情というものではないですか」
苦笑いぎみに、暖かな視線が妻から夫へ向けられる。
彼は己の口から慣れ親しんだ笑声が漏れるのを我慢できなかった。
キモイストスが欲していたのは、彼の横に並び立てる存在だ。
悪名高い蛇男の元に嫁がされ、周囲からの悪意に晒され、日々さめざめと泣き暮らすようなか弱い妻では論外。
だからこそ、彼もバオヤに強制連行されて来た無表情な娘には興味が持てなかった。
だからこそ、彼は現実を知った上で尚かつ自らの意思を柔軟に貫くマースを好ましく思った。
「貴女は常に私の期待以上だったさ、マースグリンデ、愛しの妻よ。
改めて、悪名高きゲヘヘェ家へようこそ。私は貴女を我らが同志として心から歓迎しよう」
「ありがとうございます、キモイストス、私の旦那様。
貴方の奸計に落とされすっかり絆されてしまったので、妻として恥ずかしくないよう努々勉めさせていただきますわ」
マースとしても、彼の存在が悪ではないと知り一から評価を見つめなおしてみれば、外見こそ趣味から大きく外れてはいるが、己への誠実な態度も、軽薄ながら確かな愛を湛えた瞳も、夜に分け与え合う体温も、こうして小気味良く交わされる会話も、一生を隣で過ごして不足はないと思える程度にはすでに少なくない好意を抱いていた。
女だから若いからと一纏めに侮ることもなく、マースを彼の戦場に共に立たせようとしてくれているところも大いに気に入っている。
「あ、ですが、旦那様。
我が子にはそのような下品なゲヘヘ笑い、継がせるつもりは一切ありませんから、そのおつもりでいらして下さいね」
「えっ、いやしかし、これは我が伯爵家が初代より欠かさず継いできた慣わしのひとつで……」
「世の中は日々移り変わっておりますのよ。
時代にそぐわない因習をいつまでも残していては、足元を掬われる要因になりかねません」
「確かに貴女の考えも間違ってはいないが、だからといってそんな簡単に……」
「まぁ、その伝統が継ぐに相応しいエピソードでも含んでいるのでしたら、私も頑なに否定はいたしませんが」
「……………………少し時間をくれないか」
「では、リミットは私が出産を迎えるまでということで」
「分かった、なるべく早く結論を出す」
「お待ちしております」
こうして、ゲヘヘェ家の悪に染まった元子爵令嬢は、蛇顔の夫の傍らで、そうと悟らせない手腕で手綱を握られたり、奇跡のバカを発揮し難事件を最高の結末で片付けたりしつつ、二男三女の子宝に恵まれ、いつまでもいつまでも睦まじく幸せに暮らしたのだという。
めでたし、めでたし。