Brunette
Solitaireにおける1日の客数は、片手で十分たりる程度である。大通りにある格式高く仰々しい店とは違い、いつ来店しても店内には店主しかいない。
いつ潰れるかと思うと心配で来てしまう、と零す常連の船乗りに微笑を返す店主はいつも身なりをきちんと整えて客を待っている。
老婦人、船乗り、若い女性に男性、さまざまな客がいる。
そしてその“さまざまな客”達は、さまざまな目的を持ってこの店にやってくるのだ。
カラン、とドアベルの音がした時、店主は修理部屋の中にいた。そろそろ昼時のこの時間、客が来るのは珍しいと慌てて前に出る。
「いらっしゃいませ」
反射的に声をかけたのと、客人の姿を認めたのはほぼ同時だった。決して明るいとは言えない店の中で客人の赤いドレスはお世辞にも溶け込んでいるとは言えない。
「・・・いらっしゃいませ、イザベラ様」
それはよく見知った人物だった。
大きく胸元の開いたドレスに映える白い肌。そしてそこにかかる柔らかに波打った黒髪。
長い睫に切れ長のすっきりとした瞳。棚に置いてある古びたグラスを気だるげに手に取る姿すら美しい。
街の中で彼女を知らないのは無垢な子ども達くらいのもの。紳士達は奥方に気づかれないようにその姿を目で追い、婦人達の大半は彼女に良い顔をしない。
彼女はとびきり高級な娼婦である。
「その呼び方しないでって言っているでしょ?」
改めて迎えの挨拶をした店主に彼女は横を向いたままで言う。ツンとしたその言い方もたまらないのだと、到底彼女に手を出せない街の旦那方が話していた。
「あと敬語もやめてって言ったわ」
「ですが・・・」
「私は今日、客として来てるわけじゃないの」
棚に戻されたグラスがキラリと光る。
彼女がこの街に流れ着いたのはいつだっただろうか。やって来たその日から、紳士達は若く美しい彼女の虜になった。
一目見舞えることも難しい彼女がこの店に居ると知れれば、きっと各々貢物を持って駆けつけるに違いない。
「マダム・ディヴリーとはお茶会する仲なんでしょ?私にだってそれくらいしてくれるわよね?」
ふふっと笑って流し目で店主を見る。
「ちゃんと名前で呼んで。敬語もやめてくれないと、あることないこと言いふらすから」
どこの街でもそうだが、夜に生きる者達の情報網をあなどってはいけない。脅迫に見せかけた可愛らしい我侭には、店主が折れるしかないのだ。
やれやれといった様子で苦笑して、店主は一度小さく咳払いをした。
「いらっしゃい、ラーレ」
夜の街でイザベラと名乗る彼女の本名を呼んでやれば、満足そうに微笑んでやっと正面を向き直る。
彼女の本名を知っている者は、片手で事足りるほどしかいない。そのうちの1人ということは、彼女がどれほど気に入っているかの証でもある。
「私の名前、忘れちゃったのかと思ったわ」
「まさか。・・・何か探し物でもあるんじゃない?」
「違うったら。お客じゃないって言ったでしょ?」
「そう?それじゃ、奥へどうぞ」
微笑んで手を差し出すと、彼女はそっと自分の手を重ねる。路地で客引きをする女達のように腕に絡みつくこともなく、気品を持ってエスコートされる。それがこの街の高級娼婦達のプライドの体現だ。一歩踏み出したとたんに薔薇の香りがふわりと舞う。
「今日はどうしたの?休み?」
「えぇ。たまにはゆっくりさせてもらわないと、ね」
「売れっ子がこんな所にいていいの?デートのお誘いをしたいお客はたくさんいるだろうに」
「あら、いけない?」
ケーキとティーカップを前にラーレが微笑む。そうじゃないよ、と微笑み返して店主も席についた。
「だってあなた、絶対店に来てくれないじゃない」
「敷居が高すぎるよ」
「娼館に敷居もなにもないでしょ」
「君のいる店は貴族の方々御用達だ。一般民は恐れ多くて行けないよ」
苦笑する店主をじっと見つめてうそつき、と囁くように唇を動かす。テーブルに両肘をつけば豊満な胸が白いテーブルクロスに乗って誘う。
猫のように目を細め、くすくすと笑う彼女の前では家で待つ奥方の顔を忘れてしまう紳士も多いのだが、店主はただ優しく微笑むだけだ。
「ただあんな店が嫌いなだけのくせに」
「・・・ラーレのことは嫌いじゃないよ」
「あら、嬉しい」
微笑む彼女に店主ももう1度微笑み返す。そして店主がティーカップに口をつけた時、ラーレがゆっくりと立ち上がった。
「ねぇ、そろそろ教えてくれてもいいでしょう?あなたのお名前」
「好きによんでいいよ」
「そればっかり。つれないのね」
薔薇の香りが店主の脇を抜けて後ろに回る。両肩に細い指の感覚がしたかと思えば、それは滑り落ちるように前へ抜け、柔らかな胸の感触を押し付けられた。
「ねぇ、いつ来てもここには素敵な物がたくさんね」
「ありがとう。何か欲しい物があった?」
そっと首を抱くようにして耳元で囁く声に店主が抵抗する様子はない。
上手く彼女の腕をよけながら紅茶を飲む姿からは、やせ我慢をしている様子も動揺している様子も感じられず、彼女の色香にまったく興味が無い、といった様子で微笑むだけだ。
実際、本当に興味がないのだろう。
「月並みだけれど、あなたが欲しいわ」
「それ、君がお客に言われたらどう思う?」
「馬鹿らしくて笑っちゃうわ」
そして2人で少し笑う。でも本当よ、と艶やかな唇が囁いた。
「あなただけよ、私のものになってくれないの。あなただけでいいのに」
「自分が男だなんて、いつ言ったっけ?」
「あら、そんなのどっちでもいいのよ。どちらでも愛してるわ、あなたなら」
それは光栄だ、と店主が微笑むと彼女もまた妖艶に微笑んで見せる。
それとも、と動いた指先が店主の首筋をスッと撫でた。
「教えてくださるの?」
きっちり襟元まで閉じられたボタンが、2つ目まで外される。だが女性らしい胸元も、男性らしい胸板も覗き見ることができない。
そこから、ラーレの指先が滑るように進入してきても店主は動じる様子も抵抗も見せない。
指は鎖骨を滑り、その奥へ入り込もうとする。だが、鎖骨を通り越してすぐ、なんとも浅い所でその動きは止まった。指先に触れた硬く細い、何かが当たったのだ。
思わずそれをゆっくりと引き出した彼女は、出てきた物を見て息を呑んだ。その気配に店主は明るく笑う。
「ほら、やっぱり探し物があったんだ」
それは古いペンダントだった。店主の首から下ろされ、自分の手に渡されたそれを見てラーレは納得のいないような渋い顔を見せた。
「あなた、手品師?」
「いや、まさか。ここの店主だよ」
おどけた様子で笑って店主は立ち上がり、ラーレと一緒にそのペンダントを覗き込む。
金古美の鎖の先に楕円のペンダントトップ。そこには花の模様が彫られている。実際はそこまで値の張るものではないのだが、その佇まいは高級品を思わせる。
「手品師じゃないなら、どうしてあなたがこれを持ってるのよ」
「君の店、最近誰か辞めたでしょう?」
その含みのある言い方に事を察したラーレは、あぁ、と呟いて更に顔をしかめる。だがその表情とは裏腹に、ペンダントトップを撫でる指先の動きは優しい。
「旅費の足しにしたいから買ってくれって、色々持ってきてくれてね。その中にあったよ」
「どこにいったのかと思ったら・・・手癖が悪いったらないわね」
「仲が悪かったの?」
「あら、向こうが勝手に突っかかってきていたのよ。私は応えてあげただけ」
ふん、とそっぽを向く彼女に店主は苦笑いする。
彼女達に貢ぐ花を隣の花屋に買いにきている紳士達から、少しばかり噂は聞いていたのだ。歳も背格好も近いラーレともう1人の折り合いが悪く、よく衝突していると。
挑発し合い、時には客の前で罵り合うこともあったという。また、いつもは澄ましているラーレが、その時ばかりは幼い少女のようで可愛らしいのだとも。
なるほどこれは少女のようだ、と密かに微笑む店主に彼女は気づいていない。
「それで、それがどうしてあなたの首にかかっているわけ?」
「鎖が切れていたから直したんだ。長さは大丈夫か確かめている時に君が来た」
そう言いながら指差した鎖の一箇所は真新しい色で輝いてすらいる。だがこれも大事に使っていれば色が落ち、細かい傷もついて、さも昔からこうであったような風合いに変わるだろう。
「これ、私の物だってわかっていたの?」
「すぐにわかったよ」
「どうして?」
名前なんて書いてあったかしらね、と疑い深い目を向けるラーレの手からペンダントを丁寧に取り、ペンダントトップの側面に軽く力を入れる。
するとそれはカチッと小さな音と共に開き中に収められていた小さな写真が姿を現した。
「これ、君でしょ」
そこには老いた男性と幼い少女が写っていた。少女を膝に乗せ優しい表情をする老人とは違い、少女の表情は緊張しているのか、とても固い。口を真一文字に結び老人の服をギュッと掴みながらもカメラをまっすぐに睨みつけている。
ラーレとは似ても似つかないように思えるが、たしかにこれは彼女本人らしく、店主の言葉に嫌そうな顔をした。
「どうして私だってわかるのよ」
「だって面影があるし」
「まぁ!なんのためにお化粧してるんだか!」
「君を抱いているのはお祖父さん?」
「そうよ。このペンダントが最初で最後のプレゼント」
再び自分の手に戻されたペンダントを指先で撫でながら、ラーレは横目でティーセットを見た。まだ少しだけカップの中身は残っているのだが、もう片付けていいわよとそっけなく言う。
まるできまぐれな猫のような態度を咎めるわけでも、不満を漏らすわけでもなく片付け始める店主だからこそ、ラーレに気に入られていると言えよう。
「ねぇ」
しかしその呼びかけに答える時には手を止めなければいけないことも、店主はしっかりと心得ていた。
ん?と振り返った店主の方は見ず、むしろ背中を向けて彼女が言う。
「あの子、元気だった?」
「・・・元気だったよ。郷に帰るんだってね」
「えぇ。・・・あの子が持ってきた物、それなりのお金になった?」
「うん。少しおまけもしておいた」
「じゃあ、ちゃんと郷まで帰れるわね」
「・・・そうだね。余るくらいだと思うよ」
娼館に流れ着く女達のほとんどが何かしらの理由を抱えている。ただ稼ぎが良いという理由で働く者もいれば、娼婦になるしかなかった者もいる。
自分の過去を武勇伝のように語る者もいれば、頑なに明かそうとしない者もいる。ペンダントを持ってきた彼女は気が強い分明るく、自分のこともよく語る女性であった。
7人兄弟姉妹の4番目で、一番上の姉とは11歳離れている。生まれた頃にはあった膨大な借金を家族総出で返すため、少しでも多い稼ぎを求めて街から街へ。幼かった妹弟も働き始め、やっとほぼ全ての借金を返し終えた。気づけば、故郷に帰るのに2日では間に合わないほど遠くに来てしまった。と査定する店主に笑顔で語っていったのだ。
「そ。・・・それなら良かった」
そっけない声でラーレが呟く。その背中はどこか寂しそうで、その声はどこか優しい。
思わず店主が目を細めていると、勢いよく振り返った。
「これ、いただくわ。おいくら?」
「いいよ、そんな」
「だめよ。きちんと商売してちょうだい」
けろりとした表情で言う彼女に無粋なことを言うべきではない。
じゃあ、鎖の修理代だけね。と言えば呆れた様子でお人好しね。と笑った。
「じゃあ、また来るわね。ハニー」
玄関まで見送りに出た店主にラーレが微笑む。ちょうどパン屋から出てきた紳士がその姿を見つけ、目を丸くしている。
だがそんなこと彼女にとってはどうでもいいのだ。高いヒールでカツン、石畳を一歩踏んだ娼婦の背中に店主が声をかけた。
「今度、一緒に食事でも?」
せいぜい、ありがとうございました。程度の見送りしかしたことのない店主の言葉にラーレが振り返る。
2人から目を離せずにいる紳士ほどではないが、ほんの少し大きくなった目には驚きが詰まっているように見えた。
「あら、私と食事なんてしていたらお店の評判、落ちちゃうかもよ?」
「友人と食事をしたいだけだよ。何も悪く言われることなんかない」
「友人、ね。まぁいいわ」
少々不満げな様子を見せて道の中程まで歩いたかと思いきや、ふいに体を回転させて振り返る。
「楽しみにしてるわ!」
まるで無垢な少女のような笑顔には夜の街で生きる女の影などない。
ふわりと舞った黒髪と真っ赤なドレス。白い肌に映える古いペンダントは、まるでお守りのように見えた。
【黒髪】
閑話的なものと思ってください。
長い黒髪が似合う女性が羨ましいなと思います。私はずっしり重くなるタイプです。